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京王線で、僕を探して。

 今年の春は例年より早く訪れた。10月のカレンダーを破いたばかりなのに、僕にとっての春は11月に訪れた。「春」と聞けば、出会いやら、桜やらと楽しげなものを想像するだろうが、僕にとっての春は、花粉症に人生を台無しにされる季節でしかない。その他で強いていうなら僕の誕生日があるぐらいだが、毎年特に楽しみにしている訳でもないし、Facebookで僕の誕生日を知った人が連絡をくれるくらいで、昔のように1週間前からソワソワすることも無くなった。

 アポなしで訪れた春に、帰りの電車では疲労を背中に強く感じていたが、やっと空いた電車の座席に腰を下ろした時の、座席に根を張るように体が脱力する感じは、社会人になってからずっとであった事にに気付き、それが花粉症のせいじゃない事に少し残念な気持ちになった。幼稚園からサッカーを始めて、高校三年生になるまで割と真面目にやってきたし、高校の時はサッカーに加えて、空手やバレー、バスケなど、1日に幾つかを掛け持ちするほど運動好きで、体力にも自信があった。社会人になってからも体型は維持してきたし、極端に体力が減ったわけでもないのに、何故こんなにも僕の身体は悲鳴をあげているのか。隣のサラリーマンのおじさんも疲れ果てた様子で首をコクリ、コクリとさせては、5回に1回ほど僕の肩にコツンとぶつけてくるし、起こすついでに聞いてみようか。

 帰宅ラッシュを過ぎた午後8時の京王線は、新宿でこそ、僕を含めチラホラ立つ人がいたが、明大前を過ぎると1つ、2つ座席が空くほどにまで空いている。隣のおじさんの、5回に1回訪れるコツンの襲来に身構えていると、向かいの席のお姉さんの、指先にかけていた紙袋が指からすり抜け「ゴツンッ」と鈍い音を車内に響かせた。おじさんの襲来に身構えていた僕は、完全に不意を突かれ、おじさんのコツンを、急な鈍い音に、反射で突き上げた肩のアッパーが迎え撃ってしまう。咄嗟に「あ。」と声をあげたが、錆びたレールのコーナーを曲がる電車の騒音にかき消されて、僕のアッパーも有耶無耶に出来た。(と思う。)

 向かいのお姉さんは眠そうな顔で落ちた紙袋をゴソゴソと拾い上げた。中身を気にする素振りも見せずに、一点を見つめぼーっとし始める。彼女も座席に根を張る住人の一人だろう。隣のおじさんは僕のアッパーを受けても、コクリ、コクリと眠っている。というか、とうとう僕の方にもたれかかって、さらに深い眠りに入った。彼女の表情は何も語っていないようで、今にも泣き出しそうな表情にも見えて、すぐにでもおじさんに2発目のアッパーを喰らわして、ハンカチを手渡したかったが、花粉のせいで鼻水だらけになったハンカチを手渡すわけにはいかないと、もう少しだけおじさんの枕になってあげることにした。

 お姉さん、といっても年は僕よりも少し下くらいか。紙袋には聞いたことのないブランドの名前が書かれていたし、床に落ちた音からするに、そんなに安価なものではないだろう。出先でお土産として何かもらったのか、落としてしまった彼女の表情からは、特に焦りも見えなかったし、高価であっても、彼女にとってはどうでもいいようなものなのかも知れない。ネイルは綺麗にしてるし、髪の毛も午後8時とは思えないくらい、綺麗に巻いた朝の状態のままだ。(朝どうだったか知らんけど)よく見れば高そうなバッグに靴。そんな彼女がどうでもいいと思ってしまう程、今日はきっと何かにひどく疲れたのだろう。

 何気なく見た靴だったが、華奢な体とは裏腹に、くるぶしの上まで隠すようなブーツに彼女の人間性を見た。長く履いているように見えるが、汚れは一切なく、長く履いて出来たシワは、電車の蛍光灯の光で独特の表情をしていて、美しく見えた。履くのにも、脱ぐのにも時間がかかりそうな靴だ。それだけの存在感があるのに、何気なく目線を向けるまで気付かないほど、それは彼女の一部として、馴染んでいた。昔2ヶ月だけ勤めた職場の上司にボロボロの革靴を指摘されたことがあった。「靴には、その人となりが出るんだ。もっと綺麗にしろ。」同じ靴を手入れをしながら長く履く人は誠実な人で、感情に流されることなく自分をコントロール出来る人だとか、履くたびに靴紐を結ばなければならないような不便な靴を履く人は、人間関係に対して懐が広いだとか色々と教えてくれた。そんな上司が語る誰かは、きっと僕の目の前に座る彼女の事だ。

 誠実で、感情に流されることなく、人間関係においても懐の広いような彼女が見せるあの表情が、語らずとも今日あった出来事を、いや、それが今日だけでなく、彼女の過ごす毎日を僕に想像させた。そして、他人事には思えず、僕の靴もまたそういう靴である事に気付いた時には、座席に張った根の先が彼女の根の先と触れた気がした。

 終点の一つ手前の席で席を立った彼女は、座席から根っこを引き抜いて、重い足取りで電車を後にした。気付けば僕の車両には、僕と、僕の肩で眠るおじさんだけになった。おじさんの靴は、機能性を求めたタイプの革靴。たしか、面倒見がいいとかそんなタイプだった気がする。今日も会社で色んな人に気を配って疲れたんだろう。残り一駅、もう少しだけ僕の肩を貸すことにした。

※この物語はフィクションです。今日の帰りの京王線の隣はおばさまでした。

「最後まで読んでくれた」その事実だけで十分です。 また、是非覗きに来てくださいね。 ありがとうございます。