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きょうだいを受け止めた言葉

5月の終わりに、次男の小学校の運動会があった。
うちの次男は発達がゆっくりで、特に運動が苦手なタイプなので、他の子たちと合わせた集団演技は難しく、ここ数年は運動会にはまともに参加していなかった。

毎年運動会の5年生の集団演技は、ソーラン節だ。
ソーラン節は、運動会の1つの花形演目でもあり、おそろいの黒いハッピを着て激しい踊りを踊る姿は、低学年の子どもたちの憧れでもある。
ハッピの背中には自分の好きな漢字を一文字つけるのだが、ちゃんと踊れるかどうかのテストに合格しないとハッピはもらえない。それもあって、先生たちの指導もこれまでになく厳しい。

黒いハッピをつけてソーラン節を踊るのは、1つのステータスであり、高学年としての誇りでもあり、だからこそ毎年子どもたちはみんながんばって練習する。それは、支援学級に通う子たちも同じだ。むしろ、そこに向けて低学年の内からずっと練習を重ねる。
そんなソーラン節を、今年次男は踊った。

運動会当日、三男を連れて見に行った。

ソーラン節が始まり、他の子に誘導されながら次男が入場する。
次男は「手を使わずに深くしゃがんで立ち上がる」というスクワットの動作をスムーズにはできない。ましてや、手の動きをつけながら右に左にしゃがみこんで踊るソーラン節の動きは、もうほとんど不可能と言っても過言ではない。
それでも一応テストは合格したらしい。自分の名前の一文字を入れた黒いハッピを着ている。

音楽が始まり踊りが始まると、しゃがみ込むことはないながらに身体を傾けて、手の動きにも次男なりに力を込めて精一杯踊り始めた。ソーラン節が表現している漁の様子を、イメージさせるような踊りだ。
明らかにまわりの子とは違うけど、自分なりにソーラン節を解釈して、自分なりにできる限りの表現をしている。
模倣運動としてはまだまだできていないけれど、身体表現としては素晴らしく、その踊りを堂々と踊る次男の姿に、私は深く感動した。

涙が溢れそうになりながらビデオをまわす私の横で、ふと三男が言った。

「あゆちゃん(次男)、ちょっとだけへたくそだね。」

三男なりに気を遣って"ちょっとだけ"という言葉をつけたのかもしれないが、兄弟というのは辛辣なもので、基本的に配慮とか遠慮とかは一切ない。
この遠慮のなさに救われることもたくさんあるが、さすがに今回は出かけていた涙も引っ込んで苦笑いが漏れた。

事実、他の子と比べたら上手ではないのは確かだ。
本人比で見てあげようと思っても、去年までは運動会はボイコットしてたし、次男がソーラン節を踊ってる姿は、今まで一度も見たことがない。
だから、三男の言う気持ちもわかる。
それでも、次男なりにがんばっているということは、わかってほしいとは思った。

私 「そう?あゆちゃん、がんばってたよー」
三男「えー、ちょっとだけへたくそだった」
私 「こういうの苦手なのに、がんばってたんだよー」

自宅に戻って、運動会に行けなかった長男と夫に映像を見せていたら、そこにはやはり私とやり取りする三男の言葉がはっきりと入っていた。
その辛辣さについみんな笑ってしまいながらも、この遠慮のなさが5歳の三男のリアルな感覚だし、兄弟だからこその言葉だし、その言葉を言ったことを誰も咎めることはなかった。

当の次男は、そんなことは関係ないとばかりに、ソーラン節を踊り切った達成感で満足そうにニコニコ走り回っていた。

それから2ヶ月くらいが経ったある日、三男と布団でゴロゴロしながらスマホの写真を遡って見ていたら、次男の運動会の映像が出てきた。
まだ再生ボタンも押していないその瞬間に、三男が表情をスッと変えて、
「あのさ、、あのね、、、」と言い出した。

三男「あのさ、、忘れてほしいんだけど、、、」
私 「え?何を?」
三男「あのね、、ぼくが前に言った、
   "へ"からはじまる、みんなが悲しくなる4文字の言葉をね、、
   忘れてほしい。」

驚いた。
ただただ驚いた。

この運動会の話は、その後の2ヶ月、ほとんど話題に出ていない。
三男が言った言葉もみんな忘れて、普通に楽しく毎日を暮らしている。

でも三男だけは、心のどこかにこの自分が発した言葉がずっと引っかかっていたのだろう。
わざわざその4文字の言葉を、直接言わずにどうにか表現しようとするくらい、良くない言葉だったんだと、どこかのタイミングで気が付いてから、ずっとずっと引っかかっていたのだろう。

次男がそういうことが苦手だという事も、少しずつわかってきたのかもしれない。どうやら他の子とちょっと違うという事もわかってきたのかもしれない。
そういえば、この2カ月、三男は私に次男の特徴のことについて、いろいろと質問をしていた。
その上で、事実とはいえ、傷付く言葉を言ってしまった自分を恥ずかしいと思って、反省して。
そして、固い表情で、勇気を振り絞って、こう言葉にした。

「がんばってるなって思ったから。もうあの言葉は忘れてほしい。」

これは、三男なりに次男を受け止めたからこそ出てきた言葉だ。
次男の運動会の演技には、ふさわしい言葉が別にある。
その思いを5歳なりに精一杯表現した言葉の美しさが、胸に響いた。

きょうだい児という言葉がある。
障害がある子の兄弟をさす言葉だ。
単に"そうである"というだけでなく、その兄弟であるということで受ける精神的な悩みや実際に行わないといけない支援などの負担のニュアンスも含めて、きょうだい児という言葉は使われる。

つい忘れられがちだが、親が子どもの障害受容を少しずつ重ねていくように、きょうだい児も兄弟の障害受容をいろんなタイミングで重ねていく。

そういえば長男が4歳の頃、普通の子は遅くても2歳になったら歩くし話せるんだと保育園で聞いてきて、次男の2歳の誕生日を心待ちにしていた時があった。
次男が普通の子とは違う事はわかっていても、2歳になったら突然歩いて話すんじゃないか。そういう期待を持って、誕生日を待っていたのだ。
それでも誕生日を迎えてもやっぱり次男は歩かないし話さなくて、それを受けて長男がはっきりと違和感を言葉にした。

長男「あゆちゃんさ、2歳になったのに歩かないし話もしないよ。」
私 「そうだね。変だなーって思う?」
長男「うん。思う。」
私 「そうだよね。あゆちゃんは、他の子よりいろんなことがゆっくりの子なんだ。それがなんでかはわからないんだけどね。病気かもしれないし、神様が決めたのかもしれない。」
長男「・・・あ!そうだ!思い出した!
   ぼくね、ママのお腹にいる時に、あゆちゃんと一緒に神様のところに行ったんだ。それでね、ゆっくりにしてくださーいってお願いしたんだ!
   そうだ!そうだったよ!思い出したー!」

4歳の長男なりに、精一杯次男を受け止めた言葉だ。
こちらからお願いしたんじゃ仕方ない。
この時の長男の言葉は、今も胸に響いている。

そんなエピソードを思い出し、感慨深くなった私は、長男に三男の言葉の話をしてみた。

「あぁ、それ、Youtubeのねばーるくんとかの影響じゃない?
 そういうのよくないよーって、ねばーるくん教えてくれるから」

ね、ねばーるくん・・・?
茨城の納豆の妖精、ねばねばねばーるくん?

そうか。。そうなのか・・・?!
三男を深い世界に連れて行ってくれたのは、ねばーるくんなのか・・・?!

ふぅ。これは、いつものごとく私が深く考えすぎなだけなんだろうか?
本当に、兄弟の世界は、きょうだいの世界は、いつもわからないことばかりだ。

それでも、そうやって家族がそれぞれにそれぞれの受け止め方で、お互いを受け止め合って、そのたくさんの関係性が重なり合って、一つの家族としての形が浮かび上がっていく。
きっと、共に生きるとはそういう事だ。

ねばーるくんの影響なのかどうなのかはわからないけれど、また新しい関係性がうまれている。

そしてきっとこんな日々が、
家族を、社会を、つくっていく。

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