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INFPがお金の話をする - 通貨の理想をつらつらと考える

水と油。INFPとお金。るんるんと現代社会。
でも、今回はハードモード。

理想の通貨、共同体、経済とは何か、本気で考えてみます。
でも、るんるんは経済学を学んでないし、金融の専門家でもないので。
あくまで戯言、思考実験としてお読みくださいね。
何か考えるキッカケになればいいなーと思って書いています。

仮想通貨(暗号資産)がもたらしうるもの

Fiat(法定通貨)とCrypto(暗号資産)の違い

  • 発行主体が違う

  • 信用の担体が違う (cryptoは無数の匿名の集団が共有する台帳)

  • 価値はどちらも交換価値で定まる(というより「価値」が相対的なもののため何らかの物差しがないと測れない)

  • 保管されてる場所が違う (cryptoは存在が自明)

性善説(crypto)に基づくか、性悪説(fiat)に基づくか、という言い方も乱暴には可能かもしれない。
その違いがゆえに、主体が共同体にあり、すべての参画が任意によってなされるか、そうではないか、という違いが生まれる。
そして、その任意性こそが、主体の自由と責任を担保する。因果の連環が、きちんとその主体に返ってくる。

なので、この問いは、では、統制を求める真の理由は何か?
ということになる。

人は生まれながらにして悪である、他人に害を為す存在である、という前提を置く必要、あるいは、都合のよい根拠は何があるのか?
Cryptoは性善説に基づいて行ったときの、実務上の障害をいくつか取り除き、主体的な経済圏の構築を可能とした。それで何が困る?

私なら、自由と責任、その成果を、行為者の主体のもとに確実においておきたい。

ではそうして自由にさせて、問題が起きたらどうするのか?
そもそも問題とは?
多くを幸せにすればその主体は拡大し、そうでなければ縮小していくだけ。なら、何がおきるのか?

奴隷、通貨発行権。
「われわれが私的に行う経済的活動の価値を国家が勝手に浮動させる必要性はどこにあるのでしょうか?」
「価値を定めるのはその受け手となる人々であり国家ではないはずです」

違うという反論がありえる。むしろ考えたい問いはその先。
統制を求めるのはなぜか?統制を嫌うのはなぜか?
統制がないと何がうれしいのか。

望みもしない社会に巻き込まれたくない、が私の本意かもしれない。
自由と責任を求めてる。
しかし、空間時間を共有し、資源に限りがあるなら利害は発生する。
その利害の解決、調整を統制に求めるのか?

責任は、自分の自由の範囲にしかない。
その外側ではいかようにも取れない。
ならば、すべての決定は自由意志によって任意と合意にもとづいてなされるべきでは?

それによってはじめて、対等な関係性が導かれる。
そして、その対等な関係性の中で、良きは好まれ、選ばれ、成長し。
悪しきは疎まれ、改善を求められる。
だが、疎まれても存在が否定されるわけでもない。

対等、これを導く自己決定権。これを求める。
その上で、実現される、各々の理想像こそ、得たい果実。

この発想の根底、前提には、性善説的な見方があるかもしれない。
人を踏み潰すような理想は、生来もとめるものではない、という発想。
結果としてはそのようなことはあるかもしれない。
だが、そのようなことになる前に、まともな人は対話、調和のもとに修正、解決を図る、ということ。

これが、人は管理されなければ問題を起こす馬鹿だ、
という(私からすれば)さもしい考え方と真っ向から対立する。
だが、ある程度まではこれも現実の事実かもしれない。

いずれにしても、よい人、賢い人、まともな人、を前提にすえた上で、ものは考えたい。下にあわせるのではなく、上にあわせる。
こと大きな枠組みでは特に。

中央集権から脱却することの意味

なぜ中央集権から脱却しなければならないのか? (negativeな視点の考察) 
あるいは、なぜ分散化するとお得なのか? (positiveな視点)

人々のためとは名ばかりの、不誠実かつ無責任な権力者集団がいる。
一方で、(交換)価値(=経済的意義)を担保するために、既存の技術では権威(信頼の概念)が必要ではあった。
技術により公正な交換と価値の担保ができるなら、中央集権が提供しうる価値は何が残る?

それとは別に、外形的な集団から人の行為に定義を勝手に付与してほしくない、という思いもある。

願わくば、人心をすべての上におきたい。

通貨発行権を発端とした権力構造により歪められた社会があるなら、その権力をなくし、人々の手に取り戻す。
有志が、それらの善意によって共同体を構成し、その中で経済的活動を行うのであれば、それは望ましい。

blockchainはそれを可能にするように見える。
誰もが、一国の主になれ、誰もが、好きな共同体に任意に参加できる。
いうなれば、その共同体に付与されたエネルギーが、価値、あるいは発行された通貨となる。これは、まずは主体と主体的参加者、という構成を第一に期待している、ということかもしれない。

残念ながら人は、規模の拡大にともない、個々の人に対して目が行き届かなくなる。単純に、多くを統治するだけの見識や能力をもたない、といってもいい。

それぞれの人には能力の差があり、器の大きな人物もいるとは思う。
しかし、お互いが対等でいられ、物事に対して真剣に、まっとうに対応していける規模には限界がある。
それは国、という億を数えるよりもずっと手前に。
必然的に、大きければ大きいほど、「中央」が為す行為は、個々の意志、利益からは遅れ、離れることになる。

しかし一方で、人類の歴史を見るに、集落から村、村から町、町から都市、都市から国へと。統合され大きくなってきたということもある。
行き着く先は地球で一つの統一政府で、これがいま2023年に起き、せめぎあっていることではある。
根本、人間の本質的に、そのような統治能力はないように見えるのに、一方でそれが望まれ、そうなってきているようにも見える。

ただ、これは単に力の非対称性に起因するものかもしれない。
個別の細胞は、反乱を起こしたところで白血球に貪食されるのみ。
これをもってして、意思の欠如をいうことはできない。

集団がその規模を拡大しようとする動機は、利益の拡大、あるいは利害の調整、ということに求められるだろうか?
規模は力であり、それだけ大きなことを成し遂げることが可能になる。
それは望ましいことであるはず。

主体性を求める、ということかもしれない。
シンプルに、管理されたくない、といってもいい。

資本主義において投資家は偉い。圧倒的に。権力者。
といっても個人はそうではないが、これこそが拝金主義を生み出している要因のひとつ。
金を稼ぐのが至上命題になっており、手段が目的になっている。

金 = 資源管理の一元化。
資本主義社会 = 資源の収奪大会。

blockchainは本来の動機に基づいた、直接的な個人間のやりとりを可能にする。自由意志と合意だけに基づいた経済活動。そして、そこには公正な記録が残る。

Cryptoをそれとして持つ vs Fiatに換金して持つ

換金するということは、法定通貨のルールを暗号通貨に強制する、ということになる。
つまり主体性の剥奪。自由な経済圏を個人がもつことを認めない。
その共同体に、外部から意志を強制させようとする試み。
じゃあ何が困る?逆に主体性があると何がうれしい?

共同体が、自由に自分の理想、幸福を追求できるようになる。
その可否は、まさにその通貨、主体的な参加者の数で外からは測られる。
自由と責任の所在は同一で、そこに問題はないように見える。

「どうせ人は他人の責任は取れないのだから、それができると嘯くのはやめろ」という思い。

徳、カルマみたいなのを評価する経済圏みたいなのがあっても面白いかもね。新興宗教ちっくだけど。

分散化、とは中央集権、もっといえば中央銀行の否定。
中央銀行とは、資本主義において、その権力構造の中心、権力の源泉。
よって、資本主義の物差し(「投資家保護」)で計ろうとすることが、そもそもの間違い。飽くなき奪い合いを本質とする資本主義からの脱却。
とするなら、cryptoは資本主義の世界における通貨とはまた、異なる趣、性質があるはず。

経済活動は、資本主義でなくとも、人が社会で生きるなら行うことになる。その活動の成果、対価、という意味での貨幣はあれば便利だと思う。
資本=あらたな資源を生み出す源泉、とするなら、必然的により収奪し、資本を蓄えることが、生存戦略として有利になってしまう。

楽に豊かに生きたい。これはそうだと思う。
その欲を利用し、支配に使っているのが既存のfiatであり通貨発行権だけど、この欲自体はそれとは関係なしに存在するかもしれない。
永遠の奪い合いを実現するために、借金というラベルを生み出さなければならない、のが通貨発行権かもしれない。

そもそもなぜ経済的活動をする?
生きること、余暇を楽しむこと、新しい何かの実現のため、など?
ぜんぶひっくるめて、「生きること」そのものに「経済的活動」というラベル付けは可能かもしれない。

PoS vs PoW

  • PoSとは、Proof of Stakeのこと。

  • PoWとは、Proof of Workのこと。

ともに、仮想通貨(暗号資産)を流通させる基盤であるBlockchain技術における、歴史の紡ぎ方を決定する手法のこと。
端的には、台帳を誰がどうやって記帳し、めくるか。

前提となるこれまでの私の理解

PoS = 金持ちが、歴史を紡ぐ。
PoW = 働き者が、歴史を紡ぐ。
∴ PoSは資本主義、つまり権力の源泉が金、ひいては収奪、という世界観から脱却しない。だからおそらく、PoWを必死に押しやろうとしている。
ここで、権力とは人々を不幸にする根源。(権力が階層構造、上下関係、非対称な世界(=人々を自然な対等関係から離れさせる根源)を生み出す、という考え)

問い: 金持ちが歴史を紡ぐと何が困るのか?

自由に反するから。だと思う。
真に自由(独立しているということ、自己決定権があるということ。)かつ、
平和、平等であるためには権力、社会の階層構造は不要。
ただし、一方でこれは個人個人が生きるのに必要十分な能力と資源があることを求める。

  • 他人は基本的にまともである

  • 他人も自分がそうするように他者を侵害する意図を原則的にもたない

こういう世界観によってたてるなら、権力の存立基盤はなくなる。
そしてこのとき、資本主義、すべては金がものを言う、世界観は自由を歪める最たるものでしかない?
働かされる、働かせる、のではなく、自由意志をもって、個人の望む働きをする。

ただし、社会の存続にはそれを維持するエネルギーが要り、また個人においても同様に食べていく必要がある。
言うなればその「エネルギー」を数値化した概念が「お金」であり、純粋な意味での概念化であれば、そこに有用性もあるように思える。

E=mc2のような、「活動そのもの = エネルギー = 働き」と「活動の対価 =物質 = 資産」の両方の相を一つの概念で表現したものがお金と言える。
豊かさを求めて、人々はその虚無から生まれる概念の奴隷と化す。
あるいは、自由意志によって生み出された何かに貼り付けられたラベル?

しかし、自然の世界では重力があり、大きいものにはより多くが引き寄せられ、集まる。
この考えによってたつと、金が金を呼ぶのはそれ自体は自然の摂理にも見える。それに抗いたいのか?
あるいは、個人、やその自由意志、は自然の摂理に反するのか?

願いは、幸せ、かもしれない。

誰の意思にもよらず、ただ自分のみの思いに従い生きているときが、人はもっとも幸福だと思うから。自由意志を歪め、働きの価値を搾取することを助長するような重力には問題がある。

問い: ではなぜ重力(資産)が搾取を生むのか?

重力自体は(人の幸福、個人の働きという意味で)仕事をしていないから。
仕事をしていないのに、資産あるいはエネルギーが集積するなら、それは外部から収奪したものになる。
また、個人の未来を決めるのは他人ではない。権力が生まれ、自由意志に介入できるなら、それは幸福に反するということになる。

問い: でも働きたくないでしょ?

Yes, absolutely.
しかし、自由と平等を願うなら、逆説的に、自分の幸福は自分で生み出さなければならない。
つまり、自分を食べさせる責任は発生し、その不自由は生まれる。ここが境界線。

金融とは

おさらい: 不換紙幣

不換紙幣は本質的にはただの値札、タグ。
なのでそれをいくら生み出してもそれ自体では価値は生産されない。

無から金を生成(通貨発行)、信用創造するのは、現実に存在する、既に生産されたものを生成した分だけ薄めて付け直すのと同じ。
これがインフレだし、いくら発行したところで、それは借金、というわけでもない。
もともと無であって、いくら増えても本質的には現実は何も変わっていない。(これが兌換紙幣だと話が違う。1タマゴと2タマゴの価値、意味は同じではない)

「成長」が意味するもの

すると、この貨幣経済のもとで「成長」と呼ばれているものの意味するものはいったい何なのか。
「凝集度の濃淡が変化し、より周囲から多くを奪って濃くなること」にしかならないと思う。
全量が変わらないなら、変わりえるのは濃淡だけ。(ちょっと動物の胚みたい)
この視点からみるまでもなく、資本主義の本質は奪い合い、だとは思うけど、これは金が無から生まれていることと整合性がある。(見方を変えれば、だからこそ不換紙幣が大枠で成り立つといえるかも)

人の世が奪い合いだから不換紙幣のアイディアが生まれたのか、不換紙幣が無から奪い合いを生み出したのか。どちらだろうか。(イソノミアを思うと後者)

等価原理を考えれば、すべての形而下の事象の存在は、周囲から切り出され、集積することによって生まれる。
この意味では、資本主義の是非以前に、人間は何かを奪って命をつないでいる、ということは言える。

金融の意味

株の取引やFXなどで、「投資」や「投機」などと呼ばれている行為は、果たしてどんな意味、生産性があるのだろうか?

私は以前、一度以下のような答えを出した。

  • 成長の原資である資金を、より成長期待値の高い領域へ集中させる効果を生み、投資家はその便宜を図り、流動性、流通を促進させた対価として収益を得る。

  • 大きな視点でみれば、私利私欲にまみれた投資家も、暗黙のうちに金融システムの歯車の一部にされている。

  • だから、働いていない、ということはなく、その視点においてはちゃんと仕事をし、生産しているといえる。

  • だからなにも、株の売買で暮らしているだとか、投資家だから、といって恥じる必要はない。

そうやって選択と集中を促した先に何かが生産されているのか?

より厳密に言うなら、「それで幸福は生まれているのか?」
今現在の疑問として、「必死になって成長を追い求める意味がどこにあるの?」というのがある。
「成長」とやらが実際にはただの濃縮で、搾取を伴うものだとしたら。
「成長」に貢献することは結局のところ意味を為さない。
むしろ、搾取を促進しているまであるのでは?

飽くなき欲望と、膨れ上がったそれにつけられるラベル。
それを成長と呼ぶのなら。

人々の活動も資源も、無からは生まれない。
金融とは、後方支援、動力装置。
自然物たる生命、人間と、人工物たる社会。
無から生み出されながら、エネルギーとして振る舞い、
投入されつづける金が、生命にタグを付け、枠組みの中にはめ込んでいく。

その意味で、金を追えば人は社会の奴隷。無を有に転換するための生贄。「働けども働けども我が暮らし楽にはならず」
本来なら、そうなってはいけない。
けれど、これは必然。資本主義とは、そのような設計だから。
楽になりたければ、働くのではなく、奪わなくてはならない。

まとめ

理想として求めたい要件

  • 自由、責任、成果がすべて同一の主体に帰す経済圏

  • だれもが任意かつ他の干渉を受けずに主体となれる経済圏

  • 性善説を基調とした設計、しかし困難と思われる

考察から見出せたもの

  • お金そのものは悪ではない

  • しかし資本主義には光が見えない

  • 理想論を追及すると性善説と性悪説の話になった

おつかれ。

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