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数の暴力に抗い続ける。

その総意は本当か?

 先日、友人から保有銘柄を見せて欲しいと頼まれた。別に保有銘柄を見せたところで、何かが減る訳でもないし、20代パンピーが相場を動かせるような資金力を持っている訳もないため、勿体振って見せないよりも、オープンな姿勢の方が、センシティブな話題となりがちなお金である分、信頼が得られると考えたからである。

 相手をそれなりに信頼している証拠でもあるし、知りたいのはどの銘柄を保有しているかではなく、銘柄を見て、4000社近くある上場企業の中から、なぜその企業の株式を保有するに至ったのかの、判断基準を知りたいのは言葉にはなくとも容易に汲み取れた。

 バリュー株かつインカム&株主優待狙いが主軸ではありながらも、スパイス的な範囲内で、キャピタル狙いのグロース株はもとより、IPOセカンダリーや、製品はよく見かけたり有名な割に、会社名は認知されていないような、ニッチな銘柄なども組み入れているため、堅め基調でありながらも、どこか刺激的なポートフォリオを構成している。

 聞かれるのはもちろん、比重の小さいスパイス側ではあるが、比重は小さくとも保有銘柄は監視銘柄以上に分析しているため、端的にどんな事業をやっている会社で、どんなシナリオを想定した上で保有に至ったのかは、記憶力が悪い私でも諳んじることができる。

 そこで評価されたのは連想力である。

 日常生活で「物価が上がる」「電気代が高い」「でも賃金は増えない」などの気付きから、風が吹けば桶屋が儲かる理論で、近い将来に何が起きるか仮説を立て、その変化によって恩恵が得られるであろう銘柄を浮かび上がらせる。その連想の幅と深さの次元が、どうやら大衆とは一線を画しているらしい。

 自分では当たり前だと思っていたし、堺屋太一さんの本を読む度にまだまだ甘い仮説だと痛感するため、意外性すら感じたが、どうやらそれなりの解像度の高さで、世間の動きを解析しているように、他人からは映るらしい。

 とはいえ壮大な勘違い劇場によって、相場から損失をお見舞いされたことは一度や二度ではないものの、トータルではプラスで推移している意味では、期待値がプラスの推論が出来ていると信じたい。

 靴磨きの少年の話は有名だが、現代風に言い換えれば、テレビの特集などで紹介されてしまった会社や、業界の関連銘柄などは、周知の事実と化しているため、安直に飛び付くと株価が天井である可能性が高い。

 そのため、流行りの業種や銘柄で持て囃されている時ほど、反射的に多数派の総意に懐疑的となり、既に大多数が負ける壮大なババ抜きが始まったとすら思う節はあるが、そのお陰で数々の荒波に飲み込まれることなく、今まで運用し続けて来れたのだと思う。

多数決は最低。

 学生の頃、いや、社会に出ても構造は変わらないが、何か議論をする時、多数決で決定する。教育や組織に限った話ではなく、選挙に関しても多数決が採用されているため、この仕組みを誰も疑問に思わない。

 しかし、多数派の意見というのは、八方美人的な側面があり、誰からも袋叩きに合うリスクはない反面、誰からも評価されない。

 現状に何かしらの不備や不満があるから議論するのに、誰からも好かれない八方美人的な意見を採用してしまえば、やってる感を出したり、やった気になるだけで、実態としては何も変わらないと思わないだろうか。

 その典型例が現在のシルバーデモクラシーであり、若者に冷酷な日本社会そのものを形成している諸悪の根源ではないだろうか。

 日本は1997年に、子どもの数よりも高齢者の数が上回る、少子社会となった。この頃、日本社会のマジョリティは団塊世代で当時48〜50歳と、少なくとも民間企業は組織内で最も影響力のある、決定権を持った時期である。

 この頃に、悪い言い方をすれば、何も変えないことを多数決によって合意したことで、失われた10年が、20年、30年と増え続け、少子化問題が深刻化し、毎年60万人以上のペースで減少している。

 ニュースで60万人と聞いても、数字に疎い人は漠然とし過ぎていて深刻さが伝わらないだろうし、数字力のある人も1.2億人のうち、たったの0.5%と思うかも知れないが、毎年、鳥取県が消滅するペースで人口が減っていると表現すると、事態の深刻さが伝わるのではないだろうか。

 そんな状況下でも、相互扶助の社会システムをテコ入れしたくない既得権益層が、日本社会のマジョリティである弊害から、国民の半分しか居ない現役世代で、1/3の年金や生活保護の受給者を支えている現状の体たらくとなっている。

 同調圧力の強い日本の風潮だと、アッシュの同調実験ではないが、権力を持つ人が黒いものを白と言い出すと、立場上反論できず、コミュニティ内で白となってしまう恐ろしさがあり、それが大体の不祥事の元となっている。

 みんなが言っているのだから、きっと正しいのだろう。は思考停止状態である何よりの証拠である。

 些細なことであっても、なぜそれが正しいと思われているのか、自分自身が理に適っていて、納得できる段階に至るまでは、懐疑的な姿勢を貫き、様々な角度、切り口から仮説を立てて検証していくことが大切ではないだろうか。

 結果として、持論を展開しては数の暴力である多数派に争い続ける羽目になることが多いが、岡本太郎さんのように、他者とぶつかり合うことを避けるのではなく、傷つくことを恐れず、ぶつかり合うことで得られる調和こそが、今の日本社会に必要なのかも知れない。


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