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ニセモノの逆襲

ここ最近精神的な不調がしばらく続いている。これというきっかけがあるわけではないが、一月に仕事や予定を詰め込みすぎたことや、二月頭にライブが終わり一段落ついたタイミングで今まで溜まっていた膿が溢れ出てきたのだろう。

先日映画を見に行った。「笑いのカイブツ」。
伝説的なハガキ職人であるツチヤタカユキの私小説を元にしたノンフィクションで、笑いの才能と熱量に溢れながらそれ以外の能力はまるでなく、周りと衝突を繰り返しながらも不器用に生きる人間ドラマだ。

誰に蔑まれようと妬まれようと馬鹿にされようと自身を曲げることなく自分の笑いを追求するために生きるツチヤの姿が僕には眩しくてたまらなかった。

僕自身、音楽は小学校三年生のころ近所の合唱団に入ったことをきっかけに始め、今まで続いている。だが一口に「続いている」と言っても道のりは右往左往していて、合唱は中学一年生まで、中二の頃に兄貴のお下がりでギターをはじめ、クラスメイトがきっかけで作曲を始めるものの、高校では軽音楽部に入るでもなく、個人で特にこれといった活動をするでもなく、進路に迷ってなんとなく音大進学を決め、かといって真面目にクラシックの理論の勉強や受験に必要なピアノの練習をするでもなくだらだらと三年浪人して、なんとか作曲専攻で大学に入ってからも勉強からは逃げ、誘われて入ったインカレの吹奏楽サークルで少し持ち上げられたからと言って良い気になり、大学にはまともに通わずサークル活動に精を出して結局大学を中退して、それと同時に大切なものをたくさん失って、自分を輝かせることができるものが何かあるとすれば音楽しかないという、ある意味消極的な選択でもってバンド活動を始め今に至るという始末だ。

行動に筋が通っていない。積み上げもない。
成功体験に乏しく、地に足が着いた感覚がなく、音楽のルーツを問われたときに、「これ」と言い切れる、アイデンティティたり得るものがない。

大学のころ勉強から逃げてしまったことには理由がある。
小学校の頃の合唱団は、自分が創設メンバーで周りもみんな初心者であったために、たまたまちょっと歌が上手かった僕は持て囃された。

中学に入っても合唱団の頃の経験から指揮が周りより多少様になっていたために合唱祭で持て囃され、半分自慰的なパフォーマンスでもって自分のクラスで最優秀賞を獲得して図に乗った。

高校の頃は気まぐれでたまに作っていた曲や歌詞がどれも自分の中ではオリジナリティに溢れた素晴らしいものに思え、どこに出して評価されたでもないのに、自己満足を募らせ十代特有の全能感と相まって自分を天才であると心底信じて疑わなかった。

しかし大学ではそうはいかなかった。クラシックを愛し、小さい頃から作曲や理論を積み上げてきている連中の作る音楽は緻密でどれも素晴らしく、僕の聞き齧っただけで作った音楽は素人臭く、とても稚拙でつまらなく、モドキのように感じられた。しっかりと音楽を咀嚼し、自分の血の通った音楽を作る彼らを「本物」であると思うと同時に、その反対の自分を「ニセモノ」だと認識するようになっていった。そして「本物」の連中に到底叶う気がせず、僕はまともにやりあうことから逃げだしたのだった。

ではクラシックではなくバンド界隈に身を置く今は違うのかといえば、僕はここでも「ニセモノ」であるという意識が拭えない。

バンドならバンドの世界で、積み上げてきた連中に溢れている。
「オルタナ」とか、「パンク」とか、「シューゲイザー」とか、それぞれこれというジャンルを標榜してその音楽を突き詰めようとしている「本物」がいる。
僕はぶっちゃけてしまえば、そういう数多ある、ライブの現場でバンドマンが口にするジャンルの数々をよくわかっていない。無学であることが実に恥ずかしくて、無駄に凝り固まったプライドから、先輩やバンドメンバーとの会話で海外のバンドやアーティスト、著名らしいプレイヤーの名前を出されても知ったかぶりしてしまう。

ありがたいこと僕の音楽は独自性が高いといっていただけることがたまにある。それは僕が普段耳にするクラシックやジャズ、ポップス、劇伴音楽、ファンク、ロックなどあらゆる要素を取り入れているからだと思うが、しかしやはりどれも聞き齧って上澄みをなんとなくなぞっているだけにすぎない。

「このジャンルだ」と言い切れるものを知らないから、「シネマティックポップス」という存在しないジャンルを創造して標榜している。もっとわかりやすいものにすれば、間口が広がるとわかっていながら。

YouTubeのShortsを見ているときに「インチキジャズと本物ジャズの違い」という動画がたまたま流れてきた。

ジャズにはジャズの理論があり、ジャズピアニストの立場からピアノ系Youtuberによく見られるジャズもどきの音楽をなじる内容で、共感もできたが、僕の色んなジャンルをつまみ食いしたような音楽もきっと、そのジャンルを突き詰めている人からすれば気分のよくないものなのではないかと思ってしまう。

時たま「本物」と感じる人と出会うととてつもない劣等感に襲われる。各楽器を技術と理論も含め体得しているプレイヤー、特に自分が挫折したと感じているクラシックの出身で、技巧の卓越したキーボーディストには顕著にそれを感じてしまう。

自分の音楽をつまらない、破綻したものだと思われていないか気がかりになってしまう。

しかしそういう思考回路になってしまうのは自分自身が乏しい自尊感情から、ライブの現場などで見聞きした自分と同じアマチュアの、自分から見てつまらないと思った音楽や理論的に破綻していると思った音楽を小馬鹿にすることで自己を保とうとする浅はかな批判精神からくるものに過ぎない。

それゆえに、自分から見て「本物」である立場の人間に同様に思われやしないかと感じてしまうのだ。

音楽とは関係ないが、イケメンや美人やいわゆる高学歴と言われる人らにも、内心ばかにされているのではないかと思ってしまい、引け目を感じてしまう。

ただのルサンチマンである。実にくだらない。


しかし一旦冷静になってみると、僕は誰のために、なんのために音楽をやっているのだろう。

理由はひとつ。
自分の音楽をもって、自己の存在を証明すること

あらゆるジャンルで本物になるためではない。

いやそれも目標の一つではあるし、いつかはあのときできなかったクラシックの勉強を時間をかけてしたいと思っていて、あらゆる音楽を聴く必要がないとか、それらの勉強をする必要がないと言いたいわけじゃない。当然それらは一生続けていかなければならない。ドイツの巨匠ブラームスがベートーヴェンの後継たる重圧に耐えながら、二十年以上の月日を費やして交響曲第一番を書き上げたように、僕にもどれだけ時間がかかろうとも書きたい音楽がある。

ただ今は、自分が書くことのできて、表現したい音楽を成立させられるだけの知識でも良いのかもしれない。

芸人のとろサーモンの久保田さんが若手芸人の悩みを聞くという動画の中で、周りの目を気にしてしまうという相談に対して、
「目の前の水槽に黒い魚がいて、その絵を書けって言われたときに、みんな黒い魚を書いた。お前は黄緑の魚を描こうと思ったけど、周りを見てやめるよ。でもこの世界では黄緑を描いたお前の勝ちやねん。なんでこんな発想に至るのって。人の目を気にせず描いた勇気のあるやるやつの勝ちやねん。」と言っていた。


僕の音楽は、対バンするどのバンドとも違う響きに聴こえる。
それゆえ対バンのバンドマンやそのお客さんに刺さっていない、受け入れられていないと感じることは多々あるし、周りのバンドに寄せた、ライブハウスに寄せた、バンドらしいシンプルでわかりやすい音楽を作った方が良いのではないかと思うこともある。

だけれども、音楽にしてもMCでの立ち回り方にしても、独自性があると言ってもらえるということは、支持されるためには持ち合わせなくてはならない、個性やキャラクターがあるということに相違ないのかもしれない。

リカピチュレディオとして活動して一年。
自分の音楽を評価してくれる声は少なくないのにそれをまっすぐ受け止められないのは自身を「ニセモノ」と括る自己評価の低さからだ。

かといって自分を「本物」と思うことは到底できない。

ならば「ニセモノ」のままでいい。
とことんこの邪道を突き進んで、リカピチュレディオというジャンルを突き詰めて、その中で本物になってやるのだ。

「ニセモノ」の逆襲が、今この瞬間からはじまる。

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