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わける、はかる、わかる

 本記事に収録した「同一視する「自由」、同一視する「不自由」」と「「鏡・時計・文字」という迷路」は、それぞれ加筆をして「鏡、時計、文字」というタイトルで新たな記事にしました。この二つの文章は以下のリンク先でお読みください。ご面倒をおかけします。申し訳ありません。(2024/02/27記)

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 今回の記事は、十部構成です。それぞれの文章は独立したものです。

 どの文章も愛着のあるものですが、とくにお薦めしたいのは「「鏡・時計・文字」という迷路」です。古井由吉作『杳子』の冒頭での二人の出会いの場面について書きました。

 あと「山川草木」も読書感想文です。川端康成の小説と、カズオ・イシグロの小説の邦訳に共通して出てくる「山」という文字に注目して、「まったく同じもの」について考えた文章です。


◆わける、はかる、わかる


 
似ている、そっくり、ほぼ同じ、同じ、同一について考えることがよくあります。個々の言葉とそのイメージについて個別に考えるのではなく、私の中ではぜんぶがつながっています。

「似ている」の度合いが「同じ」の度合いと重なる感じだと言えば、わかりやすいかもしれません。「つながっている」というのは階調(グラデーション)をなしているとも言えそうです。

 感覚的に考えるとぜんぶがつながっているのですが、このうちで「同じ」と「同一」だけが異質な感じがします。

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*はかる:人が苦手な行為。人は、「はかる」ための道具・器械・機械・システム(広義の「はかり」)をつくり、そうした物たちに、外部委託(外注)している。計測、計数、計算、計量、測定、観測。機械やシステムは高速かつ正確に「はかる」。誤差やエラーが起きることもある。

*わける:人が得意な行為。ヒトの歴史は「わける」の連続。分割、分離、分断、分類、分別、分解、分担、分裂、分配、分け前、身分、親分・子分。言葉と文字の基本的な身振りは「わける」。つかう道具は、縄と刃物とペン。線を引き、切り、しるす。

*わかる:人が自分は得意だと思っている行為。「はかる」と「わける」は見えるが、「わかる」は見えない。見えないから、その実態も成果も確認できない。お思いと同様に共有できない。行為や行動と言うよりも観念。一人ひとりのいだく思い込み。解釈、判断、判定、判決、理解、誤解、解脱、悟り。

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 以上のように私は考えているのですが、「似ている」と「そっくり」と「ほぼ同じ」は「わける」ことによって判断するのに対し、「同じ」と「同一」は「はかる」ことなしでは判断できないという感じがするのです。

 たとえば、生物の分類では、おもに見て「わける」が主流だった時代から、DNAによる鑑定で「はかる」時代に変ってきたらしいのですが、この場合の「はかる」は人は自力ではできません。

 自分のつくった機械やシステムに外部委託しなければならないのです。

 機械やシステムは人が自分の都合で自分の知覚に合わせてつくった物である点が大切です。

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 人が「わける」と同時に「名づける」ことで決めた「似ている」もの同士を、今度は人の決めた基準で「同じ」かどうかを「はかる」ために、人は自分のつくった「はかり」にその判断を委ねる。

 その「はかられた」結果を、人は自分の都合でさらに「わける」、そして「わかった」とする。その「わかった」が「外れる」場合もあれば、「合っている」ように事が運ぶこともある。

「はかった」(「はかり」に「かけた」)結果が「合っている」かどうかに「かかっている」。

 これは「賭け」ではないか。

 そもそも人の都合でつくった「はかり」が「合っている」かどうかは、おそらく「はかっても」「わからない」。というか「はかる」「はかり」がない。

 これは「賭け」ではないか。

「はかり」に「かける」は「かけ」。宙ぶらりん。揺れるのは当たり前。

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 似ている、そっくり、ほぼ同じ、同じ、同一。
 わける/わけられない、はかる/はかれない、わかる/わからない。

 あてる、当てる、当たる。
 あう、会う、合う、逢う、遭う、遇う。

 あう、合う、合っている、合わせる。
 かける、掛ける、架ける、懸ける、賭ける。

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「わける」ことで「似ている」が「同じ」かどうかを決めていた時代から、「はかる」ことで「似ている」が「同じ」かどうか、さらには「同一」かどうかまで「わかる」ようになってきた。

 こんなふうにも、まとめられそうです。

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 次のように図式化することもできます。

・人は「似ている」かどうかを基本とする印象の世界に住む。
・人のつくった広義の「はかり」は、「同じ」かどうかを「はかる」。

「似ているもの(わけられないもの・名づけられないもの)」を、「わける」=「名づける」
  ↓
「わかった」ことにする。まれに「わからなかった」ことにする。

「似ているもの(わけられないもの・名づけられないもの)」を、「わける」=「名づける」
  ↓
「わけた」=「名づけた」「似ているもの(わけられないもの・名づけられないもの)」を「はかり」にかける(掛ける・賭ける)
  ↓
「はかり」によって「はかられた」(はからずも「謀られた」になる場合あり)結果を、「似ているもの(わけられないもの・名づけられないもの)」として、あらたに「わける」=「名づける」
  ↓
「わかった」ことにする。まれに「わからなかった」ことにする。

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 ところで、モモとスモモは学問的な分類では「枝分かれ」図の先のほうで「異なる」そうです。そう言われても、私にとって両者は「似ている」度が高いので、遠い親戚ではなく親族のように思っています。

 カレイとヒラメについても同じです。というか、よくわかりません。つまり両者は「似ている」。どうやら私は分からず屋のようです。

◆鏡、時計、文字


 鏡と時計と文字を見ることはあまりない気がします。鏡自体、時計そのもの、文字を文字として見ることがあまりないという意味です。

 鏡や時計を買うときには、鏡自体と時計そのものを見て吟味することがあるでしょう。鏡のうつりを見たり、アナログ式の時計であれば針の長さや細さや見やすさを、デジタル式の時計であれば文字のデザインや見やすさを確かめるはずです。

 鏡で自分の顔や姿をうつし見る場合には、鏡自体を見ることはなさそうです。時刻を知りたい場合には、時計そのものに見入ることもない気がします。

 文字はと言えば、いまこの記事を読んでいる人が、画面にうつった文字の大きさやフォントや字面を気にするというのも考えにくいことです。

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 とはいうものの、人は鏡を覗きこむ形で見入ることがあり、時計をじっと見つめたり、短時間にちらちら何度も見ることがあります。

 文字や文字列や文や文章を眺めているという状況も、私にはよくあることだし、そうした仕草や動作をしている人の姿はけっして珍しいものではありません。

 鏡や時計や文字に見入っているとき、人は何をしているのでしょう? 「見ている」「見つめている」だけは説明がつかない気がします。

 おそらく「思い」や「感じる」の中にいるのでしょう。思い感じているときには、見ていないのではないでしょうか。人の意識の集中度には限りがあります。

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 鏡と時計と文字は、映画や物語や小説や詩や歌詞によく出てきます。それぞれが主要なテーマになっている作品もあれば、ある場面で小道具や脇役的な役割をになっていることもあります。比喩的にもちいられる場合も多いです。

 鏡と時計と文字なしの生活は考えにくいです。一日にそれぞれを見たり、見入ったり、ぼーっと眺めたりする時間をはかったら、その長さに驚くかもしれません。

 そんなふうに日々慣れ親しんでいるものでありながら、それらについて深く考えることはない気がします。それらについて深く考えるとすれば、それは不穏であり、あやうい状態であるとも思います。

 それなのに、それだからこそ、気になるのかもしれません。

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 鏡と時計と文字を目にするとき、人は同一視の世界にいるようです。

「似ている何かとそれとは別の似ている何か」を「同じものとして見る」わけですが、そのように「見る」だけですから「似ているだけではないか」という迷いがつねにある気もします。

 鏡と時計と文字には枠がありますが、同一視するためには枠が必要なのかもしれません。端っこがないと駄目なようです。

 鏡と時計と文字は枠のある平面上で見るもののようです。「見る」を目線と焦点の絡み合いとして見るなら、「見る」は直線状での運動なのかもしれません。

 どんな線も、細かくわけると直線に見える。そういう意味での直線であり直線状です。

 人はその直線上で迷っている気がします。それで満足している気がします。

◆鏡と時計と文字に見入るとき


 似ている、そっくり、ほぼ同じ、同じ、同一に興味があります。気になって仕方がないのです。似ている、そっくり、ほぼ同じ、同じ、同一を体感するには、鏡と時計と文字を見るのがいちばんだと思います。

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 突然ですが、時計を眺めるのは、どんな時ですか?

 時刻を知りたい時に時計を見ますが、じっと見ていたり、ちらちら見ることがあります。自分もそうだし、人を見ていてもそんな行動をします。

 時計を見るのは時刻を知りたい時だけではないようです。では、時刻を知りたい以外の時には、人は何を見ているのでしょう?

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 鏡を眺めるのは、どんな時ですか?

 鏡を覗きこむという意味です。

 鏡を覗きこむと、目の前にはたいてい自分の顔や姿が映っていますが、じっと見ているのは、どんな時ですか?

 自分の顔や姿の像を見たい時でしょうが、それにしても長い間見ている時があります。

 私にはお化粧をする習慣はありませんが、それでもときどき見入ることがあります。

 そんな時の自分は何を見ているのかと尋ねられると、返答に困ります。

     *

 文字を見るのは、どんな時ですか?

 文字や文字列や一センテンスくらいを読むのなら、すぐに読み終わりますが、じっと見つめていることが私にはあります。

 頻繁にとか、しょっちゅうあるというべきでしょう。

 読んでいると言うよりも、見ているという気がするし、さらに言えば眺めているのです。

 これまでの経験から、文字をじっと見ている人は身近にはほとんどいなかったようです。

 そんな時には何を見ているのかと尋ねられるとすれば、返答に困る自分がいる気がします。

 文字はじっと見るものではなさそうです。これだけは確かでしょう。

◆同一視する「自由」、同一視する「不自由」


 鏡と時計と文字を前にしたとき、人は「同一視する「自由」」と「同一視する「不自由」」を同時に身に受けます。

・鏡を前にして同一視するのは、目の前に見えるものと「自分」です。
・時計を前にして同一視するのは、目の前に見えるものと「いま」です。
・文字を前にして同一視するのは、目の前に見えるものと「目の前に見えないもの」です。

 こうしたものを「同一視する「自由」」と「同一視する「不自由」」を身に受け、体感するのです。

 上の三つのフレーズでは、図式的に言うと、AとBを同一視しているわけですが、AもBも人にとって不明なものである点が重要です。不明なもの同士を似ていると感じて同一視しているわけです。

 同一視という行為(むしろ思い)が、不安定であり、いかがわしいものであることがうかがわれると思います。

 だから、「同一視する「自由」」と「同一視する「不自由」」という言い方になります。

     *

 鏡と時計と文字について考えるとき、私は以下の文章を思いださずにはいられません。

「自由」と錯覚されることで希薄に共有される「不自由」、希薄さにみあった執拗さで普遍化される「不自由」。これをここでは、「制度」と名づけることにしよう。読まれるとおり、その「制度」は、「装置」とも「物語」とも「風景」とも綴りなおすことが可能なのものだ。だが、名付けがたい「不自由」としての「制度」は、それが「制度」であるという理由で否定されるべきだと主張されているのではない。「制度」は悪だと述べられているのでもない。「装置」として、「物語」として、不断に機能している「制度」を、人が充分に怖れるに至っていないという事実だけが、何度も繰り返し反復されているだけである。人が「制度」を充分に怖れようとしないのは、「制度」が、「自由」と「不自由」との快い錯覚をあたりに煽りたてているからだという点を、あらためて思い起こそうとすること。それがこの書物の主題といえばいえよう。その意味でこの書物は、いささかも「反=制度」的たろうと目論むものではない。あらかじめ誤解の起こるのを避けるべく広言しておくが、これは、ごく「不自由」で「制度」的な書物の一つにすぎない。
(蓮實重彥「表層批評宣言にむけて」(『表層批評宣言』所収・ちくま文庫)pp.6-7)

 鏡と時計と文字を前にしたとき、人は「同一視する「自由」」と「同一視する「不自由」」だけでなく、「同一視する「制度」」と「同一視する「装置」」と「同一視する「物語」」と「同一視する「風景」」と「同一視する「反=制度」」もまた同時に身に受け、体感するのではないでしょうか。

     *

・「同一視する「自由」」と「同一視する「不自由」」を同時に身に受ける。

 自由であって、自由ではない 
 自由であって、不自由でもある

 であって、ではない
 であって、でもある

 着地させない、宙吊りにする

 以上は蓮實重彥の文章に見られる言葉の身振りでもあります。⇒「【レトリック詞】であって、でない」 & 「でありながら、ではなくなってしまう(好きな文章・01)」

 いま述べたことは、蓮實自身の書いた文章であれ、蓮實が引用した文章であれ、センテンスレベルおよびレベルにおいて、以上の言葉の身振りが見られるという意味ですが、これは蓮實が言葉にそうした振りを装わせ演じさせているからにほかなりません。

 蓮實重彥は言葉の振付師なのです。

 では、まとめます。

     *

・鏡を前にして同一視するのは、目の前に見えるものと「自分」です。
・世界でいちばん大切な存在である「自分」と、それと「そっくり」な像を同一視する「自由」と同一視する「不自由」のあいだで揺れる。

 鏡に映っている自分の像はどう見ても自分だと人は感じます。なにしろ、「そっくり」なのです。とはいうものの、自分を直接見た人はいません。となると、「そっくり」なのかどうかは誰かに教えてもらった知識であり情報なのかもしれません。

 鏡に向って表情をつくったり、ある仕草をすると「同じ」表情と仕草をしていることが、鏡に映る像が自分である有力な根拠になります。「ああ、これはやっぱり自分なのだ」と勇気づけらます。安心もします。

 でも、冷静に考えると自分は自分で鏡のこっち側にいて、鏡に映っている像は自分とは別物なのです。こういうことは考えたくないですね。神経を逆なでする話だと言えます。

 鏡に映るのは、前に見た自分の像と「いま」見ている自分の像との「ずれ」だとも言えそうです。写真や動画で見た「前の」自分の像との「ずれ」でもあるでしょう。

「ずれ」を見ているというのは、記憶の中の像と「いま」目の前に見える像との比較とも言えるでしょう。

 視覚的に確認できる自分とは「ずれ」なのかもしれません。目に見える自分とは、いま鏡に映る像と、記憶の中の自分の像との「ずれ」だと言えそうです。

 もっと簡単に言うと、自分とは刻々と更新されつつある「ずれ」なのです。

 わたくし流に言うと、この「ずれ」とは顔にほかなりません。人は何にもまして顔を見るために鏡を見るのであり、鏡に何が映っていようと、人はそこに顔を見るのです。

     *

・時計を前にして同一視するのは、目の前に見えるものと「いま」です。
・刻々と体感しつつある「いま」と、誰もが逃れることのできない時間を表示する二本の針の形(または数字の組み合わせ)を同一視する「自由」と同一視する「不自由」のあいだで揺れる。

 時間そのものは見えません。時計は時を刻むと言うよりも時刻を表示しているというのが正確な言い方でしょう。

 時計は時間の代理とも言えそうです。「時計は時間の別の顔」という比喩的な表現も面白いですね。

 アナログ式の時計の場合には、長針と短針の形づくる姿(顔とか表情に見えることもあります)が、さまざまな記憶を呼び起こしてくれます。その意味では、時計は記憶再生装置なのです。

 デジタル式の時計の場合には、数字の組み合わせが、さまざまな記憶を呼び起こしてくれます。どんな時計でも(日時計や砂時計や水時計や腹時計でも)、それは記憶再生装置だと言えます。

 待っているときや退屈なときに時計を何度も見たり、じっと見つめていることがあります。時間が早く進んでくれないか、あるいは逆に遅く進んでくれないかと望む心理は誰もが経験しているにちがいありません。

 時間は見えないし、得体の知れないものだけに、人間の呪術的な心理が働きやすい気もします。

 時計に限らず、鏡と文字も呪術の対象であったり道具であったようです。いまもそうであると私は考えています。人は太古から一貫して呪術の世界に生きているのです。

 時間が早く進むように感じられる、逆に遅く進んでいるように感じられる。これもあるあるではないでしょうか。時とは摩訶不思議なものですね。

 いま時(とき)という言葉をつかいましたが、時と時間はニュアンスというかイメージがかなり異なっていると私は感じます。

 時間がどこでも一様に進んでいるというのは体感しにくいです。教えてもらった知識と情報であると言えそうです。

 とはいうものの、「いま」というのも体感しにくいものです。時間は得体が知れないという結論に落ち着きそうです。

 時計は時刻を知るだけのためにあるのではない。人は時刻を知るためだけに時計を見るわけでもない。これは確かなようです。

 わたくし流に言うと、時計とは顔(懐かしくて親しい顔)なのです。時計の文字盤のことを英語で face と言うからではありませんが。

     *

・文字を前にして同一視するのは、目の前に見えるものと「目の前に見えないもの」です。
・苦労して何度もくり返して覚えた文字と、それとは似ても似つかない物や事や現象を同一視する「自由」と同一視する「不自由」のあいだで揺れる。

 文字は、その文字が指ししめすものとはぜんぜん似ていません。猫という文字と猫というものはぜんぜん似ていないという意味です。

 唯一の例外は、文字という文字と文字というものなのかもしれません。文字という文字と文字というものは「そっくり」だし「同じ」だと体感されます。

 文字を前にしての同一視については、「まったく同じもの」、「山川草木」、「たった一つのもの、同じもの、複製」、「【レトリック詞】海がそこにある世界」という見出しの文章でお話しします。私は文字について考えるのが好きなのです。

 ただし、どの文章でも、おもに活字の文字について語っています。書いた文字になると、筆跡や巧拙などややこしい問題がからんでくるからです。

 いずれにせよ、活字であろうと手書きの文字であろうと、わたくし流に言うと、文字もまた顔なのです。

 点と線からなる顔であり、見えているようで見えない模様であり、たどり着ける「いま、ここ」であり、たどり着けない「かなた」、つまり「どこでもない空間」「いつでもない時間」でもあります。

『白髪の唄』の作者は、そのように、屈折したいくえもの時間のゆきかいを語りでひとつに融合させながら、語られていることのあやうさにもかかわらず、すべてをなめらかに書きついでゆく。実際、テレビ画面が伝えていた火災の光景から、炎を避けて母親と逃げまどった空襲の晩へと藤里自身の連想が移り、進退きわまって飛び込むしかなかったという見知らぬ防空壕の中で、病身だった五歳の妹が命を落としたことまで語り始めるとき、それを記述する言葉は、朝の電話口での彼との対話や、「私」の日常化した午前中の散歩という状況からはゆるやかにそれて、どこでもない空間、いつでもない時間に書きつがれてゆく非人称の言葉のつらなりへと、いつのまにか変貌して行くかのように見える。その結果、「……と話した」や「……と打ち明けた」という間接的な言辞の律儀なまでの挿入にもかかわらず、語られていることがらは、読者としての「私」の間接的な記述というより、あるとき思いたった作者が揺るぎなく筆を進めて書きつけてゆく生まれての言葉のように読めてしまう。あるいは、書きつつあるその瞬間に生成されてゆくかのようなこうした言葉と出会うための口実として、作者が、あえて説話的な間接構造をつくりだしているかのようにみえさえするのだ。
(蓮實重彥「古井由吉 狂いと隔たり 『白髪の唄』を読む」『魅せられて 作家論集』(河出書房新社)所収pp.172-173・太文字は引用者による)

 上の引用文は、伝聞をもちいた、古井由吉に特徴的な語り方を的確に言葉にした文章だと思います。なお、古井の伝聞への傾倒については、「「鏡・時計・文字」という迷路」という見出しの文章で触れます。

     *

 はかる、計る、図る、量る、測る、諮る、議る、謀る。

 鏡と時計と文字は、「あっている」かどうかを「はかる」ために人のつくった「はかり」。

「あっている」かどうかが「わけて」も「わからない」人が、人の都合に「あわせて」つくった「はかり」に「かける」のは「かけ」。

 おそらく「はかる」のではなく「はかれている」。

 はかりながら、はかられてしまっている。
 はかる振りを装いながら、はかられる振りを演じてしまう。

 宙ぶらりん、宙吊り。振り子、フーコーの振り子。

「ふれる」のは当たり前。「わける」「わかる」とは隔たったところで、ぶらぶらふれる。

 あう、合う、合っている、合わせる。
 かける、掛ける、架ける、懸ける、賭ける。
 ふれる、触れる、振れる、震れる、狂れる。

     *

 であって、ではない
 であって、でもある

 でありながら、ではなくなってしまう
 である振りを装いながら、である振りを演じてしまう。

 以上のような言葉の身振りに満ちた小説として古井由吉の『杳子』を挙げたいと思います。

 読むことの自由の振りを装いながら、読むことの不自由の振りをはからずも演じてしまう。読む者を、そんな振りに巻きこんでしまう作品なのです。

◆「鏡・時計・文字」という迷路(読書感想文)


 古井由吉の『杳子』の読みにくさは、通念に抗う細部に満ちていることから来る気がします。見立てで読もうとしても、見立て倒れになります。図式的な解釈を受けつけない展開をする小説なのです。

 ぎゃくに言うとさまざまな読み方ができるとも言えます。ただし、その読み方に沿わない細部を無視して強引に読み進める鈍感さが必要でしょう。

 ある場面や部分だけを見て、そこだけの印象を述べるという方法でなら、なんとか辻褄を合わせることもできそうな気もします。それでも、なんだかしっくり来ないのは私が鈍いからにちがいないと思ったことが、しきりにあります。

 そんな目にばかり遭っていると、かえって「疑心暗鬼を生ず」的な心理になり、ムキになってやたらいろいろな解釈を試みてや挫折するをくり返すものです。私の場合がそうです。

     *

 ある例を挙げます。

 女が顔をわずかにこちらに向けて、彼の立っているすこし左のあたりをぼんやりと眺め、何も見えなかったようにもとの凝視にもどった。それから、彼の影がふっと目の隅に残ったのか、女は今度はまともに彼のほうを仰ぎ、見つめるともなく、鈍いまなざしを彼の胸もとに注いだ。
(古井由吉『杳子』(『杳子・妻隠』新潮文庫)所収・pp.12-13・以下同じ)

 以上の箇所に、私は鏡を前にしたときの体験を重ねないではいられません。

     *

 上の引用箇所の続きです。

 気がつくと、彼の足はいつのまにか女をよけて右のほうへ右のほうへと動いていた。彼の動きにつれて、女は胸の前に腕を組みかわしたまま、上半身を段々によじり起こして、彼女の背後のほうへ背後のほうへと消えようとする彼の姿を目で追った。
 女のまなざしはたえず彼の動きに遅れたり、彼のところまで届かなくなったり、彼の頭を越えて遠くひろがったりしながら従ついてきた。彼の歩みは女を右へ右へとよけながら、それでいて一途に女から遠ざかろうとせず、女を中心にゆるい弧を描いていた。そうして彼は女との距離をほとんど縮めずに、女とほぼ同じ高さのところまで降りてきて、苦しそうに軀をこちらにねじ向けている女を見やりながら、そのまま歩みを進めた。
(p.13)

「細長い軀の」(p.22)「男」が「右へ右へと」動くさまは、時計まわりに動く長針のように感じられます。そう考えると「女」は短針に思えてきます。長針と短針との類似に合わない「男」と「女」の描写の細部を無視した読みです。

     *

 さらに上の引用箇所の続きです。

 その時、彼はふと、鈍くひろがる女の視野の中を影のように移っていく自分自身の姿を思い浮べた。というよりも、その姿をまざまざと見たような気がした。
(p.13)

 ここでまた、鏡の比喩を連想してしまいます。「影」は映る「姿」でしょう。

 そう考えると、

・「女の視野の中をのように移っていく自分自身の姿を思い浮べた。」

・「女の視野の中を影(=姿・像)のように映っていく(うつっていく・写っていく・移っていく)自分自身の姿(=影・像)を思い浮べた。」

という類推が浮びます。

「かげ」の多義性と「うつる」の多義性が、この言葉(文字)の身振りにあらわれているように見えてくるのです。

 鏡と文字の類似にも思いがおよびます。鏡は、人にとって「似ている」もの同士を同一視する場です。

 いっぽう、文字は、読み書きの学習の成果として、人にとって「似ていない」にもかかわらず、「似ていない」もの同士を同一視する場だと言えます。

     *

 一センテンスを飛ばして、引用します。

 漠とした哀しみから、彼も女を見つめかえした。すると女の姿も彼のまなざしにつなぎとめられずに表情をまた失い、はっきりと目に見えていながら、まわりの岩の姿ほどに訴えてこない。彼はすでに女の姿を背後に打ち捨てて歩みさるこころになった。
(pp.13-14)

 見えているようで見えていない。そう言わざるをえません。彼は女(杳子)を見ているようで見ていないとも言えます。

 目は開いているが、視界に入っているものを認めていない(見留めていない)とか、思いの中に沈んでいるという解釈ができるかもしれません。

 私だけの感覚なのかもしれませんが、私は鏡に映った自分の顔が見えません。はっきり見えるのですが、見留めることができないのです。

 目の前にありながら、目の前に見えていながら、目に留めて、認識できないというか。たとえば、その場で目をつむると、いま見たはずの鏡の中の顔を思い浮かべるのにとても苦労するのです。

 そうした個人的な感覚と重ね合わせて読んでしまうのです。

 さらにこじつけると、自分の書いた文章が読めないというのにも似ています。

 自分で書いたにもかかわらず、そして目の前に文字と文字列としてあるにもかかわらず、自分で書いたという思いが邪魔をして、その文が頭に入ってこない感じです。

 そんな感覚と、この引用文に書かれている文字(言葉)の身振りはよく似ているような気がします。

     *

『杳子』の「一」という章では、一行空けが二箇所あります。第一の一行空けから以下に引用する部分は、谷底での二人の出会いを、視点的人物である「彼」が、後に杳子から聞いた話をまじえての伝聞によって再構成するという形で書かれています。

 つまり、「彼」の視点からの二人の出会いが、杳子の視点から「再現」されるかのような展開になるのですが、杳子の口調はいかにも頼りないものとして描かれます。

 後になって、お互いに途方に暮れると、二人はしばしばこの時のことを思い返しあった。二人はそのつどそのつど、この奇妙な出会いをきれぎれな言葉で満たしあった。
(p.15)

 次の箇所からは、上で引用した「彼」の視点からの描写を、時を経て、まるで鏡の向こうから彼の動きを見ているような描写で、読者に見せる形式を取ります。

 簡単に言うと、杳子から見た(つまり伝聞による)「彼」の動きの描写なのですが、それがいかにも頼りないものなのです。

 足音が近くまで来てんだ時、その時はじめて、杳子はハッとした。誰かが上のほうに立って、彼女の横顔をじっと見おろしている、その感じが目の隅にある。たしかにあるのだけど、それが灰色のひろがりの、いったいどの辺に立っているのか、見当がつかない、見当はつかないから顔の動かしようもわからない。
(p.15)

 杳子にも、見えているようで見えていなかったと言わざるをえません。さきほど引用した「彼」の「見えているようで見えていない」振りとそっくりなのです。

 このように、古井由吉の小説では視覚の機能不全とも言えそうな状況がよく出てきます。とはいうものの、誰もがこうした失調をかかえているのではないかという気もします。

 人は「見る・見える」という言葉で想定されるほど、じっさいには見ていないし、見えていないという意味です。「見る」には「見落とす、見損じる、見誤る、見ない、見えない」が含まれると言えばわかりやすいかもしれません。

     *

 ……そのとたん、杳子の目は男の姿をはじめて視野の中心にとらえた。男は二、三歩彼女に向ってまっすぐに近づきかけて、彼女の視線を受けてたじろぎ、段々に左のほうへれていった。男は杳子から遠ざかるでもなく、杳子に近づくでもなく、大小さまざまな岩のひしめく河原におかしな弧を描いて、ときどき目の隅でちらりちらりと彼女を見やりながら歩いていく。
(p.22)

 さきほどの「彼」の視点からの描写を、まるで鏡の向こうから眺めたような描写がつづきます。

・彼の視点:「右のほうへ
・杳子の視点:「左のほうへ

・彼の視点:「それでいて一途に女から遠ざかろうとせず、女を中心にゆるい弧を描いていた。そうして彼は女との距離をほとんど縮めずに、女とほぼ同じ高さのところまで降りてきて、苦しそうに軀をこちらにねじ向けている女を見やりながら、そのまま歩みを進めた。
・杳子の視点:「男は杳子から遠ざかるでもなく、杳子に近づくでもなく、大小さまざまな岩のひしめく河原におかしな弧を描いて、ときどき目の隅でちらりちらりと彼女を見やりながら歩いていく。

 さらに言うなら、左右が逆である描写は、鏡で時計の針の動きを見るような印象を覚えずにはいられません。

     *

《いるな》と杳子は思った。しかしいくら見つめても、男の姿は岩原に突き立った棒杭ぼうくいのように無表情で、どうしても彼女の視野の中心にいきいきと浮かび上がってこない。《いるな》という思いは何の感情も呼び起こさずに、彼女の心をすりぬけていった。杳子は疲れて目をそむけた。それから、視線がまだこちらに注がれているのを感じて、また見上げた。すると、漠とひろがる視野の中で、男の姿がついと動き出した。そのとたんに……
(p.22)

「棒杭のように」という「彼」の印象は、時計の長針のように感じられます。「彼」は痩せてぼーっとした風貌の男として描かれています。

 ここで、さきほどの「彼」の視点からの描写を再度引用します。

 漠とした哀しみから、彼も女を見つめかえした。すると女の姿も彼のまなざしにつなぎとめられずに表情をまた失い、はっきりと目に見えていながら、まわりの岩の姿ほどに訴えてこない。彼はすでに女の姿を背後に打ち捨てて歩みさるこころになった。
(pp.13-14)

 驚くべき対称が見られます。同じ場面を異なる視点から見た描写ですから身振りや動作が対称をなすのは当然ですが、心理的にも似通っています。

 ここで顕著な、見えているようで見えていない、見ているようで見ていない状態というのは、相手が見てわかる「身体的な動作」ではなく、「心の動き(心理)」なのです。

 映っている(おそらく移ってもいる)のは、心の中だと言いたいほどです。心を映す(移す)鏡に向きあっているかのような描写ではないでしょうか。

 目、視野、視線、まなざし、見つめる――こうした言葉が頻出しますが、向きあって相手の瞳に見入り、そこに映った自分の顔を目にして戸惑っている二人を連想してしまいます。

 二人は似たもの同士なのです。ここで描かれている二人は距離を置きながらも、かなり似通ったメンタリティを示している気がします。心理的に近いのです。近しいのです。

 この場面の描写は心理的な鏡のようだという感じがします。

     *

 彼が右肩をさし出すと、杳子は自然に彼の右腕につかまってきた。彼は黙ってすぐに歩き出した。
(p.24)

 彼は杳子の手を右腕からほどいた。すると、杳子は岩の間にかがみこんでしまい、うらめしそうに彼を見上げた。彼はかまわずに杳子に背を向けて登り出し、そして十メートルばかり登ったところで振り返って、あごを軽くしゃくり上げ、従いてくるよう促した。杳子は黙って頭を横に振った。だがもう一度頭を振りかけて、彼女は彼の目を見つめた。その目をとらえて、彼は鋭く見つめかえした。すると杳子はゆっくりと腰を上げ、視線をたぐり寄せるようにして登ってきた。
(p.25)

 この視線と視線の織りなす濃密な関係ドラマから、二人がともぶれ(共振)しはじめた印象を私は受けます。この小説での後の展開を知っている読み手には、共依存とも言える関係性の萌芽を見るのではないでしょうか。

 見つめる、見つめかえす。二人はたがいに見入り見入られるどころか、魅入られているかのようです。たがいに魅入られていると言うべきでしょう。

 自と他が交錯しはじめているのです。

 鏡を見てください。覗きこむという意味です。そこにはがあるはずです。そこには自分あなた=eyeという他者自分=memeが映っているはずです。 
 瞳は鏡。
 ひとみは人見。ひとみは日止視。※諸説あり。
 自分あなたeye
 他者自分meme
 ※めめ、meme(英語の「ミーム」)、même(フランス語の「メム」:……自身・同じ・同一)
(拙文「ガラスをめぐる連想と思い出(言葉は魔法・04)」より)

 距離を置きながらも、二人はまるでたがいに瞳に魅入っているかのようです。

 この小説の描写は写実ではないのです。描写されている二人をめぐる風景と状況は現実とは思えません。

     *

『杳子』の読みにくさは、視覚機能の不全とも言える失調が描写されていることから来る。そんな気がします。

 文字は見るものです。見て読むものなのです。描写とは見ているように文字が描かれていなければなりません。

 描写の対象が視覚機能の不全を起こしているとすれば、読みにくい文章になるのは必然でしょう。

・信頼できない視覚(視覚への不信感)
・信頼できない視点(小説における描写への懐疑)
・信頼できない視点的人物および語り手

 以上の三つの「信頼できない」「視(見る・見える)」が古井の小説には見られる気がします。短絡的に言うとそうなります。

 直接的な視覚的描写を避けて、伝聞、説話、翻訳された文章、古典の文章という「他者の言葉(文字)」をなぞり、それに自分の言葉(文字)を重ねる方向へと傾いていく。そんな古井の軌跡の底には「信頼できない視覚・視点・視線的人物および語り手」へのまなざしがある気がします。

 また、古井の後期の一人称の語りによる小説では、回想の描写と、音の記憶の描写が増えてくる印象を受けます。「いま、ここ」が過去と重なったり交錯する形で語られるのです。

 そうした作風が「読みにくさ」につながるのは当然でしょう。ただし、文体の論理性は維持されていると私は思います。うんと我慢すれば、辻褄が合っているのが得心できる書かれ方をしているという意味です。

 だから、私は古井の作品を読むのです。

     *

 なお、「信頼できない視覚(視覚への不信感)」というのは、エッセイ「実体のない影――或る数学入門書を読んで」(1966年・同人誌『白描』七月号)(『言葉の呪術』(作品社)所収)と、「ムージルと虚なるもの」(河出書房版「特性のない男3」月報・昭和40年11月)(『日常の"変身"』(作品社)所収)を読んでの私の感想です。

 ここでは立ち入る余裕がありませんが、人の視覚的なイメージではすくい取れないイメージがあるという古井の思いと、確信の萌芽が感じ取れます(私の思い違いである線が濃厚ですけど)。

 視覚的にすくい取れないものを言葉(文字)にして「見る=読む」ことができるでしょうか? 文字とは視覚的なものです。

「実体のない影」は古井自身による年譜にも記述がある論考なので、古井にとってはかなり重要な文章であったと想像します。

そればかりか、もしもわれわれが投影というイメージに固執するならば、無限に拡がる二つの面が光源をはさんで対応することもあるのだから、われわれは《実体――光源――影》という途方もない関係につまずかなくてなるまい。
古井由吉「実体のない影――或る数学入門書を読んで」(『言葉の呪術』(作品社)所収・p.124)

     *

『杳子』の読みにくさを目の前にして、杳子は小説の比喩なのではないかとか、杳子は文字の暗喩なのではないかと言いたくなったことが何度もあります。

 けっしてたどり着けないものを目ざすいとなみ。

 向こうにあるものを目ざして、(時計の針や振り子時計の振り子のようにえんえんと)迂回して近づく振りを装い演じつづけるしかないものとしての文字――。その文字からなる小説を書くいとなみ、という意味です。

     *

 見ているようで見ていない。
 見えているようで見えていない。

 読むようで読んでいない。
 読めるようで読めていない。

     *

 であって、ではない
 であって、でもある

 でありながら、ではなくなってしまう
 である振りを装いながら、である振りを演じてしまう。

 古井由吉の『杳子』は、以上のような言葉の身振りに満ちた小説、つまり「いま、ここにある言葉」として、読む者の目の前にあります。

 読むことの自由の振りを装いながら、読むことの不自由の振りをはからずも演じてしまう。読む者を、そんな振りに巻きこんでしまう作品なのです。

     *

 鏡という迷路、時計という迷路、文字という迷路。

 真っ直ぐに進む視線、真っ直ぐに進む時間、始めと途中と終わりがあって直線状に進む小説。

 こんな安易な連想による見立てを笑うかのように、『杳子』という作品はつねに「いま、ここにある言葉」として「ある」のです。

     *

そして読むとは、もっぱらその一瞬ごとの現在を生きようとする試みにほかならない。というのも、人は、いま、ここにある言葉しか読むことができないからである。
(蓮實重彥『「私小説」を読む』(中央公論社)p.10・太文字は引用者による)

 鏡と時計と文字を目の前にすることは「いま、ここ」と出会う行為です。

 ただし、「いま、ここ」を「まともに目にする」のは人にとって過酷な体験であるため、人は目を開いたまま「思いに沈む」ことでその体験を回避する。そんなふうに考えています。

「何か」と「出会う」ことを避け、迂回し、迷路で迷うことを選ぶのです。

◆まったく同じもの


 歯ブラシを共有することができますか? 入れ歯はどうでしょう? 食べ物は? ガムは? 

 ひょっとして共有する相手しだいですか? 共有する相手の数によりますか?

 では、言葉はどうでしょう? 

 いま挙げたのは、どれも口にするものです。複数の辞書で「口にする」を調べると、次の語義が載っています。

・口にする 1)口に入れる。飲み食いする。口にくわえる。2)口に出して言う。話す。話題にする。うわさする。 

     *

 冗談はさておき、同じものをみんなで使うことがあります。同じどころか、まったく同じものです。

 まったく同じものをみんなで共有する、ということです。冗談ではなく。

 そうです、言葉のことです。

 言葉は複製として存在します。誰が口にしても、まったく同じです。つまり、みんなでまったく同じものを共有していることになります。

     *

 愛、真実、事実、正義、存在、無、時間、空間、山、川、猫、猿、地球、人間、戦争、平和――。

 言語による違いはありますが、個々の言葉は、まったく同じものをみんなで使っていると言えます。

 また、言語による違いはあったとしても、翻訳という魔法があります。「異なる」を「同じ」にする魔法です。

 だから、問題が起こります。

 争いも起きます。それが原因で人が死ぬことも、残念ながら、起きているし、起きてきたし、これからも起きるにちがいありません。

     *

「これが愛(真実・正義)だ」

「それは違うよ」、「そうじゃない」、「そういうものではない」、「違う違う、ぜったいに違う」、「そんなことを言っていると」、「いまに見てろ」、「覚えておけ」、「こうしてやる」

 言葉の応酬から実力行使へと移行します。言葉の応酬が戦争にいたった例は数知れずありそうです。

 宗教や学問の世界でもあります。そこでは議論だけでなく(時には議論よりも)、権謀術数と実力行使による闘争があります。

     *

 そこまでいかなくても、次のレベルでのイライラや怒りはよく見聞きします。

「この言葉の使い方は間違いだ(正しくない)」、「このところ、国語の乱れがひどい」、「これは美しくない○○語である」、「話す前に(書く前に)辞書を引きなさい」、「最近、若い人のアクセント(発音)が乱れてきて聞き苦しくてしかたない」

 他人の「歯ブラシ」の使い方に干渉するのです。そんな権利はないのに。

     *

 おそらく、「違うもの」、「異なるもの」、「似ているだけのもの」、「ほぼ同じもの」。こうしたものに「まったく同じもの」を当ててみんなで使っていると、争いが起きます。

 誰もが独り占めしたいからです。たった一つのものをめぐって、しのぎを削るという構図です。

 自分だけのものにしておきたい――これが「同じ」「同一」「たった一つ」のものに、つきまとう人間の心理です。

「同じ」「まったく同じ」「同一」「たった一つ」には、このように、恐ろしい面があることを忘れてはならないと思います。

「たった一つ」は無数の「異なる」を排除するからです。

     *

 とはいうものの、思いの異なる人同士が同じ言葉を口にするなんて、とても素晴らしいことにも感じられるから不思議です。

 これは授かり物であるにちがいありません。そうであれば、大切に使おうではありませんか。

◆山川草木(読書感想文)


 川端康成の書いた『山の音』の英訳でのタイトルは The Sound of the Mountain です。

 訳者である米国人のエドワード・G・サインデンステッカー氏が、この小説の舞台となる鎌倉の「山」と「小山」(両方とも川端の書いた原文にある言葉です)を自分の語感で mountain と訳したと理解できます。

     *

 カズオ・イシグロの書いた A Pale View of Hills の邦訳のタイトルは『遠い山なみの光』(ハヤカワepi文庫)です。長崎から英国に移り住んだ女性の登場人物が、戦後まもない長崎を回想している小説です。

 訳者である小野寺健氏が、この小説の中で長崎の hill(s) を自分の語感で「山(なみ)」とお訳しになったのだろうと想像します。

 記憶の中にある「遥か遠くの山々の眺め」(a pale view of hills)を「遠い山なみの光」という美しい日本語に移しかえた小野寺氏の詩情に敬意を表します。素晴らしい邦題です。

     *

 同じくカズオ・イシグロの書いた The Remains of the Day の邦訳『日の名残り』では、何度も出てくる英国の hill が「山」となっているのは、訳者である土屋政雄氏がご自分の語感で日本語に移しかえた結果にちがいありません。

 原文では一箇所だけ、hill ではなく mountain という語が使われています。

もちろん、見た目にもっと華やかな景観を誇る国々があることは、私も認めるにやぶさかではありません。私自身、百科事典や《ナショナル・ジオグラフィック・マガジン》で、壮大な渓谷や大瀑布、峨々たる山脈など、地球の隅々から送られてきた、息を飲むような写真を見たことがあります。
(カズオ・イシグロ著『日の名残り』土屋政雄訳(ハヤカワepi文庫)p.41・
太文字は引用者による)

「峨々(がが)たる山脈」(丸括弧による処理は引用者による)は原文では raggedly beautiful mountains となっています。言うまでもなく、これは英国の山ではなく、語り手が写真で見た「外国の」山々(複数形ですから山脈とか山岳地帯とも訳せます)のことです。

 英国には hill はあっても mountain はないと言われますが、引用箇所にそれがよくあらわれていると思います。なお、mountain と hill の違いについては、英和辞典に詳しく解説されているはずです。

     *

 川端康成が日本語で書き、英訳もある『山の音』、カズオ・イシグロが書いた A Pale View of Hills の邦訳である『遠い山なみの光』、同じくイシグロ作の The Remains of the Day の邦訳である『日の名残り』という日本語で書かれた作品を読むとき、共通して「山」という言葉が出てきます。

 鎌倉の山、長崎の山、英国の山
 鎌倉の「山」、長崎の「山」、英国の「山」

 山は山でも、それぞれの土地の写真や動画や映画で見ると、ずいぶん地形や地勢や風情が違って見えます。

 違ったもの、異なるものに、まったく同じ言葉が当てられていることを考えると、思わず唸っている自分がいます。

 それだけではないのです。

     *

國破れて山河在り
城春にして草木深し

 私はこの杜甫による漢詩をたまたま暗唱しているのですが、その「山」は大昔の中国の山を指していたはずだと思いあたり、はっとしないではいられません。

「やま」という音は、年月を経てその発音の仕方が変ってとしても、もともとこの島々にあったという言葉の「子孫」らしいです。

「さんがあり」と読んだときの、「さん」は昔の中国語がこの島々にいた人たちが聞いた音を「真似た」ものだったと想像します。

「真似た」は「借りた」でもあったのでしょう。げんに私たちがいま発音し文字として使っているのですから。

     *

 どんな言語も、「真似た」と「借りた」から成り立っているようです。学生時代に習った「英語の歴史」の話を思いだすと「真似る」と「借りる」の連続だった気がします。

 また「山河在り」の「河」ですが、中国では「川、河、江」が異なるようです。この三語をネットで検索するといろいろ勉強できます。

     *

 なお、この記事のタイトルは「山川草木(さんせんそうもく)」としましたが、とくに「山川草木悉皆成仏」を意識してつかったわけではありません。

 どうして「山川草木」の川が河でないのか不思議ですが、ネットで検索しても不明なので、深入りはしません。「山川草木悉皆成仏」の出所についても諸説があるようです。

 いずれにせよ、山川草木はいい言葉で好きです。

     *

 話をもどします。

 日本語であれ、英語であれ、中国語であれ、漢文であれ、言葉というものが、ざらりとした違和感に満ちたものに感じられてきます。どの言葉も借り物なのです。個人レベルでも(誰もが借りて真似て学びます)、国や地域や民族レベルでも、です。

     *

 山と川と言えば、幼い頃にうたい覚えた歌があります。唱歌「故郷(ふるさと)」(作詞:高野辰之、作曲:岡野貞)です。

 うさぎおいしかのやま こぶなつりしかのかわ

 こんなふうに、口をついて出てくる音声の連なりとして頭の中に、いや、たぶん体の中に流れとして入っているようです。

 うさぎひしの山やま
 小鮒こぶなりしの川かは

 この「かの山」と「かの川」にある、「かの」という「たった一つしかないもの」を指ししめす言葉が、無数の「異なるもの」を指してきた「山」と「川」という言葉に冠せられていることに、ほっとする自分がいます。

 誰にも、「あの山」、「この川」、「あの川」、「この山」があるのではないでしょうか? それは、その人にとって「たった一つのもの」であり、掛け替えのない存在であるはずです。

◆たった一つのもの、同じもの、複製


*「まったく同じもの」

「まったく同じもの」という見出しの章でお話ししたことをまとめます。

・「無数の異なるもの」(具象)に、
・「たった一つのもの」(抽象)を、

当てる。

 単純化すると、これが言葉と文字というものの仕組みです。

 無数の物にたった一つの文字を当てるということです。

 たとえば、

・無数のさまざまな「土の隆起」(具象)に、
・「たった一つのもの」である「山」という言葉と文字(抽象)を、

当てる、

と言えば、分かりやすいかもしれません。

*「山川草木」

「山川草木」という見出しの章でお話ししたことをまとめます。

・「たった一つのもの」(具象)に、
・「無数の異なるもの」(具象)を指ししめす「たった一つのもの」(抽象)を、

当てる。

 これも言葉と文字というものの仕組みです。さきほどの単純化したフレーズよりも詳しく言うとややこしく聞こえます。

 たとえば、

・「たった一つのもの」である「土の隆起」(具象)に、
・「無数の異なるもの」である「土の隆起」(具象)を指ししめす「たった一つのもの」である言葉と文字(抽象)を、

当てる、

と言えば、分かりやすいかもしれません。

*たった一つは、見方を変えれば無数

 たった一つのもの(具象)は、同時に無数の異なるもの(具象)として存在する――。言葉や文字派は、この考え方を基本としています。

 たった一つの具体的なものは、見方を変えると(言い方を変えると)、無数の異なる具体的なものである「言える」、と言えば分かりやすいかもしれません。

 大切なのは「言える」です。「である」ではなく「である」と「言える」だという点が重要なのです。

 言葉は「である」と言いながら、「である」と「言っているだけ」なのです。

 言葉は「言う」ものであり「語る」ものだから当然だとも言えるでしょう。

     *

「たった一つ」は見方を変えれば「無数」にあると「言える」、という話なのです。

 あるものだけを見れば、「たった一つ」でですが、目を転じれば、「たった一つのもの」があちこちにあるし、おそらく他の場所にもあるし、これまでもあったと、つまり「無数にある」とも「言える」という話です。

 あくまでも話であり事実ではありません。「○○という話」を「○○と決めた」とも「言える」と思います。

*人は自力では正確に「はかる」ことができない

 ただし、この話に出てくる「たった一つもの」とあちこちにある「たった一つのもの」が「同じ」かどうかは人には判断できないことは確かでしょう。

 人は自力では正確に「はかる」ことができないからです。

 そのため人は正確にはかるためのもの、広義の「はかり」――道具、器械、機械、システム――を自分で作って、その「はかり」に自分のできない「はかる」を委託してきました。いまもしています。

 人は「似ている」かどうかの判断しかできないのです。「同じ」かどうかの判断は外部委託する(委託先は物です)しかありません。

*「同じもの」としての複製

 たった一つであり、同時に無数でもある具体的な個々のもの(具象)に、たった一つの言葉と文字(抽象)が当てられているという話。

 つまり、具体的なもの(具象)に、言葉と文字という人のつくった複製(同じものとして存在するもの)が当てられているという話。

 個々の特定の言葉と文字は(たとえば「猫」という言葉と文字は)、複製として存在するので、誰が(あるいは機械が)いつどこで使っても、同じ(「猫」という言葉と文字)だという話。

 複製というものを「同じもの」「同一」のものと見なすと、いま述べたような話になります。

 一つ言えるのは、この話において、複製は「同じもの」として機能していることです。これは確かでしょう。本当に同じかどうかは別にして(保留して)の話です。あくまでも「話」です。「同じ」かどうかの判断は人にはできません。

 人のつくった言葉と文字が複製としてあり、つまり「同じもの」として機能しているという話です。

 あくまでも話です。言葉で語ったものなのですから、そんな言い方もできるという感じで受けとめていただければと思います。話の受け止め方は、人それぞれです。

*代用、思い込み

「似ている」かどうかの世界にする人間は、「同じ」かどうかの判断を、自分の外部にある「はかり」(道具・器械・機械・システム)に委託していますが、人のつくった言葉、とりわけ文字という複製は曲者のようです。

 文字が複製として存在する、あるいは機能しているために、人は自分たちが「同じ」かどうかの世界に生きていると思いこむ傾向があるからです。

 おそらく「同じ」かどうかの代わりに「似ている」かどうかを利用している人間は、おそらく「似ている」かどうかの代わりに「同じ」かどうかを利用していると思いこんでいる。

 ひょっとして「似ている」かどうかの代わりに「同じ」かどうかを利用しているつもりの人間は、ひょっとして「同じ」かどうかの代わりに「似ている」かどうかを使用している振りを演じているのかもしれない。

 いま述べた話のどちらが有効なのかの判断は、それをはかる手段(はかり)がないかぎり、人にはできないのかもしれません。

◆【レトリック詞】海がそこにある世界


 文字は素晴らしい人の発明品です。

 そこそこの段階まで文字の読み書きを習得するには、ふつうは多くの時間と労力が要ります。

 長年の苦労の甲斐あって文字をそこそこ読み書きできるようになると、快感を覚えます。

 世界や宇宙を手にしたような高揚感です。なにしろ、海と書けば、海がそこにあるのです。

 あの大きくて時には荒々しい海が、鉛筆で紙の上に書けます。指でキーボードを叩くなり触れるなりすれば、液晶の画面に表示されます。

 海がそこにあるのです。

     *

 海がそこにある。

 上のセンテンスは二通りに取れます。

1)海という文字がそこにある。
2)海というものがそこにある。

 1)と2)の差は大きいです。とてつもなく大きいです。つまり、違うのであり、異なるのであり、それ以前に別物なのです。

「違う」、「異なる」、「別物」という言葉ほど、人をがっかりさせるものはありません。

「それとこれは違うよ」、「それとこれは異なります」、「それとこれは別物です」――こうした言い方は「ではない」とは言っていないものの否定にほかなりません。

「それとこれは同じではない」と言っているからです。

 人は「同じ」という言葉とイメージに安心します。好きなのです。

     *

 海という文字と海というものは違う、つまり同じではない。

 それなのに「海」として「そこにある」

 そこにあれば、ここにもある。いとも簡単に書ける。口に出して言うこともできる。

 海は目に見える。口にすると、口にした瞬間に消える。

 見えるものほど、信頼できるものはない。

 海という文字と海というものの区別を忘れるなら、または忘れた振りをするなら、海はそこにあることになる。

     *

 以上が、さきほど述べた「世界や宇宙を手にしたような高揚感」です。

 人は「同じ」の代わりに「似ている」で我慢する世界に生きています。「似ている」かどうかは誰にでも簡単に判断できますが、「同じ」かどうかは教わる必要があります。

 教えてくれた人は誰かから教わったのです。

「同じ」かどうかは知識であり情報なのです。誰にとっても、です。

「同じ」かどうかの判断は、道具や器械や機械やシステムが人の代りにします。それを人はさらに判断して「同じ」かどうかが決まります。

「同じ」かどうかは、最終的には人が決めるのです。「似ている」かどうかを基本とする印象の世界に住む人間が決める(判断すると言ってもいいです)のです。

     *

 学校では、いろいろな「同じかどうか」を教えてくれます。「同じかどうか」は、それを自分が見たかどうかや、その判断を自分が下したかに関係なく、知識と情報として教えてくれる場なのです。

 学校で教えてくれるもっとも大切なことは、知識よりも物の見方です。

 海が海であることを学ぶためには、海が海であることを忘れた振りをしなければならない。猫が猫であることを学ぶためには、猫が猫であることを忘れた振りをしなければならない。

 上の文章ですが、これがすんなりと頭に入らない方は、学校で教えてくれるもっとも大切な物の見方を体得したと言えるでしょう。自分を褒めるべきなのです。

「海という文字」が「海というもの」であることを学ぶためには、「海という文字」が「海という文字」であることを忘れた振りをしなければならない。「猫という文字」が「猫というもの」であることを学ぶためには「猫という文字」が「猫という文字」であることを忘れた振りをしなければならない。

 こんなことは、ふつうすんなり読めなくてもいい、というより、すんなり読んではならないと言えます。

「○という文字」と「○というもの」なんて区別するほうがふつうではないのですから。

     *

 目の前にある文字を文字として見ないことから、すべての学問は始まる。
 目の前にある文字を文字(letter)として見ることから、おそらく文学(letters)が始まる。

     *

 海が海であること、そして海が海であるという物の見方を学んだ人には、海を見れば海が即座に頭に浮ぶはずです。猫が猫であること、そして猫が猫であることを忘れるという物の見方を学んだ人には、猫を見れば猫が瞬時に頭に浮ぶにちがいありません。

 その人には猫と海猫と海の区別もできるはずです。もちろん文字と文字列の区別ではありません。

     *

 冗談はさておき、ところで、海と海は似ていますか? 猫と猫は似ていますか?

 似ていませんよね。それなのに同じだとされています。誰もが、時間と労力をかけて、同じだと学んだ結果が、海と海は「同じ」ということなのです。

 学習の成果とも言えます。

 文字だけです。こんな不思議なことができるのは。こんな不思議なことがまかり通っているのは。

 ぜんぜん似ていないものを同一視する。これが文字という仕組みです。学校とは、この同一視の仕組み(文字の読み書き)を体で覚え、数々の「AはBである」(「同じ」だと決めたこと)を知識と情報として頭に詰めこむ場だと言えそうです。

 そんなわけで、私たちは海がそこにある世界に生きているのです。

 海は海なのです。

 感謝しないではいられません。

◆三つの話

*直線上で迷っているネコがいた。

 直線上で迷っているネコがいた。家に付いているネコは板にも付いていた。

 家の中でネコは板に見入っていた。ネコは板に見入られていた。板に見入るネコの格好は板に付いていた。

 板には影が映っていた。

 ネコは尻尾のないサルを飼っていた。ネコが板に浮んだ影に見入っていると尻尾のないサルが邪魔をして、ネコを引っ掻いた。

「痛っ!」とネコが叫んでも無駄だった。板に浮んだ影に見入るというネコの芸は、尻尾のないサルには通じなかった。

 引っ掻かれるたびに同じことをくり返している気がしたが、すぐに忘れてまた板に見入った。

 ネコは外でも板に見入っていた。うつむきながら板を見つづけた。板もネコに付き、ネコに見入っていた。

 家に帰ると尻尾のないサルが寄ってくるので、えさと水をやった。

 尻尾のないサルは、板に見入るネコの邪魔をするだけでなく、板を攻撃することがあった。何度か板が台無しになった。

 同じことをくり返している気がしたが、ネコはすぐに忘れた。

 眠くなるとネコは板を抱いて眠った。尻尾のないサルは外に出かけた。ネコは板に映っている影の夢を見た。別に不満はなかった。

*直線上で迷っている人がいた。

 直線上で迷っている人がいた。一日のうちで夢うつつでいる時間が増えていた。

 目をつむれば画面が浮んだ。画面に映る影の模様をながめ、聞こえてくる音を聞いていた。

 目を開けると霧がかかったように何も見えなかった。音も消えた。

 たまに、どこかで物を食べている気配がした。ときおり、どこかで排泄をしている気配があった。

 ひょっとして――という思いが浮んだが、深くは考えなかった。

 流れていく。流されていく。流れはどこから来るのだろう。どこへと流れて行くのだろう。

 そんな考えが浮ぶたびに、目の前の画面が消え、聞こえてくる音もやんだ。

 お腹が空くと、どこかで物を食べる気配がして、それで空腹はなくなった。

 ときどき痛みと痒みがあったが、少しすると、ふわりとした感じとともに痛みも痒みも消えた。

 目をつむれば画面が浮んだ。画面に映る影の模様をながめ、聞こえてくる音を聞いていた。

 同じことをくり返している気がしたが、すぐに忘れた。別に不満はなかった。

*直線上で迷っている影がいた。

 直線上で迷っている影がいた。影は砂漠をひたすら歩いていた。歩きながら、あるじのことを思いだした。

 影の先に立った日の、あるじ。影に先だった日の、あるじ。影が見送った日の、あるじの姿。

 影は砂漠をひたすら歩きつづけた。ある日、呼ばれた気がしてあたりを見まわすと、遠くの木のうえに黒いものが動き回っているのが見えた。

 影が木に近づくと、尻尾のないサルが下りてきた。木には赤い実がたくさんなっていた。

 四つん這いになっていた尻尾のないサルが立ち上がった。尻尾のないサルには影がなかった。

 尻尾のないサルが影の先に立った。尻尾のないサルが歩きだし、影はそのあとにしたがった。ついていきながら、同じことが前にもあった気がしたが、すぐに忘れた。

 尻尾のないサルは真っ直ぐに進んでいく。別に不満はなかった。

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