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迷う権利(線状について・03)

 人は直線上で迷う。ただし、「私は直線上で迷っている」と口にするのはタブーである――。

 これまで、そうしたことを書いてきました。さらに言うと、次のようにも書きました。

 人生や世界や宇宙が、くねくねごちゃごちゃしているから、それをすっきりさせる工夫が線状化や直線化である。

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 人は直線上で迷う生き物であるにもかかわらず、「私は直線上で迷っている」と人前で口にしてはならないし、ましてや、その素振りを人前でさらしてはならない。

 この状況を実感するためには、話を広げるのがいちばんです。でっかい話で考えてみるのです。

 始まりと途中と終わりがあって直線上に進行する小説を読んで迷う。こういう個人レベルの小さな話ではなく、国家とか地域とか世界といったレベルにまで話を大きくしてみましょう。

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 あやまってもあやまらない。

 これは次のようにも書けます。

 誤っても謝らない。

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 ひらがなだけだと、「ん?」と迷います。漢字をまじえることで「ああ、そういう意味ね」と思います。

 とはいうももの、あやまってもあやまらない謝っても謝らないあやまってもあやまらない謝っても誤らないあやまってもあやまらない誤っても誤らない、という迷いが雲散霧消したわけではありません。綾鞠謝り文毬誤り絢鞠謬り

 このように、始まりと途中と終わりのある、一センテンスや二文字でも迷うことがあります。

 一文字でもあるでしょう。そもそも文字(もじ・もんじ)は点と線からなる「あや・綾・文」(形・模様)であり、書きはじめと終わりがあります。

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 そんなわけで、最初の一文字があって最後の一文字まで直線状に進んでいる、短いセンテンスを読んでいて「ん?」とか「あれっ?」とか「えっとえっと――」とか「……」と迷う。つまり、直線状で迷うことがあっても不思議はないのです。

(いま述べたことに絡んできますが、「迷う」には「まよう」もあるそうです。このことについては、近いうちに書きます。)

 表記を変える、書き方を変える、言い換える、書き換える――これも直線状のもので迷わないための方法、つまり直線上で迷わないための工夫の一つです。この種の工夫はたくさんあります。

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「誤っても謝らない」というのは、ブレないことです。ブレない、振れない、揺れない、迷わない。

 誤ったけれど「誤った」とは言えないし、まして誤ったことを認めて謝ることができない。ブレるわけにはいかない。

 こうした状況におちいって困るのは、人の上に立つ人でしょう。

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 人が二人以上になると上下関係が生まれます。

 パートナー同士、友だち同士、きょうだい、親子、家族、学校、職場、自治体、共同体、政府、国家、地域。

 どの集団であっても、上に立つリーダーであれば、やたらむやみにブレるわけにはいきません。

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 誤っても謝らない。謝らないというよりも謝るわけにはいかない。
 ぜったいにブレない。ブレないというよりもブレるわけにはいかない。

 こうした立場にいる人は、どの集団にもいます。でも、ブレないは程度問題でしょう。ちょっとくらいのブレは許されるものです。

 でも、文字どおり、ぜったいにブレることができない人がいます。

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 どんな人でしょう? 

 そうです。お察しのとおり、独裁者や独裁体制です。


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「黒いカラスは白いサギである」

「御意」、「おっしゃるとおりです」、「至言でございます」、「そういえば、以前もそうおっしゃっていましたね」、「異議なし」

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 独裁者が、「黒いカラスは白いサギだ」と口にすれば、黒いカラスは白いサギになります。

 いったん、リーダーが口にした以上、ブレるわけはいきません。誰がって、リーダー以外の人たちが、です。

 リーダーはブレない。そのリーダーの言葉に人びとが付きあわされるわけです。

 こんなことをしていると、もちろん矛盾が起きます。そういうときには、「黒いカラスは白いサギだ」という言葉の辻褄を合わせる、つまり言葉をいじって取りつくろうのに長けた人たちが必要になります。

 この人たちが、ぜったいにブレない、というか、ぜったいにブレることのできないリーダーのブレーンになるという意味です。

 言葉のスペシャリストですから、黒を白と言いくるめたり、白を黒と言いくるめたり、サギをカラスと言いくるめたり、カラスをサギと言いくるめたりするなんて、お茶の子さいさいなのです。

 しかも、絶対権力の後ろ盾がありますから、言いくるめる前に、人びとが自主的に気を使ってくれます。いわゆる忖度です。

 こうなると楽です。忖度こそが独裁のオートメーション化(自動化)であり、つまりは完成形なのです。

 気をつけましょう。

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 ぜったいにブレることができないリーダーがトップにいる社会は、迷えない社会、つまり振れたり揺れたりブレることができない社会になるという、恐ろしい皮肉があります。

 そこでは、人は指示(絶対的な命令のことです)どおりにブレない機械の一部にならなければなりません。


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 では、まとめます。

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「黒いカラスは白いサギである」

御意あほか」、「おっしゃるとおりです冗談は顔だけにしてよ」、「異議なしばーか

 これは、まだましです。

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「黒いカラスは白いサギである」

御意御意」、「おっしゃるとおりですおっしゃるとおりです」、「異議なし異議なし

 こうなったら、おしまいです。

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 一見すっきりした直線上で迷う。くねくねごちゃごちゃした人生や日々の生活で迷う、ブレる、揺れる、振れる。

 迷う権利は、人に等しく与えられた権利だと思います。その迷う権利を行使できる社会であってほしいと願っています。

 ブレることが許されない社会では、文章の意味や解釈でもブレて迷うことは許されません。指示どおりに読まなければならない、または忖度して読まなければならないという意味です。

 迷えないのです。

 不安と恐怖が増えるのは確実です。

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8を横にすれば無限の符牒としての ∞ が得られると指摘してみせたところで、しかし「作品」としての『覗く人』は8への還元を素直にうけ入れたりはしないし、まただいいち、8の主題の反復は、はじめからこれみよがしに配置されていて、隠された構造というより、むしろ表層に露呈した可視的な細部であって、視線を表皮へとつなぎとめる機能しか果たしていないのだ。8を触媒として結ばれゆく細部は、密かな連繋を生きるというよりあからさまな類似を誇示しているのであり、だから『覗く人』で8に着目し、無限を語ることは、迷う権利を放棄することにほかならないのである。
(「アラン・ロブ=グリエ――テマティスムの廃墟」(蓮實重彦著『批評 あるいは仮死の祭典』せりか書房所収)p.90・太文字は引用者による)

 場違いな引用をお許しください。

(つづく)


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