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埼玉自民党県議団提出・虐待禁止条例改正案の働く親の無視っぷり〜政治家の劣化が酷すぎる

このところ、世の中はジャニーズジャニーズだが、その影に隠れて、ちょこちょこと酷いニュースを見かける。
その一つが、埼玉県の県議会に自民党県議団から提出された子どもの虐待禁止条例の改正案。結局、多くの批判を受けて、本日10日、この改正案は取り下げられたが、自民県議団は条例自体が間違っていたのではなく、県議団長の説明不足で国民の不安と心配につながったための取り下げとしている。

では、自民党県議団が提出していた条例改正案のどこが酷いのか、ご存知ない方もいるかもしれないのでちょっと挙げてみる。

●小学校3年生以下の子どもだけを家に残して外出してはならない
●県民は虐待を受けている子どもを発見した場合は速やかに通告する。

上記の具体例を自民県議団長に問うと、

「自宅に9歳の子を残して、回覧板を届けたり、ゴミ出しをする」
「高校生の兄弟に9歳の子を預ける」「9歳の子どもだけで公園で遊ばせる」などの行為も禁止事項であるとのこと。

子どもをめぐるいろいろな事故や事件が起こっていることを受けて、そんな環境の中に子どもだけで放置することは虐待に当たるということなのだが、こんなことまで虐待にあたるとして、発見したら通報しろなんて条例ができたら、ひとり親家庭などは子育てできなくなってしまう。この条例を守らねばならないというプレッシャーで、親がかえってイライラして子どもを叩いたり、別の虐待が起きてくる可能性も指摘されている。上記のような放置をして、子どもが事故や事件に巻き込まれる可能性よりも、そっちの可能性の方が高い気がする。多分、多くの親がそう思っているだろう。子どもにしたって、3年生ともなれば、あずっと親がそばにいると、監視されているようで嫌だろう。

もう、こんなこと書かずとも、多くの読者の方が、そんなの当たり前、この条例改正案はおかしすぎる。一体何がやりたいんだ!と思っていらっしゃるだろうし、この条例案が取り下げられた時点で、もうネタにするのさえバカバカしいのかもしれない。

しかし、問題なのはこんなおかしな改正案の提出に県議93人のうち52人もが名を連ねていることで、もし、取り下げなく提出されれば、多数決で可決されていたということだ。

家族の中で、誰かが常に子供と共にいなければならないとしたら、それは3世代同居とか、専業主婦(もしくは専業主夫)家庭であるかだろうか。夫婦共働きの家庭など全く想定していない。しかし、たとえ専業主婦家庭であったとしても、この虐待禁止条例改正案を実際に施行することは、子どもの自律を阻むものであるし、まるで監視社会がやってきたようで、自由で民主的な社会の構築には程遠い。   

政治家というのは一体なんなのだろう?
このところ、国民の多くが疑問を持っているのに、多くの政治家、特に自民党の政治家が主張しているため、国民の意思を無視して法案が通ったり、反対に話が進まないことが多すぎる。

例えば、夫婦別姓もそうだし、女性天皇容認、愛子さまを皇太子にという声も大きくなっているのに、秋篠宮家に悠仁親王がお生まれになったことで、議論は棚上げになっている。夫婦別姓は世論調査を見ても、社会での利便性や、歴史的なことや世界各国の状況を見ても、導入することにどんな問題があるのかわからないし、女性天皇議論についても、過去には女性天皇はいたし、その女性天皇の時代というのは日本国という国の土台を作ったような重要な時代が多い。推古天皇の時に17条の憲法を作り、その後、持統天皇の頃に日本書紀が著され、日本国という国名も認識されるようになっている。

それに、これは私が最も憂うことであるが、天皇のような「象徴」となられる方には、そういう存在として自分の一生を捧げると言ってもいい相当な覚悟が必要である。そういう人格を培うために天皇を体験した直系の親から帝王教育のようなものを受けるのである。彼らにとっては生まれてから1日1日が象徴天皇となるための修行のような日々だろう。しかし、いくら男子とは言え、そうした帝王教育を免れた立場に長年いた親のもとで育てられた人物に、一生「象徴天皇」を務める覚悟が育まれるものだろうかと思うのだ。
そういう存在であることを天皇御一家はどう考えておられるのだろう。
話が飛躍してきたので、元に戻そう。

なぜ、議員だけがこのような特殊な考えに染まってしまうのだろうか?
その背景に、旧統一教会に支援を受けていた議員たちが、票が欲しいために、その意を受けて、このようなおかしな法案を作ったり、反対したりしているということが、安倍元総理の銃撃事件以降言われ続け、検証も行われたが、なんとなくうやむやのままになっている。

今回の埼玉県議会の事案でも、そのことは噂されたが、検証時に旧統一教会との関係を認めたのは国会議員5人。もうその話は検証済みとばかりに、今回の件は議員個人の問題ということになり、さらなる検証は行われていない。

今回の条例改正案についてはあまりの酷さに、自民の国会議員からも批判の声が上がっているが、実は地方議会の方がそうした選挙協力を望める団体との関係は強いのかもしれない。
もちろん、今回の件で、そうした支援団体からの影響は否定してるから、これは一般論としての私の想像である。

しかし、そういうたった一部の人の声が、政治を動かすことがあるとしたら、民主主義ってなんなんだろう。
最終的には多数決で決めると知っているから、一票でも多くなればと姑息な手を使う。政治不信を高めて、浮動層が投票に来ないように仕組む。そうして、投票率を下げることで、自分たちの相対的な割合を上げ、法案をとおしていく。今や民主主義は多数決絶対主義だ。本来の民主主義はそんなものではないが、長くなるのでまた別の機会にゆずる。とにかく、義務教育での社会科の時間にもっと丁寧に民主主義の意味を教えねばならない。

そして、私たちは選挙に行かねばならない。
民主主義が絶対多数決制ではないにしても、結局決を採る際には、数の多い方を選ばねばならなくなる。多数派は自分たちの意見をできるだけそのままの形で通したいから、妥協点を見出す議論をなるべく避ける。今は民主主義=多数決と思う人が多い時代だから、それがやりやすいのだ。
意味なく多数決で負けてはいけない。
政治不信を無投票行動で表していると、こんなことになってしまう。
議会を好き勝手に操られないためにも、皆が選挙に行くべきだ。入れたい政党や議員がいないとしても、ベターを選ぶしかない。

ただ、私個人としては、カジノ法案や大阪万博の強引な開催などお金の無駄遣いでしかないような賛成できない政策をぶち上げ、結局は新自由主義的論理で弱者を切り捨てる維新の会がなぜか議席を伸ばしていることは懸念材料で、選挙に行く人が増えても、その票が維新の票を伸ばすことになるとしたら、ちょっと嫌なのだ。なぜ、こんな庶民いじめのような時代に、弱肉強食のような維新が人気を得るのか私にはわからないが、皆、維新の人々の歯切れの良い口振りが気持ち良いのだろうか。今は政治家ではないが、橋下徹氏の人気は未だ衰えていないしな、、、。私は昔、学級委員だの生徒会役員だのをやり、その経験から思うのだが、世の中の大人は、本質的には自分に逆らわないが、表面的に自分に対して辛辣な言葉を吐き、噛み付いてくるような若者が好きだ。最終的には逆らわないが、表面的に噛み付いてくれることで、大人の側が太っ腹に見えるからである。昔の私には無意識に少しそういう部分もあったと思う。

維新の若い人たちにはそういう部分を感じる。なんだかんだ言いながら、多分、議席が増えたら、自民党に擦り寄って、公明党を追い出し、後釜を狙うのではないだろうか。
だから、今、維新に入れたら、結局はまた自民を利することになりかねない。私の勝手な想像だが、ここから先の選挙は慎重にならないと、日本はとんでもない国になりそうだから、懸念を感じたことは言っておきたいのだ。

こうした政治をなくすためにも、私は病気を克服して、残りの人生でも、世の中の矛盾について発信していきたいと思っています。死ぬ覚悟なんてできません。死ぬ覚悟で今後の人生は世の中の役に立てるような生き方がしたいです。
そのために、体が動きづらく、こうしてぎりぎり書くことくらいしかできず、生活費や治療費にも事欠く今の私を助けてください。

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