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page 4『 曖昧な色の落とし物 』ノンフィクション

 思い返せば、昔から私の目に魅力的に映るのはシンプルな雰囲気を醸し出しているもののように思う。ファッション、メイク、ネイルにインテリア。そういった興味のある事柄も、足し算というよりはどこか引き算的な要素を持ち合わせたものに私はいつも魅了されてきた。

 それはファッションで言えば、シンプルなワンピースをサラッと1枚で着るようなイメージであり、ネイルであればネイルアートではなく、爪にヌーディーな色味をのせるだけ。こういうものに心が惹かれるところは、ずっと変わっていない。

 だから「私達の身の回りを整えること」と
「シンプルな雰囲気や佇まい」は広く考えれば
同じようなことなのだと、私はそう捉えている。夫もその点は同じ考えだった。

シンプルに暮らしてみよう。

 私はそんなふうに思っていた。そこであの晩思い付いたことから、早速行動へと移しはじめた。
 実際に食材の宅配は、普段の生活で必要なものは殆ど揃っており、重い洗剤や嵩張るオムツ等も自宅まで運んできてもらえ、徒歩で買い物へ行く私にとっては好都合のサービスだ。
また余計な食材の購入がなく食品ロスもないためエコ意識の向上、季節ごとの旬の食材を積極的に楽しむ余裕もできたように思う。

 その後も細かい思い付きを見つけては、都合の良いタイミングで変えていく。現在の生活スタイルに合う形を見つけていくことは、とても楽しい発見であった。
 化粧水等をオールインワンのもの、ボディーソープを子供と一緒に使える泡の純石鹸で出てくるタイプへ、メイクを石鹸で落とせるシンプルな成分のものへと変えてみたり、日用品は定期便で自宅に自動で届くようにもしてみた。

 そうして幾つかの更新をしていくと、生活は時間にもゆとりのある快適なものへと変わっていくこととなった。子供と遊ぶ時間や自分の時間も以前より作れるようになり、楽しみも増えていく。

 一方で、もうひとつの見えない菌に対する不安はどうだろう。生活は楽しく快適にそして時間もあるが、見えない菌が気にならなくなるような良い対処方法は、特に見つけることができなかった。単純に考えてもこまめに除菌掃除することくらいしかない。だから不安は相変わらず定期的にやって来て、消えることなく残っている。

 明らかな悪循環に陥ることになったのは、この後のことだった。時間のゆとりこそ、強迫性障害には悪影響だったのである。

 手を頻繁に洗うことも、フローリングやドアノブの除菌掃除も、不安が襲ってきた時に時間がなく忙しければ実行できずに終わるのだが、確実に実行出来てしまう程の時間のゆとりが私にはできてしまうようになっていた。
 そしてゆとりがあればある程、潔癖(清潔•不潔)に対して考える時間やこだわりは多くなり不安を感じる対象が広がっていく。

 風の強い日に公園に出掛ければ、風と共に地面の砂ぼこりが舞い上がる様子を目にする。

あれ?風も汚いの?
それならこの洋服も、髪の毛も? 
えっ、私も...?

これまで生きてきて、そんなことは考えたことも不安になったこともないのにふわっと自然に頭に浮かんでくる。でもこの不安は漠然としていて
まだ小さく、よく分からない。気持ちにモヤモヤしながら私はこの日をとりあえずいつも通りに過ごした。

翌朝まだ風が収まらない中、私は洗濯物を干そうとする。

うん?この強風の中で外に干したら、洗ったばかりの洗濯物が汚れちゃう?

こんなふうに、昨日と似たような場面に出くわすと不安はまた漠然と生まれてくるのだ。今の不安対象は、風なのである。

こうして、新たな不安対象がどんどん追加されていく。風から窓、シャッター、ウッドデッキへと広がり、外出後の洋服、髪の毛、私、ベビーカー...どんどんどんどん広がっていく。

不安対象が広がれば、対象物を触る度に私は手を洗いたくなり、手を洗う回数も増えていく。
洗濯物を干すために窓を開ければ、
「あっ!いけない!
窓を触ったから、手を洗わなくちゃ」
こんな感じだ。

 そして不安を取り除こうと、私が手を洗う
(強迫行為を行う)と不安は一時的に下がるが、また特定の場面(不安対象のものを触る場面等)に出会うと再び不安が襲ってきて、また手を洗って(強迫行為を行って)しまう。
この繰り返し。

1日の手洗い回数は、どんどんエスカレートしていく。時間のゆとりは強迫性障害のエサとなり、症状を悪化させていくエスカレートの原因ともなっていた。

 新たな不安対象が生まれてしまったとしても、頭の中で漠然と不安になってしまったとしても
そこまでなら、よかったのだ。
 公園に行ったあの日、私は漠然とした不安に
モヤモヤしながらも、そのままいつも通りの1日を過ごしていた。その行動を続けていればよかったのに...
しかしながら、私は不安に負けてしまう。
ある日、とうとう私はその不安を取り除こうと、対象物を触ったら手を洗うという実際の行動へと移してしまった。
これが大きな間違い。行動へと移してしまったらこの病気はエスカレートしていくだけなのだ。

「不安対象を触ったら、手を洗う。」
安心感を保つ為の私のこだわりは、悪い方へと習慣化し、少し経つと私のルールとなった。
このルールを守って行動していれば、安心できるから、と。
慣れというのは本当に怖いものである。
この病気の怖いところとも言えるだろう。

 もう、考えも行動も
「綺麗な手の方が気持ちがいいよね。」
なんていうただのこだわりではなかった。
強迫行為
そのものである。

 生活がゆとりのある快適でシンプルなものになればなる程、手を洗う回数もこだわりも増えて強くなっていくという「おかしなバランス」の中で私は毎日を過ごしていた。


 日々生きてさえいれば、これから先の未来に漠然とした不安を覚えることはあってもおかしくはない...しかしなぜこの時、曖昧な色がまた少し私から離れたことに気が付かなかったのだろう。
そんな思いは未だに私の中から消えてはいない。

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