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人というよりもヒト(する/される・03)

 川端康成の一部の作品では、一方的に見る登場人物と、一方的に見られる登場人物が出てくるという話の続きです。

「相手に知られずに相手を見る(する/される・01)」で触れた、川端康成の一部の作品に認められる傾向がエスカレートするさまを、ここで再びまとめてみます。

・『雪国』(1948年・完結本出版)
 
一方的に相手を見る、一方的に相手の声を聞く。
     ↓
・『眠れる美女』(1961年・出版)
 一方的に相手を見る、一方的に相手の声を聞く、一方的に相手のにおいを嗅ぐ、一方的に相手に触れる、一方的に相手の体内へ自分の体の一部を差し入れる。

 今回は、「一方的に見られる対象」が作品ごとに変わっていくさまを見ていきます。「相手」ではなく「対象」としたのは、人間とは限らないからです。


初期の作品から晩年の作品まで


「一方的に見る」と「一方的に見られる」という観点から、川端康成の『雪国』を出発点にし、『眠れる美女』を到達点として考える。そうした見立てで話をしています。

 ここでは、その二作品にとどまらず、川端の初期の作品から晩年の作品までを視野に置いて話を広めてみます。

 話(大風呂敷とも言います)を広げると必然的に話が粗雑に、つまり大雑把になりますので、そこのところは大目に見てください。

 見立てに合わない細部を見て見ない振りをして話を進めるという意味です。

     *

 相手に知られずに相手を見る。一方的に相手を見る――。

 これが出発点であることは変わりません。ただし、相手が若い女性だけにとどまらなくなるのです。同時に、話は「見る」と「見られる」だけに限らなくなります。

 話が大きくなってきましたね。眉に唾を付けるのなら、いまのうちです。

 冗談はさておき、そんなわけで、ここからは「一方的にかかわる対象」という言い方をします。

一方的にかかわる対象の変化


 一方的にかかわる対象、つまり相手には、どんなバリエーションがあるのかを、以下に箇条書きにします。

・祖父。少年期の川端は目の不自由な祖父と暮らしていた。祖父には孫が見えない。孫は一方的に見る側にいる。

・若い女性。少女も含む。川端といえば、少女と言われるほど、定着したイメージになっている。そのため川端にはさまざまなレッテルが貼られるが、「そう言われている=他人が言っている」という意味で借り物であるレッテル(イメージと通念)で読むことは、作品を読むことにはならない。ストーリーだけで読むのも同じ。作品の細部を大切にしたい。

・植物。川端の作品では植物の描写が多い。じつによく観察しており、植物の名前や生態にも詳しい。

・動物。愛玩動物。川端は小鳥と犬を好んで飼育していた。自分で飼犬のお産の介助もしていたほど、犬の生態や生理に精通してもた。飼っていた小鳥と犬がモデルと思われる描写や文章も多い。

・故人。いまはいない、つまり亡くなった相手に向って話しかけている形式の作品を川端は複数書いている。そうした作品では回想(思い出)が出てくるが、そこでは語り手や登場人物の目から見た亡くなった相手の様子、その耳で聞いた声や話などが描写される。亡くなった後に書いている形を取っているため、当然のことながら相手は知らない。一方的に話しかけているだけ。死後の人との交流は、夢を除いて、まれである。

補足説明


 登場人物が一方的にかかわる対象のバリエーションについて、上では箇条書きのまとめをしましたが、それについて若干の補足説明をします。

 以下は、今後この連載で利用する川端の作品を念頭に置いての補足ですが、この連載を書くためにつくった私的なメモでもあります。

*祖父 
・原点は、川端が目の不自由な祖父と暮らした少年時代にある。つまり、一方的に見る、視る、看る側と立場にいた。看取り、見送った。
・将来作家になる少年が、その祖父を一方的に見つめながら日記に書いていた。
・参照する作品は、『十六歳の日記』と『日向』。

*若い女性
・出発点の『雪国』と到達点の『眠れる美女』ともに、一方的に見られる相手は少女と若い女性。
・参照可能な作品はきわめて多い。
・ここでは『伊豆の踊子』と『日本人アンナ』(『掌の小説』所収)を扱いたい。

*植物
・植物は自分が人間に見られているとは意識していないだろう。
・人間によって見られるため(鑑賞やお供えつまり献花という目的を含みます)に切られたり抜かれたり栽培されているという意識はないと考えられる。
・川端の作品では植物がテーマになるものは少なく、作品の冒頭や途中に彩りをそえる形で言及される場合がほとんどであるため、参照可能な作品はきわめて多い。全作品と言ってもいい。
・ここでは『古都』を扱いたい。

*動物
・飼育され愛玩される動物は、自分が人間に見られている、見つめられていると感じたとしても、「飼育」や「愛玩」や「鑑賞」というヒト独自の心理を理解してはいないだろう。
・参照可能な作品は、『禽獣』、『愛犬安産』(『掌の小説』所収)、『山の音』。

*写す・映すもの
・川端にとって、鏡、ガラス、写真、映画は、対象や相手を「映す・写す」ことで、自分のものにする(移す)代償行為の道具であった。
・この代償行動は人一般にも見られる。
・川端における「写す・映すもの」の考察は、言語活動や文学の基本的な身振りとして話を広げることができるだろう。
・「写す・映すもの」を広く取って言葉や文学にまで広げると、伝聞や物語に話がおよぶことになり、古井由吉の小説についての読書感想文と重なる。

*生きていない人
 以上の観点からすれば、

・相手が眠っている(『眠れる美女』『夢』)、
・相手が亡くなって写真に写っている(『死体紹介人』『それを見た人達』『名人』)、
・相手が亡くなって「彼方・向こう・彼岸」にいる(『父母への手紙』『慰霊歌』『抒情歌』『反橋』『しぐれ』『隅田川』『住吉』『たまゆら』)

という設定は、どれもが相手に知られずに相手を一方的に見ている(あるいは見ている相手に話しかけている)形を取っていると見なすことが可能。

*人工物、自然物
・動植物と死者に関連して言えば、川端には人工物と自然物、および「生きているもの」と「生きていないもの」という二項へのこだわりが見られる。要検討。広義の「する者」と「される者」、具体的には「支配する者」と「支配される者」や、「お金を払う者」と「お金を払われる者」も視野に入れよう。
・『慰霊歌』、『抒情歌』、『たまゆら』、『虹いくたび』、『千羽鶴』、『波千鳥』、『山の音』。

参考にしたい作品のリスト


『日向』(文藝春秋 1923年11月)、『十六歳の日記』(1925年、執筆1914年)、『伊豆の踊子』(1926年)、『屋上の金魚』(文藝時代 1926年8月)、『毛眼鏡の歌』(若草 1927年8月)、『死体紹介人』(文藝春秋、近代生活ほか 1929年4月-1930年8月)、『花ある写真』(1930年)、『抒情歌』(中央公論 1932年2月号)、『それを見た人達』(改造 1932年5月)、『慰霊歌』(改造 1932年10月)、『禽獣』(改造 1933年7月)、『散りぬるを』(改造ほか 1933年11月-1934年5月)、『父母への手紙』(改造社、1934年4月)、『夢』(婦人文庫 1947年12月)、『雪国』(1948年・完結本出版)、『反橋』(細川書店、1949年12月)、『しぐれ』(細川書店、1949年12月)、『住吉』(細川書店、1949年12月)、『たまゆら』(別冊文藝春秋 1951年5月)、『名人』〈完成版〉(新潮ほか 1951年8月-1954年12月)断続的に4回連載)、『みずうみ』(新潮社、1955年4月)、『眠れる美女』(1961年・出版)、『めずらしい人』(朝日新聞・PR版・1964年)、『片腕』(新潮社、1965年10月)、『隅田川』(新潮 1971年11月))、『たんぽぽ』(新潮社、1972年9月)

【※初出順に並べようとしたのですが、うまくできず、結果として雑誌掲載と単行本刊行がごっちゃになっています。このリストの作成にあたり、ウィキペディアの「川端康成」を参照しました。】

     *

 まだ整理していないので完全に時系列に並べてはありませんが、少なくとも以上の初期から晩年までの作品(掌編から長編まで)に「一方的に見る」側や立場からの描写や語りがあります。

 語弊を覚悟で言うなら、早い話が盗み見であり覗きなのですけど、川端の場合には、ずっと踏みこんでいるのです。恐ろしいくらいに遠くまで行っている印象を受けます。

読む者を巻き込む


 川端はずっと踏みこんでいる――。

 相手が眠っている、相手が亡くなっている、相手が物を言えない状態にある、相手が動植物である、相手が夢に出ている――私はそこまで含めたいという意味です。

 どの場合にも、相手は自分が見られていることを意識していないからにほかなりません。不気味ですよね。そんな相手をじっと見つめているなんて。

 と書きながら、「もっと踏みこんでいる」のは川端だけでなく私自身でもあるのに気づき、はっとしないではいられません。

 川端にはそういう恐ろしさがあります。読む者を巻き込むのです。

一方的に「する」


 短絡的な言い方で恐縮ですが、次のようにも言えます。

「されている」を知らない、あるいは意識していない、または物を言えない相手や対象を、一方的に「する」――。

 いま述べた行為や行動は、川端の作品だけに言えたり見られるのではありません。物語や話や小説だけでなく、演劇や漫画や映画やテレビドラマといった広義のフィクション全般についても言える仕組みだという気がします。

 さらには、現在誰もが日常的に体験している、「する」と「される」、とりわけ「見る・見られる」「聞く・聞かれる」という状況についても言える仕組みだと私は考えています。

     *

 一方的に相手を見る、一方的に相手の声を聞く。
   ↓
 一方的に相手を見る、一方的に相手の声を聞く、一方的に相手のにおいを嗅ぐ、一方的に相手に触れる、一方的に相手の体内へ自分の体の一部を差し入れる。

 このエスカレーションですが、ぶっちゃけた話が、人類のやっていることなのです。他の生きものや生きていないものに対してだけでなく、人類同士でも、です。

人というよりもヒト


 一方的に、相手を自分の中に入れてしまう。

 これも、上のエスカレーションのリストに付け加えたいです。相手や対象を食べてしまう(侵略や戦争はもちろん、とほうもないアンバランスと搾取と格差、そして一部の人類による飽食と多数の飢餓といった形態を取る「共食い」を含みます、ようするにこの星に棲むヒトはヒトを喰っているのです、この私も例外ではありません)という意味です。

 このことについては、この連載の「準備号」である「「移す」代わりに「映す・写す」」と、前回の「見る、見られる(する/される・02)」で少しだけ、または間接的に触れましたが、今後も考えていきたいと思っています。

 私が川端康成の作品を読みながらつねに感じているのは、人というよりもヒトなのです。

(つづく)


#読書感想文 #川端康成 #文学 #小説 #植物 #動物 #ヒト #写真 #夢


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