「古墳」の話。

小学生の頃から古墳が好きだった。

歴史の教科書に載っていた仁徳天皇陵の不思議な鍵型に惹かれて、以来、いつかこの目で実物を見てみたいと思い続けてきたが、先日、その夢が約30年掛かりで叶った。
仕事で大阪に行った際、仁徳天皇陵をはじめとする百舌鳥古墳群のある堺市まで足を伸ばしたのだ。市内から阪和線という電車に乗り、三国ケ丘まで出て、念願の仁徳天皇陵の外周を歩いてきた。

とはいえ陵墓はとてつもなく大きいので、外周を歩いたところでシンボリックな鍵穴型を窺い知ることはできない。濁った濠が延々続き、向こうを覗き見ても鬱蒼と緑が茂っているだけで、お世辞にも面白い景色とは言えない。
けれども、それが良い。全長500m弱/高さ35m超もあるこんな途方もない人工物を、どうやって造ったのだろうと思うと胸は高鳴るばかりだ。

仁徳天皇陵からすぐ近くにある堺市博物館にも立ち寄った。
入館料は僅か200円ばかりながら、古墳好きにはたまらない展示内容で、満足行くスポットだった。
そこで知った<古墳の造り方>はダイナミックだ。何も無い平野を人力で掘り、出た土を幾層にも盛って基礎とする。そして、膨大な数の葺石をして、これまた無数の埴輪を盛って、巨大墳墓が完成するという。この古墳一基を作るには1日@労働力2000人×16年間弱を要するというが、百舌鳥界隈だけでも大小の古墳が100基(現在44基)を数えたというから、もうため息しか出ない。
ここに眠る仁徳天皇は倭の五王のうちの讃王とも珍王ともされているが、いずれにしてもこの巨大事業を五世紀にやり遂げたほどの人物だから、その権力たるや想像を絶するものなのだろう。

冒頭の絵は仁徳天皇陵古墳のシルエットをスケッチしたもので、ドラえもんみたいなカタチで愛らしく感じる。
石室は円墳にあり、鎧や剣や馬具や埴輪とともに手厚く遺体が葬られたとされる。腕にあたる突起の部分は、祭祀を執り行った重要な儀式台のパーツとのことだ。
そもそも何故こんなに巨大な陵墓にしたのかと疑問が生じるが、古墳時代は今よりも沿岸が内陸寄りで、接岸する他の勢力に対しての威嚇機能も含まれていたそうだ。
今も昔も変わらずヒトは巨大建造物に権威の象徴を見出すらしい。

帰り際、地元の老人から少し興味深い話も聞くことができた。
明治期に撮られたた仁徳天皇陵の古写真を見せてくれたのだが、いま茂っている緑が無いではないか・・・。実はかつて石室が丘肌からぽろりと露出したことがあった。これはマズいというので、急きょ明治の新政府が植林をしたという。
江戸時代までは比較的ぞんざいな管理で立ち入りも規制も緩かったようだが、尊皇を基調とする明治の世になって古墳の扱いも丁重になったのだという。なるほど、それもそうだと納得して百舌鳥を後にした。

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日の戯れ、 話の戯れ。

日々あれこれ頭の中でうつろう関心事や思考整理などを、エッセイ・コラム形式でとりとめなく備忘録のように綴ります。
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