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蝶々は小さい頃から好きだった。

ひらひらと宙を舞い、なかなか虫取り網では捕まえられない。

黒くて大きなアゲハ蝶をつかまえようとするけど中々つかまらない。その瞬間は、猫がネコジャラシで遊び続けるような気分で、無邪気に蝶を家の近所の通りで1人追いかけて、ただひたすら楽しかった。

母が庭に植えた花に、よく蝶がとまっていた。

モンシロチョウも、モンキチョウも、アゲハ蝶も、マダラチョウも。

かれらはどこから来て、そしてどこへ行ったんだろうか。

幼い僕の脳内に、あの美しいリズムを刻んで。



高校生の頃に生物学オリンピックという大会に出場した。日本全国から生物好きのオタク高校生が集まるその大会で、他の参加者に、生き物の中で何が1番好き?と聞かれたら、蝶が好きと答えていた。全然知識はもってなかったけど、蝶はただ好きだった。

生物オタクたちはめっちゃ生き物の知識があるし好奇心も強いので、「なんの蝶が好き?」とか、「蝶のどんなところが好き?」とかたくさん聞いてくるかと思った。だけどほとんど深くは聞いてこなかった。僕は安心した。

僕はただ蝶の幻想的な羽ばたきが好きなだけだったから、そんな突っ込んだ質問は答えられない。蝶をただずっと見てきただけだし、これからもただずっと見ていたいだけだった。


蝶は、あの優雅な様子に反して、泥水をすすったり、死体から栄養を得たりと、泥臭い生き方もしている。ということはかろうじて知ってる。

泥臭いことをして、表では美しく舞う。

カッコいいね。





大学生になってから出会った話に面白い話がある。

蝶が一回羽ばたくと、その羽で小さな風がまきおこる。そして、その影響がどこまで大きな影響へとつながるかは誰もわからない。もしかしたら遠く離れた地で、トルネードを巻き起こすかもしれない。その可能性は否定できないよね?という話。

例えばブラジルで蝶が羽ばたくと、その風の影響で、少し空気の流れ方が変わり、それによってテキサス州にトルネードが起きるかもしれない。

そんな話を科学者がまともに語ったりする。そんな世界だここは。

いまの話は「バタフライ効果」と言ったりする。

日本のことわざでいけば、「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざと似た意味だ。

ほんの小さな出来事が、少しずついろんな現象を巻き起こして、最終的に全く関連が無さそうな現象をひきおこすことの例えとして使われる。

天気には、風や波など、よくわからない、予測できないゆらゆらとした動きが多くある。風や波や天気を予測することはとっても難しいし、もしかしたら、もしかすると、ほんの小さな蝶の羽ばたきが、超巨大な影響を生み、歴史を変える可能性もある。

僕ら人間にとっては、この人生、この人生の未来そのものが、複雑で予測できないものだ。今日の小さな行動が、昨日の何の意味もない行為が、世界に実は多大な影響を与えている可能性があると考えると、

この世界のふしぎさに触れることができる。



そういえば、この世界のふしぎさを表す蝶の話がまだあった。

中国の故事に「胡蝶の夢」というものがある。

僕が高校の漢文の授業で習った文章の中で1番好きな文章だ。 

話の概要はこんな感じ。

「ある時、私は蝶になった夢を見た。
私は蝶になりきっていたらしく、それが自分の夢だと自覚できなかった。
しかしふと目が覚めてみれば、まぎれもなく私は私であって蝶ではない。
蝶になった夢を私が見ていたのか?
私になった夢を蝶が見ているのか?
きっと私と蝶との間には区別があっても絶対的な違いと呼べるものはない。
つまりそこにどちらが本物でどちらが偽物かなんて言い切れるわけはないのだろう。
~荘子~」


そして、この話の趣旨は、

「本物の自分が、蝶だろうが人だろうが、結局わかんないし、どうでもいいんやで」

「1番大事なのは、今を生きる!それだけじゃん?僕が自分を蝶と思う時間は蝶として楽しむし、人なら人の生を楽しむ!」

ってことかな〜?と、とりあえずは解釈したはずだった。今思えばそんなのは浅い解釈だったと思う。

今は真剣にこの話を捉えたい。我々は本当に蝶を含む自然の生命の中に自分の魂をアクセスできる、ーーそこに魂が宿っているーー、可能性があると考えている。究極的なアニミズムでもある。

本当は、この話での「蝶」っていうのは、自分の別の人格とか、抑えている自分、の比喩ととらえてもいいかもですね。「蝶」は昔から魂そのものの象徴として描かれることも考慮に入れたいですね。

1番大事なのは、こんな夢の話なんか真剣に捉えずに「今を生きる」です!ともし言われたとしても、そんなメッセージでは僕の心には響かない。われわれは自分とは何者か?を問わずにはいられない。そうじゃないですか?そんな考えないですか?

私たちは、人間であることに飽きだしていて、こんにち、多くの人が「人間」を辞めたがっていると僕は思います。この肉体、この自我をもって生まれたことへの疑問が頭から離れず、それが当たり前だとはもう思わなくなってきている(無意識にね)。そんな時代に入っているんじゃないでしょうか。
 



「胡蝶の夢」。こんなにも幻想的な文章、自分が本当に自分なのか?と、終わりの無い問いを覗かせるこの文章に、ぼくはただただ、ハッとさせられる。

ふつうに「今を生きよう!」と簡潔するよりも、「あれ?ぼくって本物なんだっけ?夢の中の自分ってたしかにいるよなぁ、そっちが本物か?ん?なんなんだこの終わりのない問いは、?気になる、気になるな〜〜」っと高校生のレイ少年はかんがえていた。






さて、こういう幻想的な話には、蝶はよく登場するわけだけど、それもうなづける生き物としてのフォルムだなぁ〜と思う
  
 

あのすがたかたちと動き方、
そうとう魅惑的。

深い森に誘われる。

意識をもっていかれる

手に入りそうで入らない、
ふと目を離したらどこかへいってしまいそうな、
ゆらゆらうごめき煌めく浪漫に、いつまでもこころ躍らせていきたい

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