見出し画像

いろいろと言われている電通を、てっとりばやく理解する最適のテキストは、山本夏彦の「私の岩波物語」だと思う。

電通はかつて山本夏彦翁が危惧したとおりになった。

 「私の岩波物語」は山本夏彦がまとめた日本出版界の現代史です。
 この中に出版にからめて電通について触れている部分があり、これほど簡潔で読みやすく電通を理解する記述は少ないのではないかと思います。
 1987年から93年の間に雑誌「室内」(山本夏彦の雑誌)に連載されたものです。
 この中のわずか2項目で、電通がどうしてこうなったのかが丸わかり、以下、ざっくりとまとめてみます。

「電通世界一」「電通以前にさかのぼる」

かつて広告代理業というのは、たいへんに賤しい仕事と見られていたのです。

 電通が巨大企業になり、華やかで、若者の憧れでもあった時代に書かれたものです。
 山本夏彦は広告が大好きで、広告は虚飾が加わっていることを前提として読まれるから安心で、岩波や朝日が知性を売り物にして権威となり、多くの人が盲目的に信じる存在になっていることを危ういとするのが、この本全体の趣旨とも読めます。
 まぁ山本翁も中庸の人ではないので、かといってという異論も無きにしも非ずです。

 さて広告に話を戻します。
 かいつまんでいうと、広告代理店を戦前までさかのぼり、広告外交員の時代から振り返ります。
 当時の広告メディアは主として紙媒体です。新聞や雑誌の広告の枠に、個人事業主の外交員が広告主(商店や会社)から広告をとり、媒体に持ち込み掲載してお金を抜きます。
 掲載料金は状況によってかわり、空いているところに広告を突っ込んであげれば掲載料は安いので、中抜きの金額も増えます。
 そこのやりくりが広告外交員の腕です。
 そのため広告主の担当窓口と遊んで仲良くなります。飲ませ食わせて時には抱かせてねんごろになり、広告の発注を引き出します。
 こうしていくつかの窓口を抑えれば、広告の外交はとんでもない収入を手にできるので、そのために派手に遊んでお金を使っていました。
 ですからまともではないヤクザな賤しい職業ともみられていたのです。
 そして代理店はそういった個人外交の腕利きと契約もしていました。

 戦前は出版界に強い博報堂の時代でした。
 戦後、電通は混乱期にもかかわらず復員してきた(戦前のヤクザめいた)外交員たちを積極的に抱えこみました。
 加えて今後の放送メディアの発展にベットして、新しい市場開拓に注力します。
 この二つが功を奏して急成長を遂げ、博報堂の牙城を崩し、世界一の代理店となりました。
 ポイントは、まともな商売ではなかったことを知っていた人達が、1970年代終わりぐらいまでは社内にいたということ。

山本夏彦翁の慧眼、なぜ電通は今みたいになってしまったのか?

 個人的な回顧として、80年代には電通に入れるなんて、高学歴、コネと家柄、人柄、性格的適性、能力のレーダーチャートの総合ポイントがかなり高くないと、とても手の届かない憧れの企業でした。
 実際にテレビ界の端にいて知り合った電通の人達は、現場の側に立ちながらもスポンサーと向き合ってくれ、ビジネスパートナーとして嫌な人たちは(いわゆるギョーカイ臭の好みは別にすれば)少なかったし、信頼尊敬できる人も多く、トラブったときのケツ持ちとしても腹の座った人が多かった記憶があります。

 そんな電通が今は社会の嫌われ者なっています。
 権力におもねり、汚いズルいことをして、金儲けする会社の代名詞となっています。
 どうしてこうなったのか?山本夏彦は現代広告の仕組みやメカニズムを面白く説明したうえで当時こう書いています。

 もし電通が日本の言論を左右したければできるだろう。その気がないのはついこの間まで賤業で、幹部のそれを知っているものがまだ生き残っているせいで、近く死にたえて電通をはじめから世界一と思って入社した社員の天下になったら、どうなるか分からない。野心家が出てくる可能性はある。

 このとおり初めから世界一と思って入社した社員の天下になったのです。
 野心家が出てきたのです。

 なんで”その気”になっちゃったんでしょうかね~。
 かつての電通の人は、ヘラヘラとウマいこと政治とかにかかわらず、楽しそうでしたよ。

 詳しく知りたい方は是非読んでください。
 名著です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?