見出し画像

日本人的発想の素

素=もと、ですね。
味の素のもと、それと同じ。

日本人の超自我にバンドルでインストールされている儒教思想について、
今日は個人的意見のオンパレードでお話したいと思います。

突然ですが、歴史って皆さんお好きですか?
私は好きな時代だけ好きであとはその出来事の西暦を覚えるのは嫌いでしたね、いい国つくろう鎌倉幕府とか、学生時代から「あっしには一切関係ございません」と言わんばかりに覚える気がそもそも、皆無。

昨今、歴史などは私の義務教育当時から相当内容が変更になったそうで、
メジャーなところでは「聖徳太子」は架空の人物、つまりはフィクションで、現在は「中大兄皇子」がということになってますよね。
(偉人・超人扱いの聖徳太子の10人の話を同時に聞くとかは、私ごときでもできなくもないですが、、)

なかには政治的、国際関係上などの問題や思惑の違いから曖昧にしていることなどもありますが、ここで言いたいのは過去のお偉い先生が言い、それが教科書に記載されて尚、歴史研究が進み文献からひも解くとどうやら違うのだけど、その先生がご存命である限り変更ができないということがあったそうですが、これらは儒教思想が根幹にあると言えますよね。

「 事実 < 立場 」
(歴史ですから今回は現実というのは使いません、タイムマシンにお願いでもしないと確認できませんから現実は無しということで、、、。)
これを少し変形すると
「偉い人の言うことは全て正しい」このようになります。
(ちょっと発展しすぎましたか?、でも、これを平気な顔で当たり前のこととして話す人がいます、、、マジで「ビックリたまげたもんざえもん」です。)

少なくとも現代においては、あり得ませんね。
これをマジで偉い人や立場が上の人が言ってたら、ガチで引きます。
寒気すら感じます、悪寒、アカーン!(やべぇヤツです)

聖人君主というのはどうしたって幻想です、夢・物語です、断言します。
過去、歴史においてたくさんの暴君がいたのですし、周辺諸国などの立場からすれば同じ心境にはなれませんからね、例えるのなら、桃太郎で言えば、鬼の残された親族は桃太郎こそが悪です。

つまり、偉いとされる学者の立場というのは虚構でしかないが、史実も事実であって現実であったかどうかもわからないし、それも歴史の中の虚構であるかも知れないが、数多くの史実や資料から積み上げ複数の研究でわかってきたこととでは比較にはなりませんよね。

立場という虚構が立ち塞がる
それは誰しもこの虚構の世の中で良い生活がしたいですから、いちいち世の権力者に楯突かないほうが良いですよね。
確かに、それが儒教の教えの一つです。
(一応言っときますが、私は論語好きですよ。)

しかし、いつまでも聖徳太子、聖徳太子とは言ってられないのが現代においての事実ですから、変化を恐れずに受け入れながら、上手に対応しなければなりませんよね。

そして現代の日本人、更には儒教思想の強い東アジア周辺国も、既にグローバル社会のなかで経済的に国際競争関係にあるわけで、自分たちの思想が必ずしも正しいと言い切れなくなってますから、やや方向転換が必要なのでは?というお話です。

実際、昨今の教育方針でも、暗記より、考える力や想像力の「社会情動的スキル」重視型に移行、国際競争力を高めようとしています。
※社会情動的スキルに関しては、OECD(経済協力開発機構)で各種研究・調査、これらをもとに各国の教育関係者で制度設計などもしております。

知ってることも知識としては大切ですが、日本人の場合は特に考えることから始めたほうがよいのではないかと思います。
もう「〇〇さんが言ってたので、」とか、「〇〇さんの話が絶対だ」などの無思考はそろそろ卒業しましょうよ、儒教思想がそれを助長している側面は否めないと思います。

そのうえで、昔のやり方が全てではない、それならば現状を踏まえ良い道を探すために考える力や想像する力で歩んで行きましょう。
このように私は言いたいのです。

偉いとされる人にこそ柔軟に受け入れる心が大切だと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

またよろしくお願いいたします。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?