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性善説を前提にしない方が良い?


機械より人間の方が安上がりだったりする。

 発行した枚数と回収した枚数が違う。某ハンバーガーチェーン店の株主優待券は発行枚数よりも回収枚数の方が多い、怪奇現象が毎年起きるらしいが、某旅客鉄道会社は発行した乗車券が、誤差の範疇を遥かに超えるレベルで未回収らしい。

 都市部の交通機関しか使わない人からすれば、初乗り切符だけ買っても、降りる時に…と思うかも知れないが、地方部は簡易改札機と言い、ICカードを読み書きするポールと、切符を回収する郵便ポストのような箱が置かれているだけの無人駅が、合理化の影響で増加傾向にある。

 つまり、行きは降りる駅に扉が閉まる自動改札機があるため、正規の運賃を支払うか、悪知恵を駆使してちょろまかす方法もゼロではないため、それを利用する。

 帰りは手軽に初乗り切符を買い、無人駅で何事もなかったかのように降りる。運悪く車内検察に出会した時だけ、乗り越し精算で正規の運賃を支払えば良い。そう思うと、売れる切符の枚数と、回収する切符の枚数が、誤差とは言えない次元で異なることは辻褄が合う。

 元鉄道員として、券売機や改札機のシステムを熟知しているため、このやり方は駅務機器のデータを照合すれば、ニュース記事のように鉄道事業者側には不正乗車を行なっている人が、潜在的にどれ位居るのか筒抜けとなるため、安直すぎて対策を打たれる可能性が高く、それが初乗り切符の発売中止による様子見とも捉えられる。

 こう言った表現をすると言うことは、元プロなら少なくとも駅務機器のデータ上、足が付かないようにシステムや制度の穴を突いて、ハックする方法は思考実験レベルでは思い浮かぶし、恐らく不正乗車をしていることすら認識されない。

 そんなガバガバなシステムでも性善説を前提に機械化、合理化で人件費をカットしたものの、あまりにパンピーの不正乗車が横行し過ぎて、経営に支障が出るレベルで、本来得られるべき運賃収入を毀損しているからこそ、ニュース記事の状況に至っているのだろう。

 無駄と思って切り捨てた駅係員の存在が、不正乗車の抑止に一役買っていたことに今更気づいても、無人化するために設備投資をしたり、採用抑制による自然減を図ったものだから、引くに引けない状態なのだろう。

 シングルタスクであれば機械化した方がコストを抑えられるものの、マルチタスクの場合は、表現が良くないが、人間をこき使った方が安上がりで済むことの方が日本社会は多いだろう。デフレ続きでこれまで大して賃上げしてこなかったからである。

自分の身は自分で守る。

 この事例から伺えるのは、日本人は心のどこかで性善説を信じて、都合よく解釈している節がある点だろう。

 従業員、特に運転士には「かもしれない」で運転しろと口煩いにも関わらず、経営陣は旅客が自動改札機はなくとも、正規の運賃をしっかり払ってくれる「だろう」で合理化した結果、泣きを見ている。

 鶏か卵か論争になりかねないが、組織の上層部が自分たちができていないことを、末端従業員にちゃんとやれと威張ったところで、現場はお前らが言うなと腹を立てて指示通りには動かず、結果として余計に締め付けが強くなる悪循環を繰り返すことは往々にしてある。

 ここにも従業員は無条件に会社の方針に従ってくれる「だろう」、従業員も会社は適切に評価してくれる「だろう」と、性善説をもとに勝手に期待を抱いては、勝手に裏切られたと感じてお互い信用しなくなる。

 生まれつき道徳心があると思う性善説よりも、利己的な欲望こそが人間の本性そのものである性悪説を前提に生きた方が、無駄に相手に対して期待しなくなる。それに例え自分が不利な扱いを受けても、これが相手の本性か。と諦めて「はい、次」と思える。

 人生の舵取りをするのは、他の誰でもなく自分なのだから、自分の身を守れるのは、基本的に自分ひとりだと思うべきではないだろうか。

 だからこそ社畜として、死んだ魚の目をして、ゾンビの如く満員電車に詰め込まれる、思考停止状態な日々を繰り返すのは、何かあった際に、自分の人生を、自分以外の何かのために棒に振ることになりかねない。

 某中古車販売買取会社の街路樹疑惑が典型例かもしれないが、いくら恐怖政治体質でも、脳死で会社の指示通りに動いた結果、不都合な事態に出会しても、会社は何の責任も取ってくれない。

 責任者とは名ばかりで、私は社畜時代に責任者が責任を取っている姿を見たことはない。いざとなったらトカゲのしっぽ切りの如く、末端の人間に責任を押し付け、突き放して終了するのが、いつものやり口である。

 これが刑事事件に巻き込まれて前科がついたり、過労で身体が壊れたりと、こんな仕事をしたが故に、リカバリーできないところまで追い込まれたら、何のために生きているのか思い悩むはずである。

 だからこそ、他者などエゴにまみれた存在で、そいつらの餌食にならないよう、自分の身は自分で守る。一線を超えてきたらNOを突きつける覚悟が必要で、それは性善説を前提としないことを意味する。


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