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正気の人生

「やっと、正気に戻った。長いこと気が狂っていた」

……実感だった。振り返ってみるとそれしか浮かばなかった。横浜中華街は人で溢れていて、忘年会の面々は気のおけない友人たちだった。いきなりの正気発言に、みんな「どういうこと?」って、驚いていた。

「うまく説明できるかどうかわからないけど、今年はっきり自覚したんだ。私は長いこと正気じゃなかった。頭がおかしかった」
「いまは正気なんだね?」
「いまはすごく正気だと思う。だからやっと自分が変だったことに気がついた。ずっと変だったから自覚できなかった」

 いや、時々は「おかしいんじゃないか?」って思った。だけど、どうしようもなかった。それが自分だったし、それ以外に為す術がなかった。
 なんて言ったらいいんだろう、いつも淋しかった。心細いとか、そういう感じじゃないんだ。たとえばなんだけど、私はみんなが楽しく雑談している時にその場から離れることができなかった。思えば十代の頃からそうだった。
 場の空気を壊すのがイヤだったのか? そういう事でもない、談話の場から自分だけが消えるのが怖かった。だからいつもトイレを我慢していた。友人たちと温泉に行く。自分一人で温泉に浸かることができない。お風呂に入りたいなと思っても、みんなが盛り上がっていると一人で抜けて風呂場に行くことができない。淋しいというよりも、その場を一人で立ち去るのがイヤだった。その理由はわからないが、とにかくそうだった。
 宴会が始まったら、中座して帰ることができない。とことん居るのだ。絶対に最後まで居る。途中で帰っていく人たちと見ると「なぜ帰れるんだろう?」って不思議だった。自分の方が変だと思わなかった。
 ものすごくわがままで自分勝手に見えるように振るまいながら、そうじゃなかった。一人になると心底ほっとした。だけど、すぐ人恋しくなった。人恋しい。誰かに会いたいとかそういうことではなく、一人になると自分が存在していないような、取り残されたような、そんな気分になる。だから人懐っこかったし、常に他者を必要としていたし、人の話はよく聞いたし、自分は人間が好きなんだと思っていた。

 それは嘘ではない。一面で真実なんだけど、焦ってた。隠そうとしていた。なにかを埋めようとしていた。なにを埋めようとしていたんだろう。どでかい穴だった。それは人に見られてはまずい。だから必死だった。決して埋まることがない穴を埋めるために全身全霊で汗だくになって、リア充しているような、そんな感じ。
 
「いま、学校ってとこに通って毎日集団生活をするようになったでしょう? 高校を卒業して以来、こんな生活してなかったからすごく新鮮なんだよ。でね、高校時代のことをよく思い出すようになった。……そして気がついた。今のほうがめっちゃ楽だ。生きてて楽だ、って。私は正気だ。昔とはぜんぜん違う。自分でいられる。ずっと自分でいられる。淋しくない。ぜんぜん、淋しくないし、なにかを埋める必要もない。帰りたい時にふつうにバイバイできる。自分だけさっさと席を立てるし、話を盛り上げようとがんばったりしないし、更衣室の会話に加わらなくてもハラハラしないし、どういう話であれ無理やり首を突っ込むこともないし、とにかく私は、正気に戻った。男の人の気を引くことにエネルギーを使う必要もないし、そもそも男を必要ともしていないから男友達としてつきあえる。手の込んだ色目を使わないですむし、戦術を練る必要もない。常に発情したメスみたいな状態からやっと脱した。思えば、若い頃は本能がぶっこわれた獣みたいだった」

 長い時間が必要だった。
 思えば半世紀も正気じゃなかった。一昔前の言いかたをすれば、アダルトチルドレンって奴だったのかな。アルコール依存症の親と、家庭内暴力を繰り返す兄の家で育って、神経症の母親がいて、そういう家族の中でものすごく気を使って「家族の仲介役」を演じてきた……ってことが人格形成に影響を与えたのかな。
 くだらん、何もかも後付けだ。理由はどうあれ私は正気じゃなかった。自分をまともだと思ってきたけど、ぜんぜんまともじゃなかった。いま、はっきり自覚できる。

 60歳を過ぎた頃からだろうか、海が凪いでいくみたいに、平静になってきた。人からどう思われるかをずいぶん気にしていたんだな、ってわかった。ああ、こんなに他人の目を気にしながら、他人の価値観で生きていたのに「私は人の目なんか気にしていません」っていうポーズをとってきた。そのポーズ自体がもう他人の目を気にしていたのに。
 姑息で、かなり手の込んだことをして自分を欺いていた。「なりふりかまわず」を演じてみるような、そんな感じ。
 なにもかもが演技だったような気がしてくる。そんなはずはないと思う。そのようにしか生きられなかっただけなのだ。正気じゃないなりに、懸命に生きてきた。まるで服を着たまま遠泳しているような感じだ。効率が悪いったらありゃしない。

 人生の節目、節目で「楽になった」と感じる場面があった。もしかしたら今回もそうなのかもしれない。もっと楽になれるのかもしれないが、とにかく今は人生で一番、息をするのが楽だ。
 無駄なエネルギーを使わずに生きていられる。力を抜くことができる。そんなに懸命にがんばらなくても、生きていられる。

 そういう話をしてみたら、友人の一人が「その感じ、すごくわかる」と言う。「すごくわかる。自分もそうだと思う…」。

「最近思うんだ。他人の心はわからないけれど、もし私以外の多くの人がこんなふうに正気で生きているのだとしたら、ずいぶん無駄なエネルギーを使って苦労して生きていたな、って。若い頃から正気で生きられたら、どんなに楽で、どういう人生だったんだろうか……って。でもまあ、この無駄なエネルギーのおかげで作家になれたとも言えるし、いろんな経験もできたから、それはそれで良かったんだろうけどね。すべては終わったことだし、過去の結果として今があるのだから、これが最善で、これが最高ってことなんだけどね」

 内側に空虚さを抱えていると、外側に意識が向く。社会適応するために全身全霊でがんばりながら、いつもズレていた。方向音痴が服を着たまま泳いでいる。

 一生懸命だったことだけは確かだ。ズレていたかもしれないけれど、それでも泳ぎ続けた。諦めなかった。……何に? どこかにたどり着くことに。

 他の人がどんな内面世界を生きているのかわからないから、なんとも言えないのだけれど、たまに「自分でいられる人」を見ると、羨ましいような嫉ましいような気持ちになった。

 だけど、そういう人によくよく話を聞くと「自分に自信がない」とか「居心地の悪さを感じている」なんて言われる時もあり「人は表面からの見た目ではわからないんだなあ」とも思った。

 どうなんだろう、多かれ少なかれ、みんな居心地が悪い感じを持っているんだろうか。さっぱりわからないが、とにかく私の居心地の悪さはとてつもなかったように思う。それも、正気に戻ったから言えることで、変だなと思っても自覚はできていなかった。

 薄皮を剥ぐようにして、少しずつ正気に戻った。ちょっとずつだったから自覚できなかったんだけど、今年、学校に入学して集団生活が始まった時に「集団の中でも自分でいられる!」って驚いた。昔と違う。何かが違う。何も恐れないでここに居る。

 ああ、本当に楽だ。何もかも楽だ。自分の要望をへりくだることなく、照れることなく伝えられる。妙なプライドも持たなくなったし、なにより、男を誘惑しようとか、男に媚びようとかもしなくなった。かつて男を獲物のように見ていたし、恋愛対象としか捉えていなかった。どう考えても男との距離の取り方は正気ではなかったと実感する。病的ですらあった……と。そうなんだよ、若い頃は恋愛依存だったんだ。間違いない。

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