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葉子を「見る」「聞く」・その1(する/される・04)

 今回は『雪国』冒頭の汽車の場面で、葉子が島村から一方的にその姿を見られ、さらには声を聞かれる部分を見てみます。

 結論から言いますと、映っている現実(うつつ)は美しいということです。現実そのものではなく、映っている現実だからこそ、美しいのです。


エスカレート


 これまでの回をお読みになっていない方のために、この連載でおこなっている見立ての図式を紹介いたします。

・『雪国』(1948年・完結本出版)
 
一方的に相手を見る、一方的に相手の声を聞く。
     ↓
・『眠れる美女』(1961年・出版)
 一方的に相手を見る、一方的に相手の声を聞く、一方的に相手のにおいを嗅ぐ、一方的に相手に触れる、一方的に相手の体内へ自分の体の一部を差し入れる。

 このように、エスカレートしていくというのが見立てです。

没交渉の二人


 川端康成の『雪国』の冒頭、汽車の場面で、島村は通路をはさんで斜め向かいに座っている男性と葉子(この時点ではまだその素性を島村は知りません)を、車外の闇を背景に鏡と化したガラス窓に写った像として眺めます。

 その前に、島村が葉子の声を聞くシーンを見てみましょう。

 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん。」
 明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻えりまきで鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
 もうそんな寒さかと島村は外をながめると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾やますそに寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちにやみまれていた。
「駅長さん、私です、ご機嫌きげんよろしゅうございます。」
「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」
(川端康成『雪国』新潮文庫・p.5・以下同じ)

 興味深いのは、葉子と島村とのあいだにまったく交渉がない点です。没交渉という言葉が頭にうかびます。

 島村はひたすら見て聞いている、葉子は駅長との会話に夢中になっている。二人のあいだには、なんのやり取りもない。

 この場面を頭のなかで映像化してみると、両者の独立した動きがやや不自然に思えるのではないでしょうか。

夢を見る、作品を読む


 その不自然さは夢に似ていないこともありません。

 夢のなかでは、こうした不自然さが自然に進行していきます。夢には肯定しかないからです。

 夢を見ている者は「ああそうですか」とうなずくか、あれよあれよと事態の進行を見つづけるしかないのです。

 それが現実との大きな違いだと私は思います。夢の展開に異議を唱えて、夢のなかで能動的に振る舞おうとしたとき、夢は覚めるのかもしれません。

     *

 もしそうであるなら、夢のなかでは意識のうちの、どこかが欠けているのかもしれません。

 現実を満月にたとえるとすれば、夢は欠けた月であり、夢によってその欠け具合はまちまちだという気がします。

 月に満ち欠けとか月齢とか位相があるように、夢にも意識(無意識)の濃度があるのかもしれません。

 ただし、循環性や規則性はない気がします。比喩の限界です。

傍観者、参観者、参加者


 その意味で文学作品は夢に似ています。

 作品を前にして読む人は、程度の差はあれ(欠け具合のことです)、傍観者であり続けない限り読めません。

 作品に対して批判や否定をするにしても、その前に全面的に肯定しなければ作品は読めません。

 作品を読んでいない者に、作品を批判や否定する権利はないのですから。読むことなしの批判や否定は根拠のない悪態でしかありません。

     *

 傍観、参観、参加――。

 文学作品を読む場合には、ひたすら受動的に傍観するか、または、ある程度の能動的な意識をもって参観することはできても、作品のつくりや書き方やストーリーの展開を変更する形で能動的に参加することはできません。

 いったん完成した作品を、読者が気に食わないところを書き直しながら読むことは現実的ではないという意味です。

     *

 作者でさえ、完成して公開した作品――印刷物であれ電子書籍であれネット上で公開している作品であれ――に参加者として臨むこと(読んでいて気に食わないところを直すことです)は、きわめて難しいのではないかと思います。

 いわゆる「いったん書かれた作品は作者を離れて存在する」状態のことです。

 文学作品も夢も、人は傍観するか、せいぜい参観するしかできないと思います。そうしないと読めないし、見えないのです。

小説は夢に似ている


 ようするに、小説は夢に似ているのです。

 小説を読むさいには、人は夢のように「あれよあれよ」と読みすすむしかありません。小説の書かれ方やストーリーをとりあえず受け入れて読むしかないのです。

 ただし、小説の場合には、気に食わなければ、読むのをやめればいいのですが、夢から「降りる」のはきわめて難しいでしょう。それが小説と夢の違いです。

     *

「そして十年が過ぎた。」と書かれていれば、「ああ、そうですか」と受け入れるしかない。または「ああ、あほらしい」と読むのを中断すればいい。これが小説です。

 いっぽうで、夢を自分の意志で中断するのは、不可能に近いのではないでしょうか。意志を働かせた瞬間に、夢から覚める気がします。

 現実はといえば、うつつからは容易には降りられません。いや、降りてはなりません。けっして。

 話を変えます。

「夢のからくり」


 夢といえば、『雪国』の汽車の場面に、「夢のからくり」という魅力的なフレーズが出てきます。     

このようにして距離というものを忘れながら、二人は果てしなく遠くへ行くものの姿のように思われたほどだった。それゆえ島村は悲しみを見ているというつらさはなくて、夢のからくりを眺めているような思いだった。不思議な鏡のなかのことだったからでもあろう。
(p.10・太文字は引用者による)

 引用箇所で、島村は通路を隔てて斜めに向かい合っている葉子と連れの男がくり返している仕草を見ているのですが、この「夢のからくり」という言葉は、その直後にある「(不思議な)鏡のなかのこと」と呼応しているかのように私には思えます。

夢、鏡、言葉


 ここで夢と鏡が出てきましたが、私はそれに言葉を加えたいです。

 夢、鏡、言葉に共通するのは、「映る・映す」「写る・写す」です。何が映り、そして写り、何を映す、そして写すのかと言えば、うつつ(現実)です。

 夢と鏡と言葉には、うつつ(現実)が映る・写る。
 夢と鏡と言葉は、うつつ(現実)を映す・写す。

 さらに、次のようにも言えるでしょう。

「映る・映す」「写る・写す」は、物理的な移動である「移る・移す」の代償行動である。

 この点については、拙文「「移す」代わりに「映す・写す」」で詳しく話しています。

     *

 大切なのは、『雪国』では、夢と鏡と言葉が、現実を映し写すものとしてあつかわれていることです。

 具体的に見てみましょう。

葉子の声を聞く


 島村がどのように葉子の声を聞いているかを見てみます。

「駅長さん、弟は今出ておりませんの?」と、葉子は雪の上を目捜しして、
「駅長さん、弟をよく見てやって、お願いです。」
 悲しいほど美しい声であった。高い響きのまま夜の雪から木魂こだまして来そうだった。
(p.7)

 この場面の前のほうで、「向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。」とあったのですから、島村と葉子はかなり接近しているはずです。

 おそらく、この場面で二人はいちばん接近した位置にいます。

 それこそ息がかかるほどの空間にいるはずなのに、なんという没交渉じみた描写なのでしょう。

 視点的人物である島村はといえば、葉子が窓を開けていて寒いはずなのに、余裕をもって「見る」人物を演じています。

 島村は「悲しいほど美しい声であった。高い響きのまま夜の雪から木魂こだまして来そうだった。」と、のんきとも言える心もちでいるのですから。

(後述しますが、「悲しいほど美しい声であった。」の「悲しい」と、「高い響きのまま夜の雪から木魂こだまして来そうだった。」の「響き」と「木魂」に注目したいです。)

     *

 やはり夢に似ています。現実の光景には見えません。

 そうした読者がいだくにちがいない不可解さを作者は解きほぐす必要があります。

 葉子は窓をしめて、赤らんだ頬に両手をあてた。
(p.7)

 描写はこの一行でとうとつに終わり、この小説は島村の目をとおしての状況の説明に入ります。

説明に描写をまじえる


 たとえば、以下の箇所に見られる筆致は描写ではなく、もはや説明でしょう。

 しかし、ここで「娘」と言うのは、島村にそう見えたからであって、連れの男が彼女のなんであるか、無論島村の知りはずはなかった。二人のしぐさは夫婦じみていたけれども、男は明らかに病人だった。
(p.7)

 しばらく、こうした状況の説明がつづきますが、いかにも言い訳じみた説明に終始することなく、しだいに説明に描写をまじえていくところが川端の語りのうまさでもあります。

 もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かしていろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけていく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の感触で今もれていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけてにおいをいでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼かためがはっきり浮き出たのだった。
(p.8)

 これで一センテンスです。
 
 意識の流れとか心理描写という言葉がうかびます。「この指だけは」からは巧みな描写と言えるでしょう。

ルビのつかい方の巧みさ


 とつぜん四つ立て続けに出てくるルビのつかい方が、じつに巧みなのです。いやらしいルビだとお思いになりませんか? まさに、いやらしいのです。

 視覚的に意味をダイレクトに感じさせる漢字の性質と、音で意味をじわりと感じさせるひらがなの特性の両方を、こうした官能的な言葉にまとわせているのです。⇒ 「意味を絵で見せる漢字、意味を音で奏でる仮名(好きな文章・05)」

     *

・この指だけは女の感触で今もれていて
 触感・触覚、水分、隠喩としての指、ぬるぬるを想起させる「ぬ・nu」れて。

・鼻につけてにおいをいでみたりしていたが
 嗅覚、隠喩としての鼻、「匂・嗅」という字面から想起される「におい・匂い・臭い」。「にお・nio」い、「か・ka」いで。

・女の片眼かためがはっきり浮き出たのだった。
「片目」や「かため」にはない漢字二語のインパクト。まさに、「片眼かため」という二文字が、はっきり浮き出ている。

「悲しい」を聞く、「悲しみ」を見る


 次の引用をご覧ください。

「駅長さん、弟は今出ておりませんの?」と、葉子は雪の上を目捜しして、
「駅長さん、弟をよく見てやって、お願いです。」
 悲しいほど美しい声であった。高い響きのまま夜の雪から木魂こだまして来そうだった。
(p.7・太文字は引用者による)

このようにして距離というものを忘れながら、二人は果てしなく遠くへ行くものの姿のように思われたほどだった。それゆえ島村は悲しみを見ているというつらさはなくて、夢のからくりを眺めているような思いだった。不思議な鏡のなかのことだったからでもあろう。
(p.10・太文字は引用者による)

 以上の二か所では共通して「悲し」があります。簡略化すると、前者では「悲しい」「声」という連なりであり、後者では「悲しみ」を「見ている」という言葉の連なりが見られます。

     *

「聞く」と「見る」の対象に「悲し」があるということですが、私はこの「悲し」は「現実」の「うつし」だと思います。詳しく言うと、葉子の生活の「現実」をうつしたものとして、「悲し」が葉子の声と葉子の姿があるという意味です。

 葉子が現実の世界で生きている「悲しさ(悲しみ)」を、島村は葉子の声の「響き」に聞き、鏡と化したガラス窓にうつった葉子の姿に見ているとも言えます。

 しかも、その声と像は「美しい」ものとしてうつっているのです。

うつっているうつつはうつくしい


 現実の世界で生活している葉子の悲しさと悲しみは、みじめさであり、まずしさであるはずです。これは次の引用文からも、うかがわれます。

 しかし、ここで「娘」と言うのは、島村にそう見えたからであって、連れの男が彼女のなんであるか、無論島村の知りはずはなかった。二人のしぐさは夫婦じみていたけれども、男は明らかに病人だった。
(p.7)

 この汽車の場面では、まだ島村は葉子の素性を知りませんが、「明らかに病人」と見られる年上の男の世話をしているらしいと島村の目にはうつっているのです。

 鏡と化したガラス窓に映る悲しみと、声に反響している(響いている)つまり、反映している(映っている)悲しさ――。

 ともに「映っている」ものであることに注目したいです。現実そのものではなく、現実が鏡と声に映っている悲しさと悲しみだからこそ、美しいのです。

 うつっているうつつはうつくしい。
 うつつのうつしはうつくしい。

 これが川端康成にとっての「悲しい」であり「美しい」なのです。これは、『雪国』だけでなく、川端の作品群に共通して見られる、言葉のありようであり、言葉の身振りであると私には感じられます。

 そして、おそらく、うつしに囲まれて生きている私たちの身振りでもあるのです。

きれい、きたない、けがれる


 うつしとは映像、複製、文字、複製された音声のことです。うつくしくありませんか? きれいではないですか? 

 私の語感では、うつくしいというよりも、きれいです。うつしですから、清潔だし整理されているからです。においもしません。ふれることもできません。

 うつしは別物だからです。

 だから、うつっているものは、ただただきれいなのです。ひとごとだからきれいなのです。

     *

 きたなくないのです。きたないものには、ヒトはふれません。ヒトにとって、きたないものはけがれているからでしょう。

 きれい、綺麗、奇麗
 きたない、汚い、穢い
 けがれる、汚れる、穢れる

 きれいはきたない、きたないはきれい。
 よいはわるい、わるいはよい。
 Fair is foul, and foul is fair.(『マクベス』ウィリアム・シェイクスピア)

 うつくしい、美しい、愛しい
 うるわしい、麗しい、美しい、愛しい

 かわいい、可愛い、かわいい、カワイイ、kawaii
 かわいそう、可愛そう、可哀想、可哀相
 
 あわれむ、哀れむ、憐れむ

 私は「かわいい・kawaii」に現在世界に複製・拡散(うつす・うつる)されている「うつし」を感じます。かわいいし、ただただきれいなのです。いい悪いは関係なく。

     *

 もちろんあくまでもローカルな日本語の語感や言葉の綾の話ではありますが。

におわない、ふれることができない


 におわない、手と指でふれることができない。

 目を向ける・見入る、耳を傾ける、嗅ぐ、ふれる・なでる、味わう・食感を楽しむ――この中で私がいちばん動物を感じるのは「嗅ぐ」です。ヒトの話をしています。

 視覚、聴覚、嗅覚、触覚・触感、味覚・食感のうち、視覚、聴覚、嗅覚では対象との間に距離が必要です。

 触覚・触感と味覚・食感では、相手と接触していなければなりません。「する」側にも「される」側にも、「する」と「される」が同時に起きています。つまり、双方向的なのです。

     *

 ところで、一方的に、相手に知られずに、見る、聞く、嗅ぐ場合は多々あります。

 川端康成はこうした場合の行為にきわめて敏感だったと思います。なにしろ作品として書いているのですから。意識的でもあったと言えるでしょう。

 とりわけ『雪国』(ソフトでマイルドです)と『眠れる美女』『片腕』(ハードでワイルドです)です。

 対象(相手)を「うつす」のエスカレーションが、「映す」「写す」から、物理的な「移す」へとうつる意味で、『片腕』が頂点とか到達点と言えるかもしれません。

まことをうつす


 川端にとっての「うつし」と「うつす」、そして「する」「される」、それから「こちら・此方」「あちら・かなた・彼方」がよく出ている文章を引用します。

 十七日の夜、市長の招宴は、私の宿の聚楽じゅらくにあった。そして、十八日の明け方、名人が死んだという電話で、私は起こされたのだった。私はぐうろこ屋に行って名人を拝みいったん宿に帰って朝飯を済ませてから、紅葉祭に来ている作家や市の世話人とともに、逍遥の墓に参って話を供え、梅園へまわったが、その撫松庵ぶしょうあんでの宴会半ばから、またうろこ屋に行って、名人の死顔の写真をうつし、やがて遺骸いがいが東京に帰るのを見送った。
(川端康成『名人』新潮文庫p.5-6・以下同じ)

 私はなかの写真を出してみるなり、ああとその死顔にひき入れられた。写真はよく出来ていた。生きて眠っているように写って、しかも死の静けさが漂っていた。
(川端康成『名人』新潮文庫p.22・以下同じ)

 このあとには描写がつづくのですが、割愛します。淡々としているだけに凄みを感じる描写です。一方的にひたすら「見る」、そして言葉に「うつす」川端の目を感じます。

 後に私はやはり、死顔をうつすなど、心ないしわざだったと悔んだ。死顔の写真などのこすべきではあるまい。でも、この写真から、名人のただならぬ生涯が私にかよって来ることも事実であった。
(川端康成『名人』新潮文庫p.30・以下同じ)

 私は上の引用箇所にある「でも」に、はっとしました。この前の段落には「しかし」が二回もちいられているのに、「でも」とあり、川端の心の動きと揺れを感じたような気がしたからです。ぽろりと出た言葉の表情をしています。

 この文章のある「八」という章は読んでいて苦しくなります。ぜひ、原文をお読みいただきたいと思います。ちがった川端に触れることができるかもしれません。

 どうか、川端に貼られているさまざまなレッテルをいったん忘れてお読みください。私はこの作品の文体がとても好きです。

     *

 話を『雪国』にもどします。

鏡の中、夢の中、言葉の中


 以下は、新潮文庫版『雪国』の、8ページの6行目から12ページの7行目を対象にしたメモです。

     *

・人差し8-6、8-7・8-9・8-11
・その窓ガラスに線を引くと8-11
・向側の座席の女が写ったのだった8-13
・汽車のなかは明かりがついている。8-14
・それで窓ガラスになる。8-14
で拭くまでそのはなかった8-15-16
(てのひら)でガラスこすった。9-2
・男の顔は耳のあたりまでしか写らなかった。9-6
・娘は島村とちょうど斜めに向い合っていることになるので9-8
・なにか涼しく刺すようなの美しさに驚いて9-9
夢のからくりを見ているような思いだった10-5-6
の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。10-7-8
窓の鏡に写る娘の輪郭のまわりを絶えず夕景色が動いているので10-16-11-1
反射がなかった。11-4
・この鏡の映像窓の外のともし火を消す強さはなかった。11-7-8
・ともし火も映像を消しはしなかった。11-8
窓ガラスに写る自分の姿は見えず11-14-15
・島村が葉子を長い間盗見しながら11-16
・夕景色の鏡の非現実な力11-16-12-1
・もうはただであった。12-4
の魅力も失われてしまった。12-5
・葉子の美しい顔はやはり写っていたけれども12-5
の曇って来るのを拭おうともしなかった。12-7
(太文字は引用者による)

     *

 以上の引用箇所を見ると分かりますが、汽車の窓が鏡とほぼ同一視されています。この鏡が夢と言葉と言葉からなる小説に重なることは、上で述べてきたとおりです。

 視点的人物である島村から見て、登場人物たちは鏡の中にいて、夢の中にいます。そして、読む者、つまり私たちは、言葉の中にいるのです。

 私が注目したいのは、以下のくだりです。

・島村が葉子を長い間盗見しながら11-16 

 私たちは、言葉からなる小説に巻きこまれ、一方的に見る側にいるのです。言葉をとおして、鏡の中に、そして夢の中に引きこまれていると言えるでしょう。

さし違える


・なにか涼しく刺すようなの美しさに驚いて9-9

 このくだりも気になります。というのは、上のメモからお察しいただけるかもしれませんが、私は『雪国』の汽車の場面から、写、射、斜、車、シャッター、カシャッ、射る、入る――という感じがするのです。

 写、射、斜、車、シャッター、カシャッ、射る、入る
 指す、差す、刺す、射す、挿す

「さす」のです。そして「いる・はいる」のです。

     *

 川端の作品における「指」の役割と象徴性はきわめて大切です。指はなぞり、「さす」ものなのです。

 指、とりわけ人差し指が「何か」の代用であることは明らかでしょう。

     *

 大切なことなので繰りかえします。

 この場面での「島村の」視線は、ただ見るのでもなく、ながめているのでもなく、「さす、指す、差す、刺す、射す、挿す」のです。

 しゃしゃしゃと、音を立てて。s や sh の音です。

 ようするに、「S」がきわ立つのです。

 さらに言うなら、人差し指(親指でも小指でもありません)で、「さし」、なぞり、なでるのです。しかも、容赦なく一方的に有無を言わせず。

 そうです、とっても暴力的で(視線はその本質が暴力なのです、知らずに見られる暴力もあります)、いやらしいのです。

 この場面では、斜めから「長い間盗見」されていることに注目しましょう。見ることは一方的な暴力なのですが、盗み見(しかも斜めから)は隠れた暴力になります。

     *

 娘は島村とちょうど斜めに向かい合っていることになるので、じかにだって見られるのだが、彼女が汽車に乗り込んだ時、なにか涼しく刺すような娘の美しさに驚いて目を伏せる途端、娘の手を固くつかんだ男の青黄色い手が見えたものだから、島村は二度とそっちを向いては悪いような気がしていたのだった。
(p.9・太文字は引用者による)

 そんなSのイニシャルである島村(しまむら・Shimamura)が娘の美しさを「刺すような」と感じていると描写されていることに目を注がずにはいられません。
 
 さし違えているかのように私は感じてしまいます。指すと刺すでは「さす違い」ではありますけど。これは、さし違えです。

 指す、差す、刺す
 眼差し、目指し
 差し違える、刺し違える

「斜め」からでないと「さし違える」ことはできません。

     *

 さし違えると言っても、一方的なものでしかありません。鏡の中、夢の中、言葉からなる小説の中の話ですから。

 もちろん、これは私の一方的な見立てによる読みでしかありえませんが。

「映る・写る」の世界では、すべては一方的なのです。「移る・移す」が可能な現実(うつつ)とは、そこが違います。

 私たちはみんな、さし違えているのかもしれません。ずれ差違ているのです。

(つづく)

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