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ドナドナ

 最近、こんなことを考えています。

*はかる:人が苦手な行為。人は、「はかる」ための道具・器械・機械・システム(広義の「はかり」)をつくり、そうした物たちに、外部委託(外注)している。計測、計数、計算、計量、測定、観測。機械やシステムは高速かつ正確に「はかる」。誤差やエラーが起きることもある。

*わける:人が得意な行為。ヒトの歴史は「わける」の連続。分割、分離、分断、分類、分別、分解、分担、分裂、分配、分け前、身分、親分・子分。言葉と文字の基本的な身振りは「わける」。つかう道具は、縄と刃物とペン。線を引き、切り、しるす。

*わかる:人が自分は得意だと思っている行為。「はかる」と「わける」は見えるが、「わかる」は見えない。見えないから、その実態も成果も確認できない。お思いと同様に共有できない。行為や行動と言うよりも観念。一人ひとりのいだく思い込み。解釈、判断、判定、判決、理解、誤解、解脱、悟り。

 具体的な話に移りましょう。


はかるとわかる


「わかる」と「はかる」は字面と発音が似ていますが、「わかる」にくらべて、「はかる」はあまり考えたことがありません。でも、身のまわりを見ると「わかる」だけでなく「はかる」が多いのに驚きます。

 とくに、病気になったり老いると「はかる」を意識するようになります。病院に行くとわかりますが、検査は「はかる」のデパートです。「はかる」をたくさんして、その結果が「わかる」というわけです。

 尿検査だけでも、たくさんの「はかる」があり「わかる」があるようです。結果の項目(リスト)を見るとわかります。

 それにいまは、家でも毎日体温を測っています。はかればわかって安心するわけです。いや、「はかる」の結果をわかりたくないと思うときが、ままありますね。気が滅入りそうなので、思い出話をします。

     *

 いまになって思うと、学校という場所は「はかる」と「わかる」に満ちあふれていました。

 そもそも、学校は「わかる」と「はかる」に二分されると言ってもいいのではないでしょうか。

 なにしろ、はかるとわかる、はかるはわかる、なのです。恐ろしいことですけど。「はかる」は、ほんわかとした、いいこと尽くめではないのです。

 黒板と教科書とノートをつかってのお勉強は、たいていが「わかる」ためです。理科の実験・観察や体育や家庭科や図工なんかは、だいたいが「はかる」の世界です。

 保健室も「はかる」の領域という感じがしませんか。体温計、体重計、そして何と呼ぶのか知りませんが、身長や座高を測る計器が置いてあるところです。

 そして、最後は通知表で、これが「はかる」の総決算になるのです。

 はかられる気分は決していいものではありません。少なくとも私には悲しい思い出しかないです。人間が数字に還元されるのですから。

 はかるとわかる――。

 いや、はかってもわからないことが、ありそうですね。たくさんありそうです。

     *

 飛躍するようですが、一足す一は二というのと同じで、事物や生き物の個性を消すのが「はかる」なのです。

 数字になるとは、個性を消されることにほかなりません。

 はかる行為が、例の殺伐とした残酷な風景と究極においてつながっていることを忘れてはならないと思います。死者〇〇名とか負傷者〇〇名という具合に……。

「死する」と「負傷する」が殺伐として残酷なのではありません。数字として「処理される」ことのほうです。

ドナドナ


 体育も「はかる」の世界です。というか、「はかる」そのものが体育だという印象があります。しかも「はかる」だけではなくて、「くらべる」のです。そして「きそう」のです。嫌でした。

 大学に進学して一般教養の科目として体育があると知ったときには、度肝を抜かれました。

「うそー。だまされたー」という気がして、しばらく立ちなおれませんでした。私にしてみれば、まさに、はかられたのですから。

 高校を卒業して嬉しかったことのベスト3に、体育とのお別れがあったからです。そう信じて疑っていなかったのです。

 なのに、大学にまで体育がついて来たのです。ショックでした。

     *

 それで思い出しましたが、大学の入学式のすぐあとに身体測定兼体力測定があったのです。その会場の雰囲気が、すごく嫌でした。

 体育会系の部やサークルの連中らしき者たちが、当たり前みたいな顔をして場内をうろついているのです。そして、握力や背筋力や肺活量などをはかる計器のそばで、新入生たちを物色しているのです。

 ドナドナドーナ、ドーナという悲しげなメロディーが頭の中で鳴り響いていた記憶があります。売られていく家畜になったような、切ない気分になりました。

 でも、幸いなことに、運動能力とか体力とか腕力のたぐいには全然自信がなかった私は、見向きもされませんでした。

 とくに握力計の数値を見たある上級生が「嘘だろ」とか何とかつぶやいたのには一瞬むかっときましたが、すぐさまほっとしました。

「僕は売れそうもない。よかった――」

はかるをわける


「はかる」をわけてみましょう。分けるのです。「はかる」と「数値化する」を分けたいのです。

 お金で考えてみます。値踏みという言葉がありますね。

 値踏みはお金という数値に置き換えることですが、お金という数字に置き換えた瞬間に、「はかる」が「わかる」に変わっているのではないでしょうか。

 値段が決まるまえに「ああでもないこうでもない」がありますが、それが「はかる」だという気がします。ある意味、優柔不断でとりとめがないのが「はかる」なのです。

 優柔不断でとりとめがないと言われつづけてきた私は、親しみを覚えます。

     *

「値踏み」や「値を踏む」のこの「踏む」とは、地面の土を足の裏で押すことにほかなりません。

 野菜や果物のできぐあいを目をつむって押してみる。スーパーでラップにくるまれたお肉や魚をこっそりと押してみる。あれと基本的に同じです。

 人が身体をつかって「おしはかっている」のです。指や手、足の裏や足の指という繊細なセンサーがついてる末端で「押す」「推す」わけです。

「今年は〇が優勝すると踏んだ」なんていう場合の「踏む」は「おしはかる」「はかる」ときわめて近い気がします。

 走り幅跳びとか走り高跳びのスタート地点付近で足踏みみたいな仕草をする選手がいますが、あれも踏んでいるし、はかっているのでしょう。

 間合いとか土のぐあいとか風向きや風の強さとか自分の中の「何か」とか観衆の圧とか、そういうものをはかっているにちがいありません。

 結果としての数字つまり記録は後でやって来ます。「わかる」は後に来るのです。わかるまではどきどきでしょうね。わかって喜んだりがっかりしたり。

     *

 足踏みという言葉とイメージが好きです。えんえんと足踏みをしている。前には進んでいない。

 べつに踏ん張らなくてもいい。えいえんにわからないまま。はかっても、わけても、わからない。

 たぶん、わかることを放棄している。ふんでいるだけでいい。ふむ……。

 自分の人生みたいで親しみを覚えるのです。

※ヘッダーの写真はもときさんからお借りしました。

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