page 9『 曖昧な色の落とし物 』ノンフィクション
なるべく、両親の行動は見ないように。そして私との行動の違いに気付くことのないように...。
私はそう心掛けていた。しかし、現実はやはり厳しく、早速気付いてしまうこととなったのである。
家に上がると、父親は手を洗う前に部屋の電気のスイッチやクローゼットに触れ、そして荷物を置いた。頭では分かっている。単に私とは、手を洗う順番が違うだけのことだ。
勝手に不快感を私が覚えてしまうだけにすぎない。しかし、不安感はその想いとは裏腹にどんどん増していき、どうしても心のざわつきが止まらない。
父に対して失礼なことだとは思ったが...
覚えておいて、後でこっそり拭けばいい
私は必死にそう自分に言い聞かせ、心を落ち着かせようとしていた。
次に父は、手を洗い始める。水でささっと流し、5秒程で終わった手洗いの光景に私が絶句していると、横から声が聞こえた。
母「コロナ禍だから、ちゃんとハンドソープを使って洗ってね」
見兼ねた母が父に伝えてくれる。
けれども、安心したのは束の間。
私はまた不安になることを目撃してしまうこととなった。トイレから出てきた父が、手を洗う前に両親用に用意した部屋に入っていったのだ。
先に手を洗ってから、部屋に行ってほしかったな。でもなぜこういうことに私は気づいてしまうのだろう。
ある意味、突如治療が始まってしまったようなもの。「曝露反応妨害法(エクスポージャー)」の始まりだった。
強迫性障害の治療には、薬物療法と認知行動療法があり、その認知行動療法の中のひとつの技法として「曝露反応妨害法」という治療法がある。
曝露反応妨害法とは、恐れたり避けたりしているもの、苦手なものや不安や不快を感じる状況に、嫌でも敢えて直面させて我慢して、普段はそこでやりたくなってしまう、不安感を打ち消すための行動(強迫行為)も我慢して、次第に不安感が減っていく感覚を体感して覚えていく治療法だ。
両親が来てからの私の状況は、この曝露反応妨害法の治療にそっくりだった。不安や不快を感じる今の状況を我慢して、やりたくなってしまう不安感を打ち消すための行動「手を洗うこと」や「アルコール除菌スプレーで、汚くなったと思う場所を拭くこと」も我慢して、不安感が減っていく感覚を覚える。
唯一異なる点と言えば、強い不安感や不快感をまず、抗うつ薬のSSRI(セロトニン再取り込み阻害薬)という薬で状態を安定させてから、認知行動療法に入るのが一般的なことだ。不安や不快感が非常に強い状態では、感覚の強さから、我慢ができないことや治療がうまく進まないことが出てくるからだ。
私の場合は、薬で不安感や不快感を抑えずに、非常に強い状態のまま、この治療に入ったようなものである。つまり薬で感覚を抑えていない分、不安感や不快感は強く感じるが、ひたすら我慢するしかないという逃げられない状況となった訳だ。
そもそも普段の私は、家に帰ったらお風呂へ直行の生活をしている。外で付いたはずの汚れをい部屋に持ち込みたくないという理由からだ。
それに対して、両親は直ぐにお風呂へ入る習慣等なく、今もそのままの服で部屋を歩きまわり、既にイスやフローリングに座ったり寝そべってくつろいでいる。携帯電話も触り始めたようだ。
それ、外で触っていたよね。1度拭いてほしいな...
その後は2人で、ベランダへ。そのままの手でシステムキッチンの引き出しやその中の物を触っている。
父は窓や壁、24時間換気システムを触って、マンションの構造の確認中のようだ。
母は、私の症状がまだ軽かった5年前頃に1度泊まりに来たことがある。けれども父は、今日が初めてだ。完全に、興味が家の方に向いてしまっている。
とりあえず、家の外にある物を触ったら手だけ洗ってほしいな...
今すぐにでも、アルコール除菌スプレーで部屋中を拭いてまわりたい
私の頭の中はもう、そのことでいっぱいだ。
早く元の状態に戻して、安心したい
しかし、それから先の2人の行動と私の行動が
一致する訳はなかった。ありとあらゆる物や場所を私の綺麗•汚いの感覚とは違う状態の手で触っていく。でもそれは、個人の自由のはずなのだ。
私が我慢できないだけ...
後でここ拭かなくちゃ。
私は必死になって記憶したが、もうキリがなかった。あまりの数の多さに覚えていられない。
夜通しの拭き掃除、洗い直しをしたとしても、
もう元には戻せなそう...
今迄してきたことが全部崩れてしまったように感じ、私は肩を落としていた。
明日から夫もいない中、どうしたらいいのだろう。どうやって3週間も一緒に生活を...
母は急遽仕事を休んで、父はリモートワークだからと自宅からPC持参で私の為に手伝いに来てくれている。
心配してくれていることは確かなのだ。
「 手洗って。触らないで」
そんな簡単には口には出せない。
手を洗いすぎて、この状況を作り出したのは私だ。娘の為にと手伝いに来てくれた、両親の気持ちは充分に理解できている。
そうやって一部で理性も働き、余計に苦しい気持ちになっていく。
今の私は、見えない菌が気になって仕方がない。手を洗わずに色々な物や場所を触っているのを見ることだけで、汚れがどんどん広がっていくイメージになってしまう。
そうなると不安は大きくなり、その不安を拭い去る為の行動をしたくなってしまうのだ。
「手を洗う」
「アルコール除菌スプレーで汚れた場所を拭く」頭ではやめたいと思っているのに、どうしてもやめられない強迫行動だ。
もう完全に、私はその場の状況に流されているだけだった。みんなが何を喋っているのか、内容なんて全く頭に入ってこない。
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