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Another STORY ー最初のころー

もうひとつのストーリー

これまでもちょくちょく、自分の人生のストーリーを書くことはしてきたけれど、今日はあまり誰とも共有してこなかった私の人生の『最初のころ』のストーリーを書いてみようと思う。
 
昔は自分の過去を嫌って、黒塗りして『なかったこと』にしたかった。過去は変えられない、意志の力で未来を切り拓くんだという決意があったからなのだけれど、実はそれよりも『恥』の意識が強くあったからだと思う。何重にも積み重なった劣等感、そして『自分は変だ』という思い込みの中で、私は長いこと生きてきた。

でもこの4、5年、自分をさらけ出してもそれをまるごと受け入れ、私を私として自分の人生に招き入れてくれる、そんな大切な人たちと出会うなかで私は徐々に変化した。

自分の記憶をなかったことにするのではなく「ただそこにあった」ということを受け入れ、人生の新しい方向性を見つけるなかで、ジクジクと膿んで『触れれば悲鳴を上げるほど痛い』と思い込んでいた過去の記憶は、心が健康を取り戻した後ではかさぶたすら消えて『自分の大切な一部であると同時に、どうでもいいこと』になっていく。そんな体験をした。

これまでは、一生抱えていく、絶対に癒えないと思っていた心の痛みは、拍子抜けするほどすっかり癒えてしまったことは、私にとって希望になった。

これまでどんな人生を送ってきた人も、これまでどんなに心に傷を負った人も、どんなに鬱鬱としていても関係ない。人はいつからでも、何歳からでも、心の鈍痛から解放されて幸せにいきることができるということを、身をもって知った。

数年前は書きたくないと思っていたけれど、今の私にとっては『どうでもいい』ことになった。なので私がこれを書くことできっと、どこかの誰かへと希望をわかちあえるんじゃないかと感じて、書こうと思う。
少し長いけど、興味があれば読んでもらえたらと思う。

記憶とは実態がないものだけど

人間の記憶というものは、実に不思議なものだなと思う。

自分が『確かにそこにあった』と思うものも、実際のところは大量の曖昧な解釈でしかない。そしてそれは時とともに、どんどん曖昧に、どんどん劣化していく。

だからつまるところ、自分が『心の傷』だと思っているもの、それを引き起こした記憶自体も、いつまでも執着して大事にするほどには信憑性が高いものではない。

ここがすべての起点なのだけれど、人はいつのまにか『辛い過去を経験した自分』というものをアイデンティティの一部にしてしまうので、過去は実態がないものだと認めて手放すことは容易ではない。

過去も記憶も執着するには値しないけれど、今の私を形作る一部ということは事実なので、それを『(鮮明度は定かではないけれど)ただそうだった。』とまるっと受容することは非常に意味のあること、本当の意味で『私』として生きていくために大切なプロセスであるようにも感じている。
 
この手記自体は3年半程前にセルフセラピー的に書いたものを再編集したものなのだけれど、今読み返すと今と当時とで、まるで質感が違う。

当時の私にとっては、こんなものを書いて誰かに見せるなんてセルフイメージの分厚いコンクリをハンマーで叩いて砕くようなものだったし、「脆い私」を晒してドン引きされたらどうしよう。重たいものだから公表するなんてできない。なんて思っていた。

でも今はもう、なんだか面白いくらいにあっけらかんとしている。

そもそもこれから語る私の記憶は、当時そして今の私の解釈の産物であって、『実態のない曖昧なもの』という前提だ。

だけれども、もしかしたら必要としている誰かに届くんじゃないか、過去に縛られてどこかいつも苦しいと思っている人にとって、なんらかの希望の光になるんじゃないか。そんな風に思うから、曖昧で実体がないストーリーであっても、書く意味がゼロではない気がしている。

私が生まれてから独り立ちするまで

私は今から42年前に、厳格なキリスト教の一家に生まれた。

両親は1960年代に日本で布教活動をしていたアメリカ人の宣教師の夫妻から聖書を学び教会の一員になり、私が生まれたのはそれから20年後の1980年。

「礼亜」という名前は、そのアメリカ人宣教師が名付け親で、聖書に出てくる、神様に愛された敬虔な姉妹「ラケルとレア」のレアから取られたそうだ。

キリスト教には多くの教派があるけれど、私の両親が属していたのは中でも特に厳格に聖書の教えを重んじ、現代とは思えないほど数多くの戒律を持つ教派で、毎週教会に通い、食事の前と寝る前には欠かさず祈りを捧げるような家だった。

私は幼い頃に洗礼も受けていて、当時既に教会の中では信者歴が十分に長くなっていた両親の、そして教会の「模範的な子供」として育てられた。
 
生まれた時からクリスチャンなので当然だけど、私は小さい時から神様のことが大好きで、いつも感謝や赦しを求めるお祈りをしていたし、心の中にはいつでも温かくて大きな優しい笑みをイメージしていた。

自分でも不思議だけど「いつも、どんなときも、ひとりではない。大きな後ろ盾が自分の命を支えてくれているのだ。」という感覚が、幼い頃からただ疑いようもなく、自然に胸の中にあったのを覚えている。
 
私は特殊な環境で育った。幼稚園にも保育園にも行かず、小学校入学までの時間を教会で過ごした。ときどき、幼稚園の園庭で楽しそうに遊ぶ同じ歳くらいの子供たちを、門の外から不思議に思いながら見ていた。

小学校に入学してからも学校で友達を作ることは「害が及ぶから」と禁じられていた。

放課後は遊ぶ相手がいなくて、いつもひとりでお人形遊びをしていた。姉たちと歳が離れているので、わたしは大抵いつもひとりでいたけれど、それが寂しいとか悲しいとか思った記憶はあまりなくて、むしろ空想の中で遊ぶことを思う存分楽しんでいた子供だったような気がする。

それから音楽を聴くことも大好きで、小学校の通学路の途中にある、小さなレコード店に、学校の帰りに少しだけ寄り道をして、家では聴くことを禁じられていた、シンディー・ローパーやリック・アストリーなんかの80年代の曲を、お店の中で聴くのが大好きだった。レコード店の店主のおじいちゃんは、不思議な子供が来るなぁと思っていたんじゃないかと思う。でも何も言わずに、私を店に入れてくれていた。
 
両親と何かして遊んだ記憶というのはないけれど、小さい頃は教会の人たちからは可愛がられ、愛された記憶がある。

ワタベさんという恰幅が良くてお顔が真ん丸な、母と同じ歳くらいの女性は、会うたびに私をぎゅーっと抱き締めてくれて、私が「寒い」と言うと、自分の着ているコートの前ボタンを外して、中に私を包んでくれた。

マルヤマさんという眼鏡をかけた色白なおば様も、いつも優しくて、大切そうに私の肩に手をかけて、話しかけたり励ましたりしてくれた。
 
私たちの両親は、厳格なクリスチャンで教会でも一目置かれる立場にいたけれど、敬虔なクリスチャンだったかというと、そういう訳ではなかった。家庭の中は、キリスト教が説いている愛や真実とは程遠い状態だった。

母は当時アルコール中毒で、思いつく限りの意地の悪い言い方で子供を罵倒し、人の存在を否定するようなコミュニケーションをとる人だった。(…と、私は当時感じていた)

父は基本的には優しい性格の人だけれど、母の暴走を止められず結局は母と同じことをしてしまっていた。
 
『子供は親の奴隷だ。』というのが両親の口癖で、両親は私に自由意志というものを認めなかった。学校の友達との交流は一切禁止で、放課後すぐに家に帰らないと、学校に電話がかかってくる。学校の友達から家に電話がかかってくると電話口で「切りなさい!!」と怒鳴られるので、友達から「何でそんな感じなの?」と、よく不思議がられた。

服装も、母親の好みに反するものは禁止で、お小遣いを貯めてこっそり買った洋服は、見つかると、私が留守の間にハサミでズタズタに切り刻んで、タンスに戻されていた。切り刻まれた洋服って、結構ギョッとするショッキングな光景だった。

それでも10代の頃は洋服が欲しくて、懲りずにこっそり買っては(我ながら逞しい。笑) 玄関から買い物袋を持って入ると見つかってしまうので、家の外から二階の自分の部屋の窓を目がけて買い物袋を投げたりしていた。冗談みたいなホントの話(笑)

こんなことばかりだったので、大人になってからも買い物袋を家に持ち込むとき、ガサガサという袋の音に反射的にドキッとしたりしていた。

隠れて何かしていて見つかったり、両親の機嫌を損ねると、色んな種類の罰を受けた。罰には色んなバリエーションがあって、スタンダードは電源ケーブルをストッキングでぐるぐる巻きにして作られた鞭で叩かれる罰だった。お尻や背中を叩けばアザができても外からは見えないからと言われて、ことあるごとに叩かれた。

プライバシーはなくて、鞄の中身や机の引き出しも毎日チェックされた。漫画や友達との交換日記や手紙やアイドルのブロマイドなどが見つかると、また鞭で叩かれた。思春期に日記をつけていて、好きな人への恋心を綴っていたのが見つかって『なんと不道徳なんだ』と言われ、また罰を受けた。

理屈の通らない、今考えても意味のわからないことが、両親の気分次第で毎日たくさん起こったから、とにかく家に帰るのが毎日怖くてしかたがなかった。

今日はどんな怖いことが起こるのだろう。どんな罰が下るのだろう。なんと言って罵られるのだろうといつも不安で、帰宅時間になると胸のどきどきと汗、体の震えが起きて止まらず、苦しくて悲しくて消えてしまいたくて、息をひそめるようにして暮らしている感じだった。

両親は私に『神様の代理』で不合理な罰を与えてきたので、姉たち2人は、成人して教会を後にしても、洗脳が解けるまでは、神様という存在に恐怖のイメージが付き纏ったそうだ。

でも私は不思議と、物心ついた頃から両親が偽善的だなぁと思って観ていて『神様がこんなことしろと言っているはずがない。ウチの親が酷く間違えているに決まってる。神様は誰よりも優しい存在なはずだ』と信じていた。

なので裏を返すと、私は恐らく3人姉妹の中で最も両親への軽蔑の気持ちが強く、思春期に入る頃には、聖書の句を逆手にとって両親をやり込めたりしていた。相手を論破して封じ込めるという術を身につけたのも、この頃だったと思う。もちろん大人になるにつれて、相手を論破することの虚しさや不毛さも理解するようになったので、その術を使うことは自然となくなった。
 
私の人生で最悪だったのは、2番目の姉が独り立ちして家を出た後の10年間で、両親のターゲットが私ひとりになった時期だった。

自分のすべてが両親により支配されていると感じていて、外での完璧な子供の役割を終えて帰宅すると、毎晩涙が出て止まらず、いつももう死んでしまいたい、消えてしまいたいと願っていた。それこそ神様に、『両親が私を捨ててくれますように』とか、『私の命を、生きたいと願う誰か別の人に与えてほしい』とお祈りしたこともあった。

キリスト教特有の『自己犠牲的な精神』が叩き込まれ、他の人のために自己を犠牲にして奉仕することが美徳とされていた価値観の中で、『自分はどう感じるのか?思うのか?』などという気持ちに繋がったことなどなかった気がする。毎日、他の人のために自己を犠牲にして尽くしても、天に徳を積んでも、幸福感が何なのかわからなくなり、心の痛みは次第に大きくなっていった。

それでも誰にも話せず、内側に冷たい何かを抱えて人生の矛盾に心から苦しみながらも、例えば犯罪を犯して警察に逮捕されたり、家出したり、妊娠したり、リストカットしたりして、『いい子』を演じるのを辞める勇気はなくて、どうしたら良いのかもわからず、とにかく無の境地で家を出られる日をひたすらに待ち続けた。今思えば、殺されるわけでもあるまいし、何か問題でも起こせば楽になったろうに。と思うけれど、当時はそんなことをしたら殺されるかもくらいの恐怖があってできなかった。

朦朧と何年も暮らしながらも、でも確実に良かったこともあったと思っている。

父は一生懸命に働く人で、昔、結核を経験していて身体が弱いのに、働き続けて私たちを養ってくれた。だからホームレスになったことも、飢えたこともなかった。

一応自分の部屋が与えられていたこと、姉妹がいたこと、近くに叔母が住んでいて色々な面でサポートしてくれたこと、学校には行かせてもらえたこと、小学校入学時にはランドセルや文房具を揃えてもらえたこと、遠足にはお弁当があったこと、学校ではいじめられたことがないということ、先生にはいつも恵まれていたこと。

それに大人になってからも良かったことは、あんなに精神的に地獄のような日々を送ってきたのに、3人姉妹が誰も自殺しなかったこと、何の依存症でもなく、お酒が強くないのでアルコール中毒にならずに済んだこと、犯罪に巻き込まれることはなかったこと。

問題を抱えて苦しんでいる人も、過去たくさん見てきたので、自分はそういう選択をせずにすんで良かったと思うし、大変な状態もありつつも、人生というのは0か100かではないんだなというのは、いつも思う。

人生で一番辛かった期間でも、家から遠く離れた高校に入ったので、学校で初めて友達ができたことは、幸せな出来事だった。

学校に行っている時間だけは両親から離れて、友達や学校の先生と交流することで、私はごく普通な、ごく自然な人間関係を学ぶことができた。友達という鏡があったことで、自分の内側に目を向けはじめたのもこの時期だったように思う。

ただやっぱり、自分の将来のことを想像することが全くできなくて、どう生きたいかも、何をしたいかもなく、生きていても意味がない。どうせ自分は無力で非力で、いつ死んでも全然いいや。出来るだけ若いうちに死んじゃいたいな。と投げやりで、大学受験もせず、とにかく実家暮らしを逃れたい一心で何の当てもないまま、卒業式の翌日に鞄一つで実家を飛び出して、当時すでに結婚していた1番上の姉の家に転がり込んだ。
 
姉の家も部屋が余っていた訳ではないので、押し入れを改造して小さなスペースを作らせてもらい、アルバイトをしながらそこで寝泊まりしていた。

どんなに小さい空間でも、そこには親がいない。飢餓寸前の人みたいな感覚で、無心に本や漫画を読んだり、音楽を聴いたりテレビを観たりしたのを覚えている。

ちょうどテレビでSMAP×SMAPが放送開始した頃だった。世の中にこんなに面白いモノが存在するなんて…!!と衝撃で、姉夫婦とゲラゲラ笑いながら過ごしたのが、本当に楽しかった思い出。

アルバイトはしていたけれど、急に襲ってくる立ち上がれないほどの無気力感とパニック発作で、たくさん働いたり、何かに打ち込むとかは出来なくて、生きてる目的もない、何も感じない、何か欲しいとか、したいとか、そうゆう欲求もまるで無くて、人と関わるのも面倒でしかなくて、お腹が空いたらご飯は食べるけど、それ以外は別に何があっても無くても、どっちでもいいや。という毎日を送っていた。

さすがに姉夫婦の家に寝泊まりするのも気が引けていた頃、母の妹で近くに住んでいた叔母が、私が大学にも行かずにフラフラしているのを見兼ねて、海外に留学するように勧めてくれた。留学の資金を援助してくれると申し出てくれ、高校時代に留学に憧れていたのもあり、生まれて初めて「行ってみたい」と思った。英語は得意科目だったので、手続きは驚くほどトントン拍子に進み、間もなくしてカナダに留学することになった。

カナダでの暮らし

初めて一人で行った海外は、私の想像をまるで超える世界だった。

世の中はこんなにも、自分の知らないことで溢れているのか。
こんなにも、色々な人が生きているのか。何もかもが新しく、鮮やかで美しく、眩しすぎるほどだった。

私は、突然飛び出した未知の世界に、身体も心も十分に順応できないまま、ただ大きな感動に、もみくちゃにされながら時間を過ごした。

消化しきれないほど多くの新しい知識のシャワーを浴びながら、限界まで張り詰めた渇きを癒すように、光のような人との出会いや、愛情と信頼を感じることのできる人間関係を、この時期に山のように経験した。

私が暮らしたカルガリーという街

私が住み、学んだカナダという国は、キリスト教の下地がある国だったので、日本のように「宗教的なマインドを持った人」というマイノリティーではなく、クラスメイトやルームメイトとも、哲学や政治の話と同列に、ごく普通にスピリチュアルな対話を楽しむことができた。

この頃教会で、ベサニーという名前の14歳の女の子と出会い、親友になった。

ベサニーは、すべての人が愛と尊敬の中で生きる世界を作りたいと願う、本当に心の綺麗な女の子で、神様の愛情を自分のようにたくさんの人に知ってほしいの。と優しい笑みを浮かべて話すような子だった。真冬のカルガリーで雪の中を歩きながらのベサニーとの対話はいつの時も美しく、愛で溢れていた。

出会って半年ほどたった頃、ベサニーは白血病になった。それから1年4ヶ月ほど後、16歳になる少し前にベサニーは亡くなった。私はその頃カルガリーから別の場所に引っ越していて、人づてにそれを聞いた。あまりにもあっけなく信じ難い出来事で、命の小ささ、自分の無力さをただ受け止めざるを得ない出来事だった。

「You  are the most encouraging person I've ever met. (あなたは私がこれまで出会った人の中で一番元気や勇気をくれる人だわ。)」

かわいらしい青い目で私をまっすぐ見つめて彼女がそう言ってくれた言葉がずっと残っていて「encouraging」は今でも私にとって大切なテーマになっている。

このとき一緒に住んでいたルームメイトのダリーンも、私のバックボーンを理解し愛してくれた親友。

彼女が一時、自分の実家に私を一緒に住まわせてくれたことで、私は生まれて初めて「家庭らしい家庭」「家族らしい家族」というものを経験することができた。

自分の人生がいかに歪んだ価値観で縛られていたのか、いかに心が死んでしまう環境で育ったのか、本当の意味で気が付いたのは、彼らと一緒に暮らすことができたからだった。

生きる価値など、愛される価値などないと思っていた自分を、ひょっとすると愛してくれる人がいるのかもしれない。そう思えるようになり始めたのは、こうゆう人たちとの巡り合わせがあったからだと、本当に思っている。

カナダの信じられないほど雄大な自然の中で、人の温かさと愛情に時間をかけて触れ、私は本当に少しづつ、自分の命が、他のどこでもなく、いまここ、自分の中に宿っているんだ。という感覚を覚え始めた。

ロッキー山脈、エメラルドグリーンに輝く湖「レイク・ルイーズ」

マイナス40度にもなる冬、黒いコートの肩に雪の結晶が「雪印のカタチ」を留めたまま、ひらりと落ちてくる様子。

マイナス40度の乾燥した空気の中、雪の結晶が降りてくる

どこまで行ってもひたすら続く、青い大きな空と、視界の端から端まで広がる草原と大地。

人の力など到底およびもしない、山々の刻む時間の力強さと、夜空の星たち。
 
自分は生きている。そして、なにかに生かされているのだ。という、説明や理由が必要のない感覚が、ただ心の中に降りてきた。

ある夏の日の夕方、ひとりで道を歩いているときに、不思議な感覚に包まれた。

目の前の景色が一瞬ぱあっと光に包まれて、芝生の上でくるくる回るスプリンクラーの音だけが聴こえた。

はっとするような喜びの胸騒ぎがした。

わたしは今、息をしている。今ここに生きている!誰のためでもなく、私は私のために、幸せに生きてもいいんだ。あぁ…ずっとずっと、喉から手が出るほど欲しいと思っていたのは、この感覚だったんだ。。

そんな気持ちがものすごい勢いで自分の中に流れ込んできて、涙が溢れて止まらず、しばらくそこに立ち尽くした。人生で初めて、命があることの喜びを理屈ではなく心で感じた。

今思うと、ある種のスピリチュアルな体験だったのだろうと思うが、私の死んだと思っていた感性や感覚、精神が再生され拓かれていくような、雷に打たれてできた割れ目から光が差し込むようなそんな出来事だったように思う。

留学生活の後半はアートとデザインを学びながら、市立病院で患者さんが手術前に待機する部屋のカウンセラーとしてボランティアをしていた。

この時に出会った教授は本当に良き理解者になってくれて、「人生」と「仕事」をどうやって結びつけていけばよいかを私に教えてくれた。

モネのような印象派の世界観にすごく心惹かれて、画家たちの人生や作品が生まれた背景についての本を読みふけって、この頃は油絵をたくさん描いていた。描写と表現に興味を持ったのもこの時期からだった。

画家で食べていけるとは思っていなかったけれど、何かしら近い領域で生きていけないだろうか…と漠然と思い始めて、デザインも勉強した。

学生ビザの終了とともに、カナダで就職して移住する選択肢と、帰国する選択肢に悩み、カナダは大好きだったけれど、この先もずっと外国人として生活することには気が進まず、先のことは何一つ決まっていなかったが、帰国する道を選択した。 

再び日本へ

帰国して1年くらいは、就職せずに派遣社員で、事務系の仕事をしていた。せっかく留学したのに、英語を使った仕事には全く興味がなくて、何か別のことをしたいと思っていた。
 
この頃までに、両親とはすっかり疎遠になっていて、教会に戻るように説得する手紙がカナダに届いたりしていたが、もとの人生には絶対に戻りたくなくて、帰国してからは両親にも知人にも居場所を知らせずに、逃げるように引っ越して一人で暮らしていた。
 
この時期に、私の中から、それまで保ってきたスピリチュアルな繋がりがぱったりと途絶えてしまった。

というのは、両親と教会との関係を自分の人生から切り離すと、自分の意思で決めたので、それをした以上は、もう祈りを捧げることも、心の中で優しい笑みをイメージすることも許されない状態になるのだ。と、強い罪悪感と共に、自分に課したからだった。

人生を立て直すために、誰にも頼らずに、たった一人で、自分の足で歩いていかなくてはならない。でも、それをしてでも、人生を生き直したい。という想いが強くて、逞しくならなければ幸せにはなれないのだ。という考えになったのも、この時期からだったように思う。

この頃はとにかく何をやるにも精いっぱいで、通勤や仕事や会社の飲み会のような、どんな普通のことでもエネルギーがどんどん出て行ってしまって、精神的に息切れしてしまい、1日のエネルギーが復活しないまま、また次の日を迎える…という毎日を送っていた。

ただ生きるためだけのエネルギーが足りなくて、意志の力だけでは限界があって、日常的にパニック発作を起こし、それでも何とか心療内科に通いながらお薬を飲んで、自分と周りをごまかしながら働いていた。

この頃、会社の外でアーティストの友人ができて、デザインの道に進んでみたらどうかと言われ、まだ20代前半だったので、経験不問で雇ってくれる制作会社にとりあえず就職することができた。

編集とDTPデザインの仕事は、仕事自体も人間関係も、本当にしんどい何年かではあったけど、それでも仕事をしている間は自分の心の闇を見ないで済んだし、早く仕事を覚えたい一心で、始発から終電まで働き詰めて、何とか一人前のデザイナーとして仕事を任せられるようになった。

下積みを一通り経験し、仕事が出来るようになると能力を発揮してお給料がもらえるということが、楽しくて楽しくてしかたなくなった。小さな会社だったので、すぐに自分の裁量で仕事ができるようになり、ハードワークではあったけど、自信がつくにつれて精神的にも安定するようになっていった。

『仕事』という拠り所を見つけたこの時期に、すべてが好転し始めた。

ものづくりの仕事は、納期もあってキツイけど、納品してお客様に喜んでもらえたときの達成感は、何にも替えがたい喜びがあって、制作中もアイデアが湧き出してくる独特の高揚感でハイな状態になれて、性に合っているなぁと感じていた。

デザインの仕事は、クライアントが気付いてもいない様なニーズを掘り出し、アウトプットを提案する仕事なので、人に対する共感性が役に立つ。

生い立ちゆえに、人の顔色や感情の機微にこれでもかというほど敏感な私はいわゆるコミュニケーション能力は高い方で、当時から人のニーズを引き出すことも、人に嫌な思いをさせずに動いてもらうのも得意で、人間関係のテコの原理を使って、政治の波も割りかし上手にサーフィンできる方だった。

自分のアイデアと能力を発揮してプロジェクトが成功することで、人に評価・承認されることは本当にすごく快感で、時間が経つにつれて、どんどん仕事にのめり込む様になった。

失業と再就職

結婚し息子を出産して産休中に、勤めていた制作会社が突然倒産してしまい、0歳児を抱えて、もう一度転職活動をしなくてはならなくなった。30歳のときだった。

当時、景気があまり良くなかったこともあり、ただでさえハードなデザイン業界に、0歳児を持つママを雇ってくれる会社はなくて、すぐには再就職はできなさそうな感じだった。

でもここで仕事を辞めて家庭に入ってしまったらもう二度と復帰できないんじゃないか…そんな気がして、失業保険をもらいながら半年間WEBの学校に通うことにした。

紆余曲折を経て、その後、縁あって富士通のデザイン部門に派遣で入社した。

富士通はママ社員がたくさん働いていて、仕事内容も人間関係も、理想的な環境だった。仕事はすごく楽しくて、やりがいもあり、私からするとこれまで縁遠かったハイソな環境で、これまで経験したことのない仕事を沢山経験することができた。

派遣で入って半年ほど経った頃、「本社で前例がないので無理かもしれないが、正社員になるつもりはない?」と組織のトップに打診され、オファーのまま人事と交渉してもらい、その後正社員として登用された。

富士通に入ってからは、これまで出会ったことのない職種の人たちとの出会いがたくさんあり、刺激に満ちていた。

私を正社員に引っ張ってくれた上司たち、先輩たちは、本当に心優しい人格者ばかりで、海のものとも山のものとも分からない私を仲間として迎え入れ応援してくれた。このときの環境との巡り合わせやその方たちから受けた恩は一生忘れないだろうと思う。言葉に表すことができないほどに、どれほど感謝しても足りない。

富士通での仕事は、それまで私が経験してきた仕事とは、まるで種類の違うプレッシャーがある仕事だったけれど、職務内容は明確で、成果の上げ方さえわかれば評価は自ずとついてくる、平和で恵まれた環境だった。

社員になってしばらくたった頃、チームのメンバーが海外赴任することになり、当時の私にとっては難易度が高いプロジェクトを何本かひとりで掛け持ちすることになった。

英語もたいしてできないのに海外と交渉しながら進めなければならないプロジェクトで、でも極限のハードワークを20代の頃に経験していたので、こんなの何ともない。と思っていたのだけれど、ただ小さい子供を育てながらの仕事は、20代の頃と同じようにはいかなかった。

定時で帰宅してフライパンを振りながら海外チームとテレコンし、夜9時に子供を寝かしつけてからパソコンを開いてそこから夜中の2時くらいまで仕事をして、3時間寝て、朝5時に起きて家事とその日の夕飯の下ごしらえをして、7時に子供を登園させてから出社する…という生活を続けていた。

『キツイなぁ』『疲れたなぁ』とは思いながらも、『仕事だし』『憂鬱でも仕事があるだけ有難いし』『期待してくれている人に応えないとならないし』『期待に応えられなければ価値はないし』そんな風に思っては、辛さを打ち消していた。

でも身体は正直で、セルフケアを怠りつつ、そうこうしている間に少しづつ毎晩眠れなくなり、食欲がなくなり、気付いたら10キロ以上痩せて、自分の担当するプロジェクトのイベント当日の朝、突然ベッドから起き上がれなくなってしまった。

完全に燃え尽き症候群だった。指一本動かせなくなってしまって、久しぶりに心療内科を受診して、睡眠薬と安定剤を飲むようになった。それまでもちょくちょく鬱っぽさは経験してたけど、ここまで『やろうと思ってもできない』状態にまでなったのは初めてだった。

1か月くらい休職して、その後復職したけれど、『働き方』というレベルでだけでなく、自分をそういう状況に追い込んだ『自分を苦しめる信念』に、いよいよ向き合わざるを得なくなった。

若い頃から鬱状態に悩まされてきたので、それまでもカウンセリングを受けたり、心療内科を受診したりはしてきたけれど、全体像が掴めずに終わりのない自分探しの旅で迷子状態だった。

精神的に落ち込んだら頓服薬を飲むのではなくて、自分をちゃんと根っこから癒したい。という願いが過去に経験したことのないレベルでピークに達し、人の心理的なメカニズム、脳科学的なメカニズム、スピリテュアリティや哲学など、ありとあらゆる『人の成長と変容』に関わる学問を貪るように学び始めたのはこの頃からだった。

ここからの変化の旅の話は、以前に別の記事で詳しく書いている。
Journey to my life 
01 変容のその先へ
02 人生軸に生きはじめる

ここ数年でようやく、人が人生で抱え得る課題や発達に伴う痛みや変容のプロセス、『安定したメンタリティと健やかな身体をつくるためにどうすればいいのか?』についての知識を学び実践を重ねる中で、私の『生きる心地』は劇的に変わっていった。

そうして積み重ねた時間の末に、今ここに私がいる。

父と母それぞれの人生

最後に両親の話を少し書こうと思う。

両親とは、絶縁に近い時期もあったけれど、姉妹3人で力を合わせて関係修復に取り組んできた。

この30年間は、本当に長かった。

でもその中で、父と母自身が抱える心の痛みについても、『子供』という立場を越えて『人として』より深く理解するようになった。

父も母も戦後間もない貧しい時代を生きてきた人たちだった。

父は4歳のときに実の母親を病気で亡くした。身寄りがなく、色々な場所を点々としながら幼少期を過ごした父は、決して恵まれた生い立ちではないのに、カラッとした性格のせいか自分を憐れむ発言はしない。

でも、4歳のときお母さんが危篤になって、真っ暗な山道を走ってお医者さんを呼びに行ったという話を聞いたとき、私の4歳の息子の姿と重なって、そのとき父はどれほど悲しかっただろう、大好きなお母さんが死んでしまってどんなに寂しかっただろうと、ボロボロ泣いてしまった。

母と結婚し、娘たちが生まれて、ほぼはじめて自分の家族というものを持ったとき、父はどんなに嬉しかっただろう。

母は8人姉妹の長女で18歳のとき養女に出された。
母には7人の妹たちがいる。ごくたまに叔母たちと会うと、みんな背が小さくて似ているコロコロとした可愛い笑顔で「昔は貧しかったけど、おばあちゃんは優しかった。ときどきお洋服をつくってくれた」などと話す。でも私の母はいまだに、20年も前に89歳の大往生で亡くなったおばあちゃんに『お母さん、会いたいよぉ』と言っておんおん泣く。

実際どうだったかということでははく、母はそんな風に寂しい思い、悲しい思いを感じてきたということだ。

満たされなかった想いをずっと抱えたまま、苦しみを誰かに打ち明け、受け入れてもらえる機会や、心が満たされる対話を経験したことがなかったのかもしれない。もしそうなのであれば、本当に胸が痛い。
さぞかし辛い思いで、これまで生きてきたのだろうと思う。母と関わること自体には難しさはあれど、決して母に愛がなかったのではなく、母にとってはむしろこれまでのすべてが娘たちへの愛でしかなかったのだろう。

ただ無知だった故に、その愛を私たちが受け取れるカタチでくれるときばかりではなかった、というだけのことなんだと思う。

父も母も、人生を通して愛を求め、愛を探していた人なのではないかと思う。

そんな二人が若いときに聖書の教えに出会い救いを求めたのは、ごく自然な流れだったんじゃないだろうか。二人は教会というコミュニティに属することで仲間や師を得て、新しい人生を歩むことができた。それは人生を生きる中で助けになったに違いないし、喜ぶべき出来事だったのだろうと心から思う。

私は今はもうキリスト教徒ではないけれど、でもいまだに心のどこかで『神さまのような超越した存在』を感じ続けている。

だから『私と、父と母との関係』という次元を超えて、その超越した大きな存在によって父と母の人生に光が送られ続けることを、私は心から願っている。

愛を感じて

ここまで書いてみても、私の人生はなんという大きな、そして数多くの愛に恵まれてきたのだろう、という気持ちが溢れてくる。

人はどんなに苦しくても、ひとりで生きているのではない。よく目を凝らしてみれば、優しさや愛は、そこかしこに存在している。決してきれいごとではなく、本当にそうだと感じている。

すべての人には、生まれてきたゆえの恵があり、そこにいるだけで価値がある。

そして人生をどんなモードで生きるのか?は、他の誰でもなく、自分自身が選択することができる。

心の痛みを癒し乗り越えることも、自分で選ぶことができるのだ。というこの希望を、ひとりでも多くの人に知ってもらいたい。

人が心の痛みや悩みから解放されていくとき、後に残るのはただただ底抜けに明るい、大きな可能性だけなのだから。

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