自分の中の制約を取り払う

確か『壁』というタイトルの本ーーいくらネットやAmazonを探してみてもなぜか見つからなくないーーが、そういう趣旨のことを言っていた気もするし、今となってはこういうことは誰もが言っていることだと思うが、我々は心や習慣の中に壁を作っている。

走る速度や持ち上げられる重量の上限といった物理的限界、人の権利を侵害する法的限界がある一方で、その壁というのはもっぱら心理的な壁である。そして心理的な壁は、無自覚な壁であったり、道徳的な壁だったりする。

無自覚な壁というのは、本当はもっとできるはずなのに、気付いたら自分でセーブしている状態のことだ。道徳的な壁は、それと関連することも多いが、ここではざっくりと世間体を気にすること、と言っておく。宗教道徳的に悪いというよりは、世間体である。もちろん宗教道徳的に悪いということもあるだろうし、宗教道徳もまた超克可能な壁だと思うが、こちらには法的側面が湧いてくるので話が複雑になる。よってここでは捨象する。

自分の中の制約は気付くと生まれているもので、わかりやすいところを言えば、ネットで炎上的な振る舞いをしている人は制約を外している人だと言える。普通の人はできないし、道徳的どころか法的にスレスレのゲームをしていると思うが、そういうことを推奨しているわけではない。わけではないのだが、たとえば自分の中ではちょっと過激だと思うようなことを、多くの人には普段やろうとはしないはずだ。

そちらが比較的大きな例だとすれば、僕がよく思う小さな具体例は、たとえば仕事が遅れていたり仕事の返事を返さないのにSNSは熱心に更新している、というパターンだ。僕は大分気にする方だが、他方、相手方がそういう振る舞いをしているケースもたいへん多く見てきた。個人的には、そういう縛り合いは不健全なので自由にすべき(何ならその意味においてはどんどんSNSを更新すればよい)と思っているが、他方自分の場合は「あいつ仕事サボりやがって」みたいな見られ方をするのは嫌だな、と思ってしまうのでしにくい。そういう風に抑制するのが自分の望みならそうすればいいのだが、しかし、自分が本当はSNSを自由に更新したいのなら?

したいのなら、すればいいのである。僕は最近、そういうことは大事なことだと思ってきた。現実には時間指定投稿などを駆使せざるを得ないこともあるが、思ったことはすぐに書いておきたいと思うことは自然なことだと思う。確かビリー・アイリッシュは、思ったことをすぐにSNSに書き込むのはよくないことで、やめてよかったことの一つ、と言っていたはずだが、ここまでのインフルエンサーだからこそのことだな、と思う。SNSはどちらかといえば健康には悪いから、そういう意味でも本質的には正しい。だが、SNSを自由に更新するということは、それ自体として具体例であると同時に、実際には比喩である。本当はしていいこと、してもいいこと、したらいいのにということ、しても問題ないのにということはある。そういうことをしないのは自分を狭めていく。

壁の壊し方は自由だ。大きく壊すことも可能だが、小さく壊すことも可能である。たとえば引っ越しや転職をしたら大きく常識が壊れることになるから、それを能動的に活かすことができる。不本意だが病気や事故でそういうきっかけを得られることもあるだろう。小さいことは、たとえば物を捨てるとか、あるいは新しいものを買ってみることがそれに当たると思う。

それでいうならば、僕は物をどちらかといえば買いがちで、買う以上に捨てないタイプの人間なので、捨てるということが小さいけれどインパクトのある行いになると思う。特に、本を捨てるという行動は、考えられないことだとずっと思っていた。こんまりがときめきどうこういう度に、本のほとんどにそれを感じているわいと思っていた。引っ越しのためやむにやまれずということはあるにせよ、そうでもなければ処分などできない。けれど一冊二冊くらいからなら捨てることもできるはずだ。デカルトが微分積分についてそういうことを言っていた気がするが、困難は分割せよ、である。小さいけれどインパクトのあることというのはある。たとえばテレビを捨てるとか、そういうことにも意味があるだろう。どちらかといえば買うより捨てる方が効果的だと思うが、逆に贅沢品を買ってみたっていいわけだ。僕は興味があまりないけれど、身の丈に合わないブランド品を買ってみたら、すごくテンションが上がるかもしれない。変化はやったことのないことからしか訪れないと思う。

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