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見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その3)

 前回に引きつづき今回も、『妻隠』における「見る「古井由吉」」と「聞く「古井由吉」」を見ていきます。

「見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その1)」
「見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その2)」

 長い記事です。太文字の部分に目をとおすだけでも読めるように書いていますので、お急ぎの方はお試しください。


Ⅰ 「見る「古井由吉」」と「聞く「古井由吉」」


 まず、この連載でつかっている「見る「古井由吉」」と「聞く「古井由吉」」という図式的な分け方を紹介します。古井由吉の作品を読んでの私の感想です。

聞く「古井由吉」:ぞくぞく、わくわく。声と音が身体に入ってくる。自分が溶けていく。聞いている対象と自分が重なる。対象が染みこんで自分の一部と化す。世界と合体する。

見る「古井由吉」:ごつごつ、ぎくしゃく。事物の姿と形がそのままはっきりと見えるままで異物に変貌する。異物感。異和感(古井の好む表記です)・違和感。自分が解体されていく、崩壊していく感覚におちいる。

Ⅱ 見る・見える、見ない・見えない

*『杳子』の読みにくさ

『妻隠』を読みながら「見る「古井由吉」」と「聞く「古井由吉」」を見ていきますが、それはこの作品といっしょにおさめられている『杳子』にくらべて、二つの「古井由吉」の傾向が見やすく分かりやすく書かれているからです。

 当初は『杳子』を対象にして、上記の二つの傾向を「見る」記事を書こうとしたのですが、『妻隠』のほうがずっと「見やすい」ことに気づいたからだという意味です。

     *

 古井由吉の『杳子』が読みにくいのは、「見る・見える」という行為がテーマになっているからだと私は思います。なにしろ、ほぼ一貫して「見る・見えない」をめぐっての描写がつづいているのです。

「見る・見える」という行為を描写するとなると、「見ない・見えない・見損じる・見逃す・見落とす」まで描かなければならなくなります。

「見る・見える」という言葉があるため、人は「見る・見える」を対象にして何かを書こうとすると、「見る・見える」ばかりに目が行き、「見ない・見えない」を見ない、見えないという事態におちいります。

 ところが、私たちの生活を観察すると、「見る・見える」だけが起こっていないことに気づきます。「見ない・見えない」がけっこう起きているのです。

*「見る・見える」と「見ない・見えない」が同時に起きている

『杳子』を読んでいると、「見る・見える」が起きていながら、「見ない・見えない」も同時に起きているとしか思えない描写が出てきます。

 いま述べたことは頭で考えると矛盾しているのですが、実体験に照らし合わせると、こういう矛盾が意外とふつうに生じている気がしてきます。

     *

疲れた軀を運んでひとりで深い谷を歩いていると、まわりの岩がさまざまな人の姿を封じこめているように見えることがある。そして疲れがひどくなるにつれて、その姿が岩の呪縛じゅばくを解いて内側からなまなましくあらわれかかる。地にひれ伏す男、子を抱いてもだえる女、正坐せいざする老婆ろうば、そんな姿がおぼろげに浮かんでくるのを、あの時もたしか彼は感じながら歩いていた。その中に杳子の姿は紛れていたのだろうか。
(『杳子』(『杳子・妻隠』新潮文庫)所収p.9)

 上の例では、この小説の視点的人物である「彼」に、岩が見えていながら、他のものに見えているさまが描かれています。これと似たことを私はよく経験します。「何か」が「それとは別の何か」に見えるのです。

 雲、トイレの壁の染み、天井の板の模様……。

 二重写しというか、重なって見えるわけですが、その状態は一瞬、あるいは一時的なものです。これが長くつづくとしたら、それは幻覚とか幻想と呼ばれるものになるでしょう。

「何か」が「それとは別の何か」に見える――この錯覚を利用したのが、写真であり、映画であり、動画なのですが、今回はこのことにはこれ以上触れません(ようするに、私たちは液晶画面上の画素の集まりを「それとは別の何か」として見ているという話です)。

 大切な点は、いま述べた現象では、あるものが見えているのに、それとは別のものを見ている、つまり「見えている」と「見えていない」、「見ている」と「見ていない」が同時に起きているのです。だまし絵に似ています。

     *

 いつのまにか杳子は目の前に積まれた小さな岩の塔をしげしげと眺めていた。それが道しるべだということは、その時、彼女はすこしも意識しなかったという。どれも握りこぶしをふたつ合わせたぐらいの小さな丸い岩が、数えてみるとぜんぶで八つ、投げやりに積み重ねられて、いまにも倒れそうに立っている。その直立の無意味さに、彼女は長いこと眺めふけっていた。
(『杳子』(『杳子・妻隠』新潮文庫)所収p.19)

 この場面で杳子が目にしているのは、小さな岩を積んだケルンなのですが、その岩の様子だけでなく、その数までかぞえているにもかかわらず、道しるべであるケルンだと意識していなかったと書かれているわけです。

 しかも「その直立の無意味さに、彼女は長いこと眺めふけっていた。」とあります。これは「見ていながら見ていない」「見えていながら見えていない」が起こっているとしか考えられません。

*「でありながら、ではない」

 このように「でありながら、ではない」という言葉の身振りが頻出する小説が読みにくくなるのは当然だと思います。

 さらに言うと、『杳子』で「でありながら、ではない」という言葉の身振りがきわめて多い大きな理由は、「見ていながら見ていない」「見えていながら見えていない」が起こっているからだと私は考えています。

     *

 とはいうものの、上の二つの例では、「彼」に起きている事態は私たちでもよくある軽度の錯覚であるのに対し、杳子に起こっている状態は、かなり不可解で重篤な「失調」だと言えそうです。

 ところが、「彼」にも不可解なところが見られます。というか、そもそもこの小説では、「彼」は信頼できない人物として描かれています。

 信頼できない話者(語り手)という言い方がありますが――たとえばカズオ・イシグロの小説の語り手です――、三人称で書かれたこの作品において「彼」は信頼できない視点的人物なのです。

*信頼できない視点的人物

 たとえば、「彼」が杳子と二度目に「偶然」(p.27)に出会う場面がありますが、そこでの「彼」の描かれ方がじつに頼りなく見えます。

「ていねいに頭を下げた」杳子に対し「人違いをされたのかと彼は思った」(p.29)とあります。その直後には「彼は、まだやっぱり別人ではないかという思いから離れなかった」(p.29)と書かれているのです。

 人違いとけっして縁遠くはない私でも、「彼」の行動には首を傾げざるをえません。読んでいて、「大丈夫なの、この人?」と言いたくなります。

 これはほんの一例であり、杳子ほどではないにしても、「彼」もまた、うっかりぼんやりというか、危うい人物として記述されています。

 こんな「彼」が、この作品の一貫した視点的人物になっているのです。信頼できますか?

     *

 大切なことなのでくり返しますが、このように「でありながら、ではない」という言葉の身振りが頻出する小説が読みにくくなるのは当然だと思います。

 なお、万が一、こうした「でありながら、ではない」という言葉の身振りに興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、以下の記事をお読み願います。ただし、好き嫌いのはっきり分かれる記事だと思います。

 お察しのとおり、じつは私は「Aであって、Aでない」や「Aであって、Aでもある(Aであって、Bでもある)」が好きなのです。だから、蓮實重彥(蓮實重彦)や古井由吉やルイス・キャロルの文章が好きなのだと思います。

Ⅲ 老婆、礼子、ヒロシ

*登場人物の紹介

『妻隠』には主要な登場人物が四人います。

 寿夫(ひさお): 会社員。一週間、高熱で寝込んで会社を休んでいる。いまは病み上がりの状態。この小説をとおしての視点的人物。

 礼子(れいこ): 寿夫の妻。ヒロシと同郷だが、ヒロシと直接的な関係はない。

 ヒロシ: 寿夫の住むアパートの隣にある家に、会社(寿夫の会社とは別)の同僚たちと住んでいる少年。

 老婆: 寿夫の住むアパートの周辺に出没する。ヒロシにつきまとっている。

*三人の描かれ方に注目する

 この作品は、視点的人物である寿夫の目から見た、礼子、ヒロシ、老婆が描かれているという作りになっています。

 今回は、礼子、ヒロシ、老婆の三人の描かれ方に注目します。

 それぞれの人物を、寿夫が「どう見ている」か、「どう聞いている」かを、その描写で見ていくという意味です。

 それによって、「見る「古井由吉」」と「聞く「古井由吉」」が、具体的に浮きあがってくるからにほかなりません。

*そこそこ信頼できる視点的人物

「見る・見える」が起きていながら、「見ない・見えない」も同時に起きている状態を、信頼できない視点的人物である「彼」の目によって、ひたすら描写している『杳子』という作品にくらべて、『妻隠』はずっと読みやすいと私は思います。

『妻隠』では、「見る「古井由吉」」と「聞く「古井由吉」」がバランスよく出ているという意味です。

 さらに言うと、寿夫は、病み上がりでぼーっとしているとは言え、『杳子』の「彼」ほどには信頼できない人物ではありません。そこそこ信頼できる視点的人物と言えるでしょう。

 ですから、安心して読める、つまり読みやすい小説だとも言えそうです。

*視点

 ところで、どんな一人称の語り手であれ、三人称で書かれた小説のどんな視点的人物であれ、信頼できる語り手や信頼できる視点的人物などいないと私は考えています。

 フィクションである小説にかぎらず、現実においても、信頼できる視点や語りのできる人間がいるとは考えにくいからです。もちろん、ノンフィクションであってもです。

 当然のことながら、作者もまた人間であるかぎり(おそらく作文をする機械であっても)、三人称をもちいて信頼できる視点で書いたり、一人称で信頼できる語りをすることはできないでしょう。

 どんな人間や機械による、どんな視点視座にも、偏りがあるのが自然だと思います。「見る」というのは必ず、「ある特定の位置から」見る行為だからです。しょせん「点」であり「座」からの眺めなのですから。

「客観的に見る」という手垢にまみれた言い回しが、いかに偏ったものかが分かると思います。嘘(方便でもいいです)なのです。

     *

 いま「神の視点」という言い回しを思いだしましたが、あれは比喩だと理解しています。言葉の綾だという意味です。

 私は神さまに会ったことがないのですが、人や機械は神を演じることはできても、神であることはできないと考えています。

 ところで、神さまは、どんな点と座から見ていらっしゃるのでしょう。

     *

 では、あまり信頼できそうもない私が勝手につくった、「見る「古井由吉」」と「聞く「古井由吉」」という図式的な分け方をもちいて、そこそこ信頼できそうな寿夫の視点から見た、老婆、礼子、ヒロシの描かれ方を見ていきましょう。

Ⅳ 寿夫の視点から見た「老婆」

*ふたりの出会い

 ここでは、寿夫と老婆の出会いの場面を見てみます。『妻隠』という小説の冒頭のシーンです。

 アパートの裏手の林の、しげき分けて老婆ろうばは出てきた。
(『妻隠』(『杳子・妻隠』新潮文庫)所収p.172、以下同じ)

 これが第一文です。「出てきた」のを見ているのは寿夫ですが、まだ寿夫という文字は出てきていません。この作品を初めて読みはじめた人には、この小説が一人称の語りなのか、三人称の視点で書かれているのかはまだ分かりません。

 なお、引用を多くするわけにはいかないので、できれば『杳子・妻隠』新潮文庫をご覧になりながら、この記事をお読みください。とはいえ、本をお持ちにならない方にも読めるようには書いていくつもりでいます。

     *

「秋になると視線はたちまちむこう側へつきぬけてしまう」(p.172)の「視線」と「むこう側へ」に注目したいです。ある視点からの描写であるというしるしです。

「見える」「というふうである」「アパートの側からは(……)林に見えた」(p.172)から、アパートと老婆の出てきた林の位置関係が分かります。

*「老婆」

 ここからは、p.173の第一行から始まる段落を順を追って少しずつ読んでいきます。この段落では、老婆の描写だけが綴られているのですが、その描かれ方に目を注ぎましょう。

 まだ寿夫という名は出てきませんが、冒頭から読みすすむにつれて、ある一つの視点からの描写であることが次第に感じ取られてくるでしょう。

(初期から中期の古井は視点にとても意識的な書き手であって、視点がぶれることはまずありません。ぶれだらけの対象をぶれていない文章でねじ伏せているといった趣があります。) 

 この作品にもどります。ぶれて、ごめんなさい。

 夏には誰も踏みこまない繁みの中から白い姿が浮かび上がり、夏草に着物のすそからみ取られてか、立ち止まって足もとに目を落とした。(p.173)

「目を落とした」で終わっているセンテンスですが、「えっ、誰が?」と思われる方もいるかもしれません。「老婆」という言葉が出てから、老婆が出てこない風景描写が続いていたからです。11行も前のことです。

 ここでは、「老婆」が「白い姿」に言い換えられていますが、この主語を見落とす人がいても、その人を責めるわけにはいかないと思います。いきなり「老婆」を「白い姿」に変えているし、だいいちこの主語は分かりにくい位置にあります。

 私なんかは、一度読んでぱっとその言い換えに気づかずに、あれっと思い、読み直してみて、ああそうかと思いました。

 老婆によほど関心がないかぎり、読んでいる途中で老婆の存在を忘れてしまっても不思議はありません。

 ところで、冒頭の老婆にルビが振られていたことに私は注目します。

*ルビ

 老婆くらい読めませんか? 

 それなのにルビが振られているのは、「見て見て」と文字が言っているように私には見えます。しかも、老婆はこの作品の第一文に出てきた文字です。

 作家は作品の第一文に心血を注ぐというイメージもあります。

 結果論みたいに聞こえるでしょうが、そんな読み方もできると思います。とくに、古井由吉の作品では、不要に見えるルビが振られている時には、何かあると考える癖が私にはあります。

 におうのです。

     *

 このように、「におう」なんて言い始めるのは、一種の「疑心暗鬼を生じる」の心境に、私がなっているからにちがいありません。妄想だという意味です。

 たとえば、『杳子』の最後にある次の部分をご覧ください。

 軀を起こすと、杳子は髪をなぜつけながら窓辺へ行ってカーテンを細く開き、いつのまにか西空にひろがった赤い光の中に立った。
「明日、病院に行きます。入院しなくても済みそう。そのつもりになれば、健康になるなんて簡単なことよ。でも、薬を呑まされるのは、口惜くやしいわ……」
 そう嘆いて、杳子は赤い光の中へ目を凝らした。彼はそばに行って右腕で杳子を包んで、杳子にならって表の景色を見つめた。家々の間をひとすじに遠ざかる細い道のむこうで、赤みをました秋の陽がせ細ったの上へ沈もうとしているところだった。
(『杳子』pp.169-170)

 最後のセンテンスにあるルビですが、私には唐突に振られているように見えてならないのです。べつにルビを振るほどの漢字でもないとも思います。つまり、におうのです――。

 そんな被害妄想じみた心理が高じて、そのルビのあるセンテンスを深読みしてしまったという顛末てんまつについて、もし興味をもってくださる方がいらっしゃいましたら、どうか以下の記事をお読み願います。

     *

 簡単に肝心なところだけを言いますと、こうなります。

陽(日)が樹(木)の上へ沈もうとしているところ:まもなく陽(日)が樹(木)の下に沈む。

 日 ⇒ 木
 木 ⇒ 日

 つまり、

 というふうに。

     *

 つまり、「赤」と「陽」は杳子のしるし、「痩」と「樹」はS(「彼」)だと深読みしているのです。なぜ「赤」「陽」が杳子を指し、なぜ「痩」「樹」がSなのかについては、記事で触れています。

 妄想にお付き合いくださり、ありがとうございました。上で述べたように、私がいかに信頼できない人間かがお分かりいただけたと思います。

 まさに、「大丈夫なの、この人?」ですよね。

 話をもどします。

*「老婆」っぽくない

からだを軽くよじって裾のうしろを眺める姿の、襟元えりもとからのぞいた肌がやさしかった。(p.173)

 さきほどの文に続く文です。「白い姿」が「からだを軽くよじって裾のうしろを眺める姿」へと変奏されています。ここだけを読んだとすれば、艶めかしい描写です。「老婆」を連想させないという意味です。

 もちろん、これは「老婆」という言葉を古井が選んでつかっているからの話であって、高齢の女性で艶めかしい雰囲気をお持ちの方はたくさんいらっしゃいます。私の知り合いにもいます。

*変奏=変装=変相

 次のセンテンスの最後になって、ようやく「老婆」が出てきます。

それから、片手で裾をからげ、もう片手で草を押し分け、少し及び腰で出てくるのを見ると、老婆だった。(p.173)

 この小説の冒頭の第一行で出た「老婆」がずっと消えていて、ほぼ一ページして(14行目にして)ようやく出てくるのです。この前の二文では「姿」と変奏されていて、です。

 老婆 ⇒ 白い姿 ⇒ からだを軽くよじって裾のうしろを眺める姿

 この変奏は変装ではないでしょうか? さらに、変相と言ってもいいと思います。

 おそらく、じらしているのです。誰がって、古井先生が、です。老婆を変奏=変装させて、異化の効果をねらったとも考えられます。私はこの書き方に古井の技巧を感じます。これは技なのです。

 見えているのに見えていない。老婆だと「視点」が認識するのに時間がかかっている。ようやく見えてくる――。そんな感じです。

*矛盾した形容、二度見、二転三転

 次の文をゆっくり読んでみてください。

しわくちゃに老いさらばえた感じではなく、色白の小肥ぶとりですこぶる健康そうだが、足の運びのたどたどしさはやはり年寄りだった。(p.173)

 「(……)感じでなく、(……)そうだが、(……)やはり(……)だった」という二転した描写になっています。ようするに、形容が矛盾しているのです。

 二度見していると言えば分かりやすいかもしれません。これは作者である古井由吉が二度見しているのではなく、この小説のこの部分の視点が二度見しているのです。

 次に改行があり、段落が変わって、「寿夫」が冒頭に出てきますが、この視点的人物は頼りないと言わざるをえないでしょう。

 この前のセンテンスからの、二転三転ぶりを見てみましょう。

  白い姿 ⇒ からだを軽くよじって裾のうしろを眺める姿 ⇒ 見ると、老婆だった ⇒ 老いさらばえた感じではなく ⇒ すこぶる健康そうだが ⇒ やはり年寄りだった

「見ているようで見ていない」「見えているようで見えていない」――これが「見る「古井由吉」」の特徴です。

*作家古井由吉と、見る「古井由吉」

 ここで強調しておきたいことがあります。

 いま述べているのは、作家古井由吉の特徴ではありません。ぶれている人物を、古井由吉が言葉で描いているのです。

 括弧(「」)付きの「見る「古井由吉」」とは、作家古井由吉の書く小説に登場する人物の視点的な特徴だという点がきわめて大切です。

 作者と、登場人物を切り離して読む――そういうことです。

     *

 ここまで読んできた文章の視点(寿夫の視点です)は、どう考えても信頼できません。

 ここまで文字を追ってきた読者は、首を傾げるでしょう。「大丈夫なの、この人?」ですよね。ここでさじを投げる読者がいても不思議はありません。

 そんな読者の不審といらだちに応えるように、次の段落では、この視点的人物の状態の説明がおこなわれます。説明をするのは、作者でしょう。

「あ、みなさん、ここで引かないでください。じつは、この人、名前は寿夫と言いまして、こんなわけでぼーっとしているのです」みたいに。

*寿夫の状態

 段落が変わります。

 寿夫ひさおはアパートの横手の共同の流し場の近くに立って(……)(p.173・丸括弧による省略は引用者による・以下同様)

 寿夫にルビが振られているのは、初めて出てきた固有名詞だからです。作品冒頭の「老婆」に振られていた不要とも考えられるルビとは、趣が異なりますが、これはあくまでも私の意見でしかありません。

     *

 この段落で説明されている寿夫の状態を引用によって要約します。

・「一週間寝こんだおかげで鈍くふやけた目」
・「夏草の中から着物姿の女が出てきたという最初のいぶかり」
・「見まちがえからというよりも、炎天下にポツンとひとり立つ病み上がりの男の立ち暗みのようなもの」
・「なかば自分から抱き寄せた錯覚」
・「ほとんど幻想に近いもの」

 このように箇条書きにすると、寿夫の老婆に対する印象が二転三転したり、視点的人物として信頼できないほど、ぼーっとしている理由が明らかになります。

 同情しそうになるくらいです。つらいでしょうね。寿夫さんに同情して、この後を読みたくなりませんか?

     *

p.174の6行目までは、寿夫が老婆を見ているという設定が続きますが、その5行目から、新たな展開が起こるので引用します。主語は「老婆」です。

そして、彼のまん前に立つと、あらためて近くからにこやかに笑いかけ、ぞっとするような若々しい声でたずねた。
「ヒロシ君、家にいる」
 年寄りのくせに、どこで習い覚えてきたのか、若い仲間どうしのような、馴々なれなれしい物の言い方である。(p.174)

 ここから初めて、老婆は寿夫の視点から「見る」対象から「聞く」対象へと転じます。

 この小説で初めて括弧付きの発言が書かれ、初めて会話が出てくるのです。なお、「ヒロシ君、家にいる」では「?」はもちいられていませんが、質問であることは、その直前の「たずねた」で分かります。

Ⅴ 寿夫の視点から聞く「老婆」

*視点から聞く

 上の引用文から、「聞く「古井由吉」」が始まります。

 正確に言うと、作家古井由吉の書く小説に登場する人物の、「視点から聞く」描写が始まるのです。

「視点から聞く」という言い方は奇妙に響くと思われるので、補足説明をします。

 以下は、前回の「「見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その2)」」からの引用です。

 文字で書かれた作品では、音と声を「聞かせる」わけにはいきません。音と声を「見せる」必要があります。それが小説です。文字からなる文章の宿命なのです。

 小説という文字からなる言語作品では、聴覚的なイメージは文字を目で見るという形でしか確認できません。

 言語(とりわけ文字)は聴覚を視覚的な形とイメージに置き換えている――。これは小説の宿命でもあります。あまりにも当たり前なので忘れられがちな、この点に敏感でありたいと思います。

 以上が、前回の記事でいちばん強調したかったことでもあります。

     *

 ここで、ふたたび、この連載でつかっている「見る「古井由吉」」と「聞く「古井由吉」」という図式的な分け方を紹介します。

聞く「古井由吉」:ぞくぞく、わくわく。声と音が身体に入ってくる。自分が溶けていく。聞いている対象と自分が重なる。対象が染みこんで自分の一部と化す。世界と合体する。

見る「古井由吉」:ごつごつ、ぎくしゃく。事物の姿と形がそのままはっきりと見えるままで異物に変貌する。異物感。異和感(古井の好む表記です)・違和感。自分が解体されていく、崩壊していく感覚におちいる。

     *

 老婆が口を開き、話しはじめたことをきっかけに、「見ているようで見ていない」「見えているようで見えていない」という世界、つまり上の図式でいう、「はっきりと見えるままで異物に変貌」していた妙な世界が消えます。

「声と音が身体に入ってくる」「自分が溶けていく」「聞いている対象と自分が重なる」「対象が染みこんで自分の一部と化す」世界へと転じるのです。

「見る「古井由吉」」から「聞く「古井由吉」」へ。ここからは読みやすくなります。

 具体的に見てみましょう。

*相手に染まる

「さあね、この家のもんじゃないから……」
 素気なく答えたつもりで、寿夫の口調も思わず相手の馴々しさに染まっていた。(p.174)

「染まっていった」に注目したいです。

 相手に対する染まりやすさは、この後にも出てきます。寿夫が病み上がりだから、そうした心境にあるのか、それとも、寿夫の性格から来ているのかは書かれていませんが、この作品における視点的人物である寿夫の顕著な特性と言えます。

 なお、この寿夫の「染まりやすさ」については、「相手の幻想に付きあう快感」という記事でも取りあげています。読みやすい記事ですので、ちょっとだけでも目をとおしてみてくだされば、うれしいです。

*「聞く「古井由吉」」の世界が始まる


「ああ、そう。そうなの……」と老婆は何のつもりか空とぼけた顔でしきりにうなずきながら、アパートの隣の一戸建ての平屋のほうへ、ちらりちらりとあてつけがましい流し目をやった。(p.174)

 ここは古井の語りのうまいところです。

 寿夫の住む「アパートの隣の一戸建ての平屋のほうへ」と老婆が「ちらりちらりとあてつけがましい流し目をやった」ことによって、寿夫の視点から「聞く」世界が展開していくからです。

「空とぼけた顔」で、うなずいているのは、作者である古井先生ではないかと私は感じてしまいます。ついつい、作者と登場人物を同一視してしまうのです。

 作者と、登場人物を切り離して読む――さきほど、こう書きましたが建前です。じっさいにはどうしても、作者と登場人物を重ねて読んでしまうのが人間だと思います。建前で小説は読めません。これが私の本音です。

 作者と登場人物を同一視という問題については、「影の薄い小説(小説の鑑賞・03)」に書いていますので、よろしければお読みください。

     *

 作品にもどります。

この一週間、会社を休んで床についている間に、寿夫ははじめて隣家の若い男たちの暮しに耳を傾けるようになった。(p.175)

 ここで「耳を傾ける」という言葉が選ばれていることに注目しないではいられません。「聞く」「聞こえる」ではなく、「耳を傾ける」です。英語で言うと、hear ではなく listen です。

     *

 ここからは、前回に紹介したメモをそのまま引用します。

(以下は引用です。)

*p.175

・耳 1
・音 5
・声 4
・話、歌 2
・騒、賑、騒々、罵 4
・ガランガラン、トラック、エンジン、ヒェーッ、テレビ2、(音が)ボリューム 7

 このページでは、「音」と「声」という漢字が目につきます。ページの後半から一挙に出てくるのです。

 聴覚的にとらえられる「話、歌、騒、賑、騒々、罵」という漢字も合わせると、まさに賑やかで騒々しいのです。

「ガランガラン、トラック、エンジン、ヒェーッ、テレビ、ボリューム」という、オノマトペを含むカタカナの文字列を目にしているだけでも、騒々しさが想像できるのではないでしょうか。 

*p.176

・聞 1 
・声 6
・音、音量 3
・話、言い争う、賑、歓談、喧嘩、叫、鼻歌、合唱、騒2 8
・どなり合って、どやどや、ドタンバタン、取組み合い2、ヒューズが飛んだ 6
・暗がり 1
・顔 1
・のぞきこんだ 1

 p.175では「歌」は2回出てきただけですが、このページでは「声、話、言い争う、賑、歓談、喧嘩、叫、鼻歌、合唱、騒」というふうに、声が話や喧嘩や歌や合唱にまでエスカレートしてくるさまが、文字列の字面からうかがわれると思います。

 p.175が音の洪水と氾濫なら、p.176は声の饗宴・競演・共演・協演・狂宴という様相を呈します。

(引用は、ここまです。)

     *

『杳子・妻隠』新潮文庫)をお持ちの方は、ぜひ上のp.175とp.176を、じっさいにお読みになってください。

 寿夫の視点からの回想なのですが、その描写が生き生き――ノリノリなのです――としています。これは、対象に染まりやすいという寿夫の特徴のなせるわざだと私は思います。

 回想する寿夫は、耳を傾けていた対象に染まり、溶けていき、その対象と自分を重ね、まるで自分がその対象の一部に化していくような印象を与えます。

 大切な点は、声と音が身体に入ってきたことによって、そうした状態におちいっていることです。

 視覚よりも聴覚のほうが、人にとって始原的なものだとさえ私は感じているのですが、この点については次回に譲ります。

(つづく)

 
※ヘッダーの写真はもときさんからお借りしました。

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