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映画『コット、はじまりの夏』感想

予告編
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言葉にならない


 ‘80年代初頭のアイルランドの田舎町を舞台に、主人公・コット(キャサリン・クリンチ)が、夏休みの間だけ親戚夫婦のもとへ預けられるという物語。

 もともと大家族の中で生まれ育ったコットは、寡黙な少女。声を上げられない、というよりは、声の上げ方がわからなくて戸惑っている……そういった印象に見えることもある。とても繊細な女の子のように思えました。

あまり言葉に頼らない・頼れない彼女だからこそ、彼女自身の視点——彼女が何を見ているか——を強く意識させられ、それによって心情や感情をありありと想像させられる瞬間が多くありました。

 これまでドキュメンタリー作品を扱ってきたというコルム・バレード監督らしい、言葉の説明ではなく表情や光景で様々なことを読み取らせてくれる素晴らしい映画だったと思います。

 そういえばコルム・バレード監督、これが長編映画初監督作なんですってね。しかも主演の子も本作がデビュー作なんだとか。すごい。あと昨年のオスカーにもノミネートされているという……。本当に素敵なヒューマンドラマでした。っていうか(本作に限らずですが、)日本に来るのが遅いよ!笑


 

 コットの実家は大家族。とはいえ、決して裕福な家庭には見えない。父親のダン(マイケル・パトリック)は、コットを含め子供たちに関心が無さそうにも見える。

そんな家の様子が描かれている裏で、ずーっと赤ん坊の泣き声が聞こえていたのも印象的。特に誰が何をするわけでもなく、泣きっぱなし。その様子が映されることもないから、その泣き声の主が赤ん坊なのか幼児なのか、年齢すら判然としない。

こういったことだけでも、コットの家庭が子供に対しての関心が薄い、或いは少なくとも、コット自身が「家族は自分に関心を持っていない」と感じてしまっていることを想像させる。


 思えば、冒頭で彼女の母親がコットを探していたシーンも同様の想像をさせるものでした。濡れた染みのついたベッドは、コットがおねしょをしてしまったことを教えてくれる。怒られるのが怖くてベッドの下に隠れるも、簡単に母親に見つかってしまう……けれど、母親はベッドの下を覗き込んだりすることもなく、足元だけしか映されない。
 こういったお説教ですら目線を向けられない感じもまた、コットが「見られていない」、延いては「関心を持たれていない」と不安になってしまう事態の一つ。

 一方で、妊娠中だった母親がしゃがんだり屈んだりといった動きを取れなかったという整合性も同時に取れていた見せ方でもある。もう、各所の見せ方が上手く、そしてあまりにも自然なので、多分他にも気付かずに見逃していた演出がいっぱいあったんじゃないかな? 本作を観て溢れ出た感動の涙が落ち着いた辺りで、もう一度鑑賞し直したいと思います。

(ちょっと脱線しそうになったので、話を戻します。)

 

 そういった「見られていない」という見せ方が印象的だったからこそ、親戚夫婦、特におばのアイリン(キャリー・クロウリー)との出逢いが鮮烈に映ったんだと思います。

アイリンは初対面のコットに対して、膝を曲げることで目線を同じ高さまで落とし、出迎えてくれた。車の後部座席からすぐに降りないコットを引きずり出すようなこともせず、優しく見つめるアイリンの瞳は、本作で初めてコットに向けられた慈愛に満ちた瞳に見えました。

 はじめのうちこそ、どこか距離があるというか冷たい風だったおじのショーン(アンドリュー・ベネット)が、次第に優しさを見せ始めてくれるのもとても素敵。お菓子をポンッとテーブルに置いてくれた瞬間なんて、どうやって言葉で表現したものか。「心が温かい気持ちになる~」だなんて、テンプレみたいなことしか述べられないのが悔しいですが、挙げれば切りが無い、そんな細かなシーンの数々は、実際に観て頂くより他に無い。


 これまた先述の「妊娠中の母親だから屈めないから~云々」という整合性と同様、アイリンがはじめから非常に優しいことにも、ショーンがはじめは冷たい感じだったことにも、ちゃんとストーリーとしての辻褄が合っている。鑑賞中何度も、「だからあの時は……」と思わせられる。

伏線回収的な面白さというよりは、一つ一つのシーンや言動がちゃんと繋がっていることで、それぞれの登場人物の為人(ひととなり)がくっきりとしてくるような印象。本項の序盤でも述べたように、素敵なヒューマンドラマと思えた所以だと思います。


 

 度々TVの音だとかラジオ音声なんかが背景として流れていた本作ですが、ある時、食事中に流していたラジオをアイリンが消します。寡黙なコットに負けず劣らず口数の少ないショーンもいることですから、この三人の食卓は非常に静か。でも気付けば沈黙の間(ま)を埋めるようなラジオ音声が不要になっていた……。

 コットが初めて訪れた時、彼女が座る後部座席のドアを開けてくれたのはアイリン。一方のショーンはコットに見向きもせず、ダンと雑談。しかし気付けば、自然と後部座席のドアの開け閉めをするようになっていたショーン……。

 こういった数え切れないほどの細かな変化によって、次第に三人が本当の親子のように見えてくる。けれど、あくまでも “ひと夏の間だけ” という制限付きの物語。

 

 そんな本作のクライマックスシーンは、本当に素晴らしい。言葉にはならない感動が詰まっていたと思います。

 コットにとっても、アイリン、ショーン夫婦にとっても、このまま三人での生活が続くことは幸せなことだったかもしれません。でも、制限付きだからこそ迎える終わり、そして変化によって、コットの家族の変化も窺い知れてくるクライマックス。

 何より、ひと夏の間だけの関係が終わるからこそアイリンとショーンが “前へ進める” ことをも提示してくれていたんじゃないかな。そして最後には、コットのこれからの生活への希望をも予期させてくれる人物の姿が挟まれての終幕。最高のラストシーンでした。


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