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音の名前、文字の名前、捨てられた名前たち

 今回は、名前を付ける行為について、私の思うことをお話しします。最後に掌編小説も載せます。


◆音の名前


 ウラジーミル・ナボコフは、Lに誘惑され取り憑かれた人のように感じられます。Lolita という名前より、Lに取り憑かれている気がします。あの小説の冒頭のように、 l をばらばらしているからです。

 つまり、Lolita を解(ほど)き、ばらばらにするのです。名前を身体の比喩と見なすとすれば、この行為は猟奇的だと言わざるをえません。

 名前=身体を口の中に入れ、舌で転がしながら、解(と)き、解(ほど)き、解体し、解帯させるのです。

「Lolita ⇒ Lo-lee-ta ⇒  Lo . Lee. Ta.」

「ロリータ ⇒ ロ・リー・タ。 ⇒ ロ。リー。タ。」((『ロリータ』ウラジーミル・ナボコフ著・若島正訳・新潮文庫)より)、

というふうに。

     *

 ウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ』の冒頭です。

 Lolita, light of my life, fire in my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta: the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap, at three, on the teeth. Lo . Lee. Ta.
(太文字は引用者による)

 このLの多さは尋常ではありません。さらには、Lとほぼ同じく、舌の先を上の歯の後ろにくっつけるTの多さ

 これは、もはやLという音を賛美した詩ではないでしょうか。

 ゆっくりと、できればねちっこく声に出して読んでみてください。LとTの音への偏愛を味わってみましょう。さあ、ごいっしょに、どうぞ。

     *

 邦訳では、以下のようになります。素晴らしい翻訳です。お薦めします。

 当然のことながら、日本語訳でLは消えます。そもそも、日本語の「ら行」の子音と英語のLの発音の仕方は異なります。

 ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。
(『ロリータ』ウラジーミル・ナボコフ著・若島正訳・新潮文庫)

     *

 Aという言語からBという言語へと「うつす」のが翻訳だと単純に考えられがちですけど、翻訳では「うつせないもの」があります。翻訳をしても「伝わらない」ものもあります。

 たとえば、「Lolita」 を「ロリータ」と移しかえただけでも、うつせないものがあります。この場合には、音と文字です。

 ただし、いま述べたのは、あくまでも一般論です。誰が何を翻訳しても「うつらない」が必ず起きるし、「うつらないもの」が必ずあるという意味です。

 他の例を挙げます。

 Franz Kafka、František Kafka、Кафка, Франц、弗朗茨·卡夫卡、فرانس كافكا、フランツ・カフカ、ฟรันทซ์ คัฟคา

 詳しくは、拙文「「カフカ」ではないカフカ(反復とずれ・05)」をお読み願います。

 意外に思われるかもしれませんが、音と文字は「うつせないもの」であり、ひょっとすると「うつしてはいけないもの」なのかもしれません。

 多言語に通じ、言語をまたいで創作活動をしていたウラジーミル・ナボコフは、「うつせる」と「うつせない」にきわめて敏感であったと私は考えています。

 ウラジーミル・ナボコフは、小説『ロリータ』の作者だけではありません。断じて、そうではありません。

 それよりも、誰かが貼ったレッテルで小説を読むのはやめませんか?

     *

 話を変えます。

 妄想させていただきますが、ヨーロッパの諸言語においては、人名は綴りではなく音ではないでしょうか。

 Lolita という音に並々ならぬこだわりを示し愛情を注いだナボコフの例から察するに、まず音(発音・発声)があって、どのようにアルファベット(ラテン文字)で綴るかは二の次だと思えてなりません。文字としての見た目とか字面は、いわば刺身のつまではないかと言いたくなります。

「初めに言葉ありき」の言葉は音声なのです(※諸説あります)。この辺については、ややこしい事情があるらしいので、私の妄想ということにして話を進めさせていただきます。

     *

 勉強なさりたい方は「ロゴス中心主義」あるいは「音声中心主義」をキーワードにしてのネット検索をお勧めします。日本語が母語である私にはぴんと来ないお話なのです。頭では分かる気がしますが、言葉のありようとして自分には体感できないお話なのです。

 ジャック・デリダの著作の日本語訳を読んでのことなので、母語の違い、文化圏の違いという言葉で片づけられるたぐいの話なのかもしれません。

 ミシェル・フーコーとジル・ドゥルーズにくらべると、日本語を母語とする者にとっては体感しにくいお話を語る人だという印象を、デリダについてはいだいています。

 落語を聞いていて、あるいは海外のコメディ映画を見ていて、どこで笑えばいいのか分からないというのに似ています。「笑うべきところ」を解説をしてもらったとしても、笑いが自然と湧いてくるわけではないのです。

 分かったふりや知ったかぶりをしながら、お話しするわけにはまいりませんし、分からないことや知らないことをそのままコピーペーストする形で引用する気にもなれません。

 申し訳ないので、以下に勉強になりそうなサンプルを三つ用意しました。

◆文字の名前


 話をもどします。

 妄想をつづけさせていただきますが、ヨーロッパの諸言語においては、人名は綴りというよりも音ではないでしょうか。

 いっぽう、日本(日本語)において人名は、音(発音・発声)だけでなく、あるいはそれ以上に文字であり表記であるという気がします。

 ややこしい話なので、歌を例に取って感覚的に説明しますね。

        *

 まず、生まれてまもない赤ちゃんにとって、自分という意識はあまりないとか、ほとんどないという説があります。まわりの世界と自分が未分化の状態にあるという考え方です。

 これに従うと、赤ちゃんにその名前で呼びかけても「は?」という感じであり、それが自分を指す音である、まして言葉であるとは「まだ」感じられないということになります。

 一つ確かなのは、お乳を与えてくれる存在と、その人を含むまわりの人びとの笑顔には反応することです。お乳をもらった代価として「ほほえみ」を返すわけです。ギブ・アンド・テイクとか、文化人類学的な意味での交換(贈与・交換・分配のうちの交換です)みたいなイメージでしょうか。

 私なりの言い方をすると、「映る、写る、移る」です。相手の表情や動きに合わせて、赤ちゃんも心や頭の中で――あるいはじっさいに――動くと言えば、お分かりいただけるでしょうか。

 目(網膜)に映るものを、なぞって写す、つまり真似ることで、「何か」が移るわけです。身体的レベルでの「うつる」と「伝わる」が起きるのです。必ずしも「通じる」わけではありません。なぞってうつるのです。

*ママ


 梓みちよさんが歌った「こんにちは赤ちゃん」(作詞・永六輔/作曲・中村八大)の歌詞ではほとんどが大和言葉であるにもかかわらず、「ママ」がつかわれているのは注目していいと思います。

 妄想をつづけさせていただきますが、ママとは「まんま」つまりご飯であり、赤ちゃんにとってはお乳なのです。ママがチチになるなんて駄洒落は、たとえ言いたくても言いません。書きましたけど。こういう「ご飯」論法はいけませんね。反省。

 その代わりに駄洒落を続けますが、ママとママル(哺乳類を意味する英語のmammal)は似てませんか?  その mammal の語源は「乳房の」らしいのです。ママは乳房である、なんて強引にくっつけちゃいますが、歌詞でもちゃんとそうなっています。

わたしがママよ

 赤ちゃんにとっては「とりあえず」乳房がすべてなのです。

 おお、ママ。すごいじゃないですか、永六輔さんは大和言葉の扱いにおける天才じゃないかと常々思っているのですが、ここで確信しました。この歌詞を読んでいると、赤ちゃんの笑顔や泣き声やつぶらな瞳と、ママのお乳とが交換される関係にあることが一目瞭然で分かります。

こんにちは赤ちゃん
あなたの笑顔 

*サッちゃん


 さらに妄想をつづけますが、赤ちゃんがもう少し大きくなって幼児になると、自分とまわりの世界を別物として認識するみたいです。そして、まわりの人が自分を指して口にする名前の存在と、名前と自分の関係を理解するみたいなのです。

 ただし、名前という音(発声)に文字が対応していることや、その音に「自分」以外の意味があり、文字にも「自分」以外の意味があることは、まだ分かっていないと考えられます。

「サッちゃん」(作詞・阪田寛夫/作曲・大中恩)という歌では、本当は「サチコ」であると歌っていますが、「サチコ」には漢字が当てられている可能性は高いでしょう。ひらがなやカタカナに加えて漢字について理解するまでには、もう少し時間がかかりそうです。

サチコっていうんだ ほんとはね

 自分のことをサッちゃんと呼んでいるとは、サッちゃんが「わたし」という一人称単数の人称代名詞でもあるということです。

 …… 自分のこと
 サッちゃんってよぶんだよ

*「さちこ」であり「サチコ」であり、「SACHIKO」であり「幸子」である


 妄想の続きです。

 上の「サッちゃん」とは無関係なのですが、ばんばひろふみさんが歌う「SACHIKO」(作詞・小泉長一郎/作曲・馬場章幸/編曲・大村雅朗)の歌詞を読むと「幸子」という表記だと分かります。

幸せを数えたら ……
不幸せを数えたら ……

 泣けますね。名曲だと思います。

 大きくなった幸子さんは、「さちこ」であり「サチコ」であり、「SACHIKO」であり「幸子」であるわけです。

 こんなことは、日本語だけですよ。表記のことです。

 日本(日本語)において人名は、音(発音・発声)だけでなく、あるいはそれ以上に文字であり表記であるという気がします。

 妄想にお付き合いいただき、ありがとうございました。

◆【掌編小説】捨てられた名前たち


 母の遺品の一つに小さな手帳がある。これだけは捨てられない。

 手帳を残しておいたのには理由がある。私の名前がいくつも書かれているからだ。正確に言うと、私が生まれる前に考えられていた私の名前の案である。私につけられるはずだった名前が、何ページにもわたって三十くらい記されている。

 旧姓、つまり父の苗字に続けて書かれている名もあれば、苗字なしのものもある。男の名がほぼ三分の二、女名は三分の一の割合だ。父の名から漢字を一字とったものもいくつかある。私の名前と一字同じものもある。

 母の名から取られた名が見当たらない。気になったので丹念に探してみたが、やはり無い。古風だとかいう理由で、母が自分の名前を嫌いだと言っていたことを思い出した。

 名前を書き付けていた時に母は妊娠していたのだ、と今更ながら気づく。自分の迂闊さにあきれる。結婚をしたこともなければ子を持った経験もないにしても、鈍すぎる。

 表紙の裏に母の名前に加えて母の実家の住所が記されていることから、母の個人的な持ち物であったことははっきりしている。私物の手帳に複数の名前を書いていれば、持ち主の女性が妊娠していたと考えるのが普通の人間なのだ。

 あらためて考える。妊娠していた母。そのお腹の中にいた自分。頭では分かるのだが、ぴんと来ない。その思いに自分がついて行けない。考えたことがないからだ。想像したこともないからだ。

 今でも母と妊娠という言葉が結びつかない。そもそも私の中では妊娠という言葉の指ししめすものがない。見たことも、きょうだいや夫や親として間近に体験したこともなく、言葉で知っているだけ。

 自分の原点でもあるはずなのに、そこがすっぽりと抜けているのだ。そんなふうに、私には人として欠けたところがある。他にもあるにちがいない。

     *

 協議離婚が成立し、母と私が父の姓から母の旧姓に変わったのは、私が五歳の時だった。事業に失敗し、借金をつくった父は妻子を置き去りにし、隣県のN市に逃れていた。母と私は母子寮にいた。

 熱心な寮母が、父の居所をつきとめ、離婚の手続に必要な書類に署名と捺印をさせて、郵送させた。父は私の親権を放棄して母に渡すことを、最初は拒んだという。そんな経緯を母から聞いた覚えがある。

 小学校に上がる年、母から自分の氏名を書く練習をさせられた。正式に字を書くのは初めての経験だったと思う。ひらがなと漢字の両方を何度も書かされた。

 母の真剣な表情が怖くて緊張した。緊張のあまり、うまく書けない。書いてもすぐ忘れる。すぐに忘れる自分に苛立ち、先への不安も覚えた。それは母の感情そのものだったにちがいない。ふたりだけの家庭。ふたりの関係は濃密なものだった。

 入学式が近づいたある日、母が名札に毛筆で名前を書いてくれた。その時の緊張した面差しで筆を運んでいた母の様子をぼんやりと覚えている。硯で墨をするさいの涼しげな匂いが、かすかに鼻を突いて心地よかった。

 新聞紙か折り込み広告の上に何度か下書きをした母が、ようやく清書し、私の左胸に安全ピンで名札をつけてくれた。私は喜んで鏡の前に立った。私は声を上げた。奇妙な虫が名札にへばりついていた。真っ黒でくねくねした虫だった。その様子を見ていた母が笑った。

 鏡に映った物が左右逆に見えることを、私は知らなかったのである。文字を鏡像として見て、初めて鏡の性質に気づいたらしい。

     *

 今、私は母の手帳に書かれた名前の羅列をながめている。同じ姓を冠して並んでいる名前たち。男名。女名。苗字なしで列をなしている名前たち。

 女性の名にはひらがなだけのものもある。「――子」というふうに、ひらがなの下に漢字が添えられている名もある。

 男名は漢字のものばかりだ。私の名と漢字で一字違いの名もある。

 結局は捨てられた名前たち。ぼんやりと顔が浮かぶ。みんなどこかで生きている気がする。


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