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【意見求む】バーチャルユーチューバーの文化と夢追翔さんについて3つご質問があります(ファン・非ファン問わずコメント欄へどうぞ)




このnoteは、夢追翔さんのアルバムについてレビューしたnoteについて、さらにはそのうえにあるバーチャルユーチューバーの文化について意見を頂くために書いたnoteになります。
人によっては触れにくい題材を扱っていることをご理解ください。
そのうえで、以下の3つの質問について、ご自身が思ったことやコメントを頂ければ幸いです。

また必ずしもにじさんじ、あるいはVtuberのファンではない方でも、特に「③バーチャルユーチューバーの世界を普通の文化と並列して語り始めていいか」について意見をコメントにいただければ幸いです。
③は1つの界隈がポピュラーになった時に、その文化がどうやって外の文化と折り合いをつけるかについての問題です。




前提 夢追翔のnoteを書くに至った心境について

経緯をお話します。

私は、にじさんじやホロライブを中心にカラオケで90点以上を記録し、歌った曲を中心にレビューするnoteを投稿しました。その中で、夢追翔のアルバム『拝啓、匣庭の中より』(特にその中の曲『音楽なんざクソくらえ』)に反応し、マウントを取るような文章を書いてしまいました。
その後の経緯については、私の友人であり、夢追翔のファンであるいすゞさんのnoteに詳しいです。


このnoteを書いてしまった時の経緯は次のようになります。

①夢追翔のアルバム『拝啓、匣庭の中より』を聞いた時に、特に「共感性終始」という曲が、直球で自殺のことを扱っているように感じていました。
他のにじさんじの曲との落差も暗さのトーンもアルバム全体で激しかったこと、なにより自分が好きなバンド(Linkin Park)を自殺で亡くしていたことから、夢追翔の存在をnoteを書かないことも考えていました。しかし、それはにじさんじから夢追翔の存在をハブにしようとすることに他ならないと考え、きちんとnoteで書くことにしました。

②一方で、1人のライバーの「希死念慮」の言葉を名指しすることは、1つのレッテルをVtuberに与えてしまうとも考え、これについても言及しないことにしました。そうした微妙なバランスのことを考えていた時に、「音楽なんざクソくらえ」という曲が耳に入りました。
マイケルジャクソンやホイットニーヒューストンといった音楽で人を救おうとして、そして死んでいった人たちの曲が好きだった自分は、それまで繊細な気持ちでnoteを書き考え込んでしまったために、カッとなってしまいました。そのため、そのようなアーティストたちを無理やり引用してマウントを取るような文章を書いてしまいました。
ただ、この間も定期的にTwitter上でSpaceをとり、夢追翔のアルバムやVtuberの今後については継続的に話をしていました。

こうした経緯を前提に①、②の質問を作りました。

まずは改めて、夢追翔さんのファンの方には一個人が起こしたことで、ファンの方のこころを傷つけたことを申し訳なく思っています。
申しわけありませんでした。



今回、このnoteを出すにあたって、数人の方の校閲・内容の問題点を言っていただき、チェックをしていただきました。お忙しい中、チェックしていただき本当にありがとうございました。もっとわかりやすい文章を書くよう努力します。

今回質問させていただくことは、夢追翔さんやVtuberについて書いているとき、これまで悩んでいて自分で答えが見つからなかったことです。
私の間違いは、Vtuberという多くの人が関わる文化に対して、自分一人で解決して勝手に答えを出そうとしていたことでした。そこで、今回このような形でご意見を頂く場所をつくりました。
全てではなくても、感じたことなどあればコメント欄に書いていただければ幸いです。




①動画サイトやSpotifyで「露骨な表現を含むコンテンツ」と表示されるもの(特に自殺)を扱う場合など、noteに注意書きをすべきか



これは夢追翔の曲に限った話ではないことが前提です。
YOASOBIの『夜に駆ける』、Logicの『1-800-273-8255』といったYouTubeには、自殺をテーマにした作品であるとして、「自殺や自傷行為のトピックが含まれている可能性がある」として注意書きがされています。
今回、①のように自分が「希死念慮」について直球で思っていることを言わなかったのが、禍の最初でした。ただ、それはバーチャルユーチューバーを多く扱ったnoteの中でも確実に浮きすぎると考えやめてしまっていました。

そこで、今後noteを書くとき

①自殺やその他強い言葉を含む歌を扱わない
②露骨な表現と思われるものは、冒頭にひとこと注意書きをする
③特に気にせず、そのまま扱う

(もちろんこれ以外のアイデアもあり)

この三つのどれがよいでしょうか。今のところ、私自身は今後は②ひとこと注意書きをして、どうしても危ういことを書きそうになった時は①扱わない方針で考えていますが、まだ迷いがあります。

個人的には、中高の子供達も例えばSyudouさんやNeruさんの曲を聞いて、こうした暗い感情にはせることはあり得るし、③特に気にせずそのまま扱うことが望ましいと考えていました。
しかし今回自分自身がこれほど揺さぶられるものだと考えると、やはり最低限の立て看板として、注意書きは必要だと思われます。

そしてこのことに思い至れば、夢追翔のnoteで強い言葉を使ってしまうような経緯に至らず、まっすぐ言いたいことを言えたと考えています。


夢追翔の曲『音楽なんざクソくらえ』は、SpotifyでE判定(露骨な表現を含む)がつけられました。個人的にはこの曲にはつかずに『共感性終止』がつくかな……と思いましたが、一応「露骨な表現を使った」曲との扱いになりました。

今回の出来事を踏まえて、一旦自殺についての知見を大学の教授の本も読みながら確認した。以上がそのnoteになります。


②夢追翔の今後の次の曲について私が触るべきか


声が大きい30歳の男性ミュージシャン。
潰れる寸前のライブハウスにお客さんを呼ぶため、配信を始めた。
楽器は苦手だが作曲と歌が得意で、自分の曲を世界中の人に聴いてもらうのが夢。
お金がないのでライブハウスに住み込んでおり、夜な夜なもやしを炒めて生活している。

夢追翔公式紹介文より

Rain氏の今回の批評は確かに落ち度が多く、言葉が荒く厳しめだったかもしれないんですが、徒党を組んで削除させるほどの内容だったかというと、正直そうとは言えないと思っています。
まぁ、正直、みんな読んでモヤモヤはしたと思う。解釈以前に事実とは異なる間違いも多いし。でももう少し適切な結末があっても良かったのでは・・・?と考えたりしました。

いすゞさんのnoteより

これは、特にいすゞさんのnoteの返答になると思います。

夢追翔さんのnoteについて起こしてしまったことについて、その後、
夢追ファンの方、夢追ファンではない他Vの推しの方、そしてVtuberのファンではない方に相談をしました。その時の反応では、もちろん強い言葉を使ったことが一番問題が大きいと指摘があった反面、ほぼ全員から出てきた意見がありました。それは

「夢追翔に関するnoteを削除してしまったことが、夢追翔個人だけではなくにじさんじが、曲の解釈を一回間違えると集団で否定される場所であるという印象を与えてしまう」
そして
「カラオケという形で、一番Vtuberの曲を聞いて歌った音楽好きの人間が、一番にじさんじで誠実にシンガーソングライターをしているVtuberのことで妙な状態になっているのは哀しいことだ

というものでした。
これはインターネットの特性の問題でもあります。一つのnoteの悪評が一気にバズってしまい、一人一人は個人の意見をポロっと言ってしまったつもりでも、それがいつの間にか集団で一人を詰める形になる。
故に、私は以前からインターネット上ではなく、リアルで対面でVtuberを語ることができる場所が必要だと繰り返し書いてきました。
なぜなら、1人でVtuberを見ていた場合、たとえ事実の勘違いがあったとしても口頭で訂正ができず、かつ文章を書く向こう側に人がいることを忘れがちになるからです。文章はTwitterであれ、残ります。
そしてこの状況下では、思っていることをポッと言ってみることは、特にVtuberを知らない人にとっては難しい。そのアーティストについての情報を知っているのは、原理的に昔からのファンにほかならないからです。

ただ私が起こしてしまったことは変わりません。
私個人としては――リアル側の都合がつけば、ですが――次に夢追翔さんが曲を出した時にちゃんと文章を書くことだと考えています。

しかし、これは私個人がよいと言ってできることではありません
夢追翔ファンの方の前に自分のnoteが現れた時、もちろん「アンタに夢追翔の何が分かる!」という言葉が多く、そしてそれはその通りだと思って受け取りました。
しかし、一番悩んだのは夢追翔の曲が好きで、彼が劣等感を抱えながら様々な炎上がありながら、間違いながらも進んでいくその姿自体がが、私の曲のレビューによって否定されたように感じた人がいたことです
これは私にとって一番キツイことでした。私はあくまで曲とアルバムを中心に見ていて、彼の配信生活まで強くは立ち入ってなかったからです。

にじさんじ全体にも言えることですが、この世の中には必ずしも人に意見を言うことが苦手だったり、この世にいたくないという想いを持っている人がいます。そして、夢追翔の曲や、音楽を作って世界に対してもがいている彼の姿自体が救いになっている人は、間違いなくいました。


冒頭に引用したように、紹介文や非公式wikiが正しいとするなら夢追翔の望みの一つは「自分の音楽がVtuberという業界の垣根を超えて届く」ことです。でもそれは、実は夢追翔の曲が、彼の文脈を知らない人に、音楽のひとつとして届くことを文字通り意味します

もしも夢追翔のファンが望まないなら、彼の曲は外に紹介する文章を書くべきではないのか。それとも、彼の望み通り、例えばNirvanaやThe Smithのように、絶望を描く曲が好きな、外の世界の人の元に届けるのがいいのか。

この点について、自分自身でどうしたらいいか、まったく答えが見つかっていません。色々やらかした人間が触れないほうがいいことも、あると思います。

夢追翔ファンの方、あるいはVtuberに関わらず何かコンテンツに熱中した方は、どのようにお考えになりますでしょうか。

この問題は、この後に書くにじさんじやバーチャルユーチューバーの問題である③にもつながっていきます。


③バーチャルユーチューバーの世界を普通の文化と並列して語り始めていいか ーー「Vtuberの卒業」という特殊な習慣を例に


実は、①、②と関係して、今後のVtuberのnoteの方針として考えていたことがありました。それは、「Vtuberだから」「にじさんじだから」で特別扱いせず、他の文化の一部として語っていこうというものでした。それは音楽で言えば、社長のメタルの話をCrystal Lakeと一緒に、あるいは緑仙の曲をスペースシャワーTVで流れてくる髭男や米津玄師と一緒に語ることです。
あるいは葛葉さんが最近ウメハラさんとよく対戦されているように、

なぜなら、Vtuberの存在感はYouTube公式THE FIRST TAKEに取り上げられたように、もはやネットカルチャーの一部として避けて通れないパブリックなものになりつつあるからです。

実は、私のカラオケnoteは、友達の洋楽や絵の知り合いの人たちなどに
渡して意見をもらうために作る側面
がありました。特に夢追翔さんのアルバムについては、「グランジ」と呼ばれる絶望的な内面を掘り、世の中の暗い所を暴くようなジャンルが好きな人に、にじさんじにもこれだけ明るいだけじゃない、熱いことをしている人がいると話したところ、かなり好感を持って受け止められていました。


しかし、ここで大きな問題があります。
配信を特に見ない世界の人は、Vtuber世界の暗黙の掟を知らないということです。特に音楽は、配信が必ずしも主戦場ではありません。星街すいせいさんと花譜さんの記事は、まさにVtuberの音楽であってもVtuberだからという理由では聞かれていないと本人たち自身が思っていることを、示唆します。



私個人が今直面している問題も書きます。
直球で言うと、私は菅原圭さんとDUSTCELLのファンでした。にじさんじで活動中のことも知っているし、菅原さんについてはよく配信も観ていました。
しかし彼女たち、特にDUSTCELLの話はこれまでVtuberの中でもどう扱っていいものなのかもわからず、これまで音楽のnoteでは書くことを辞めていました。やはりファンの方と喋る時に、この二人の中の人のその後のキャリアの話を出すことは遠慮される方が多かったからです。

ただ、改めて考え直すと……こうした遠慮は将来的に誰のためにもならないように感じてきました。また、個人的にもにじさんじと、インターネットカルチャーの中で近い位置にいる二人のことを書けないとなると――もちろん、いたずらに昔を掘り起こすようなことは書きませんが――かなりnoteの書き方も限定されます。

これ以上、Vtuber側で卒業者が増えてしまうと、Vtuberを続ける人も、Vtuberを離れ新しいキャリアを始める人も、それを見ているファンも妙な距離感が出来続けてしまう。新天地にいこうとすればするほど、過去の亡霊がついてくるようになってしまうように思えたのです。

(例えばksonさんは龍が如くシリーズの公式のお仕事をいただくようになりました。そのため、ホロライブのファンの方の目に入ることもあると思います。このように、卒業した人が表の世界で有名になることはあり得ると思います。)


そこで、ご本人たちがどう間合いを取られるかはお任せして、これからは音楽やゲームについて書く時も特に卒業歴などを気にせずnoteを書こうと思っています。例えば「音楽」のジャンルで文章を書くとき、にじさんじの子と引退した子を並べることがありえる、という意味です。Vtuberだった過去に触れることは、文脈上必要がなければしません。

「卒業」した人に関して触れないという美学は、間違いなくコミュニティにとって非常によいことです。しかし、音楽や別のキャリアを始めるときに、こうしたバーチャルユーチューバーにとっての美徳が突然足枷になることがある。

・人の言葉を使って、人に対してイラストやMADを使って二次創作をする。
・SEEDsや1期生というチームが存在していた(後から来た人にとっては過去形)
・剣持という人がやっている謎の宗教団体(?)がある

こうした文化は、初見の人にはなかなか新奇なものに見えると思います。こうした独特の文化が、これからインターネット外の世界にVtuberが出ていった時に、どこかしかこうした文化が外からの影響で変わらざるを得ないと私は考えています。

文化が外に拡大していく時、必ずこうした摩擦は起こります。
その時にどうしても変えたくないものがあれば、ROMるのではなく、出来れば対話の場所を作って、外に出て行っていっても変わって欲しくない場所などについて意見を交換しておくべきだと、私は考えます。



しかし、こう堂々と書いていて、昔からにじさんじを見ていた人間として複雑な気持ちも大きくあります。
それはアンダーグラウンド性があるからこそできること、小さな内輪だから出来ることは間違いなくこの世にあるからです。卯月コウや月ノ美兎という捉えどころのない面白い存在や初期のSEEDsのような24時間放送は、見ている私にとっても外から見ただけではわからない魅力を持っています。

Vtuberは、これまで遠くにいるけど、近くにもいる友達のように寄り添ってくれる存在だったと感じています。そして、Vによって内側のファンを大事にしようとする人、音楽やゲームの界隈でどんどん大会やヒットチャートを登ろうとする人、あまりに多くのパターンがあります。

故に、「にじさんじ」や「Vtuber」という括りで語るよりも、そのアーティストが望んでいる文脈(音楽、ゲーム、サッカーなど)の一部として、普通のタレントと同じように語りたいと考えています。
それをバーチャルユーチューバーのファンの方はどう思われるか、意見が欲しいです。


最近、SpotifyはGacha Popと呼ばれる日本の音楽を再定義するプレイリストを作り、海外に紹介できるようにしています。このリストの中には星街すいせいさんやP丸様が入っています。
ある意味で、このプレイリストはおのおののミュージシャンの文脈を無視しています。が、勘違いなどがありつつ、間違いながらも覚えていくのが人間の成長である以上、ファーストタッチはこうしたものになると思います。



最後に ーーVtuberとファンコミュニティ、そしてその外部へ旅立つVたち

エンターテイメントに変化が起きている。
消費者と創作者が共にコンテンツを創る「共創」の時代が到来した。
人々の個性や多様性がより重要視されるようになった。

私がよく見るにじさんじ、ホロライブ、神椿という三つの事務所は、それぞれに細かい形態の違いがあるとはいえ、「共創」という言葉を旗印に、ファンと創作者(つまりVや運営)がそれぞれに影響し合って文化を5年にわたって盛り上げてきました。
そして、ついににじさんじもホロライブも上場し、広告・グッズ・タイアップの形で出ていこうとしています。
それは、ファンコミュニティの外へ旅立つことを意味します。


にじさんじやVtuberの界隈では「半年ROMれ」という言葉が一般的に使われます。これはつまり、ある程度時間をかけて界隈の空気を読んだうえで色々触れなさいということを意味します。
しかし、界隈自体が内から外に自ら出ていこうとしている時に、この慣習を貫こうとするのは、外の人たちに無茶を要求すると思います。
おそらく非公式wikiは必ず読んで欲しいとお願いするのが限界ですが、それも「非公式」ゆえ、完璧ではありません。

ここについて、バーチャルユーチューバーを愛する人たちが何を思っているか、言葉が欲しいのです。
もっとVについて良い語り方をするためのアイデアでもいい。
「ROMりなさい」という姿勢を貫徹するために、入門編を整理するもあり、あるいはどんどん変わっていく推しを見守る(壁になる)もよし。

これは私一人がどうこうできるものではなく、色んな人の意見があって、そのうえで運営や外で活躍するVtuberの人たちが自分で意思決定する問題だと思います。

どうか、これからにじさんじと枠を超えて、変わっていくだろうライバーたちとの付き合い方について、ご意見をください。





7/7追記

夢追翔さん本人として、ROM専をどう思うかについての動画がこちら

7/20追記

こちらのnoteへいただいたコメントなどを読んだ後のまとめをつくりました

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