021 | つぶやこうとしたら長くなってしまった南三陸町の思い出

画像の1つも載せてつぶやこうと、キー叩き始めたら140文字で収まらなくなり、マガジンに組み入れる事にした(注:暗い気持ちになるかも知れない画像が含まれます)。




2012年初夏、6月

デザインワークをお手伝いしたご縁で呼んでもらった岩手県平泉で

イベントに参加したり、輪行で持ち込んだ

フォールディング・バイクで自転車観光したりした後、

宮城県の南三陸町に向かった。




震災から1年以上経っていたけど

茫漠としていて現実感がなかった。

嬉しくない意味で異世界のようだった。




2016年現在、保存か解体かで県の預かりになってる

南三陸町防災対策庁舎跡は、普通に間近まで行けた。

場所や、それが防災対策庁舎だとは

知らなかったけど、遠くからでも

異様なものがあるのが見えたから向かってみた。


近づくにつれて、これはマズい事になると思った。

眼前まで行ったらもう駄目だった。

なんとか倒さないように自転車停め

献花台の手前でうずくまってしばらく泣く事でしか

その場にいる自分を維持できなかった。


・・どうして、こんな事になってしまったのだろう


詮無い想いがグルグル回った。

私は、南三陸町はもとより

東北全域に知り合いはいないけど

防災対策庁舎跡はそういう場所だった。

落ち着いてからもそこで写真は撮れなかった。


そもそも南三陸町の10数km手前、

まだ峠道のような山道を走っている時道沿いに

津波によってスクラップになったと思われる車が

山積みにされているのが見えた時点で

少し泣きながら下り坂を疾走していたのだけど。




その直後に辿り着いた、まだ山に近い高台の

南三陸さんさん商店街(2012年2月オープンの仮設商店街 ※1)は

私のような物見遊山の観光客もいたし活気があった。

そこではいったんニコニコ元気になって

土産に名産品を物色したり

美味しい海鮮丼を、店の大将と

お話しながら頂いたりしたのだけど。




解体する為に鉄板の塀で囲まれた志津川病院の前を、

中学生らしい制服姿の少年と少女が

普通に歩いているのが見えてまた泣けた。


・・彼らの日常はここなのだ


その廃病院の向かいには、

倒壊した建物に囲まれてガソリンスタンドがあり

自らも被災跡を残しつつガッツリ営業してて

給油を要する車を受け入れていた。

(志津川病院は2015年に南三陸病院として志津川沼田に再建されました ※2)




この時はまだ応急的に瓦礫が集積されている。

右側の巨大な黒い物体はたぶん蒸気機関車。

そんな歴史の象徴みたいなものも

津波が来れば一緒くたに流されるという当たり前の事に

あらためて愕然とした。




当時、南三陸に一番近くまで鉄道車両を通していた

JR気仙沼 線柳津駅(やないづえき)に向かう途中、

震災の時被災者を受け入れた高台のホテル観洋の前を通ったら

その駐車場がマイカーらしい車でいっぱいになってるのが見えて

なんだか嬉しくなった。

物見遊山でも観光客でも何でも

宿をとってまで訪れる人が沢山いるのだ。

(最初の画像のやや右に小さく写っているのがホテル観洋 ※3)





この時の半日ほどの記憶が

私が東日本大震災を忘れて生きる時間を

大幅に短くしてくれている。


追記:自転車旅行では土産を殆ど買わない、物理的に携行できないから。まぁ携行できなきゃ別送すれば良いのだけど、つまんないところが潔癖(と言うか面倒臭がり)な私はそれもしない。が、この時はさんさん商店街でガッツリ物色、まとめて宅配便で送ってもらった。これはその逸品の一部、復興祈願「南三陸」の本醸造と純米酒、とっても美味しい。早々に呑んじゃって勿論もう有りません。




※1) 南三陸町さんさん商店街
http://www.sansan-minamisanriku.com

※2)ホテル観洋
http://www.mkanyo.jp

南三陸町・ホテル女将「町民を救った180日間」
http://nikkan-spa.jp/76586

※3) 南三陸病院
http://www.minamisanriku-hp.jp/

津波に浸かった南三陸町の公立病院、台湾の義援金22億円で復活
http://www.huffingtonpost.jp/2015/12/14/taiwan-minami-sanriku_n_8808616.html