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スプリングコート


スプリングコートのポケットに、去年の忘れ物を見つけた。
手で触れただけで、それが何なのか、分かってしまった。

その一瞬で、触れた指先からカラカラに乾いて
心臓が凍っていくような感じがした。
一方で中心は火傷しそうなくらいじくじくと熱い。

その感覚に眩暈がした気がしたけれど
感情を押し殺し平静を装った。

もし今、歩みを止めたら、その場で立ち尽くして動けなくなってしまいそうで
何事もなかったかのように足を動かしつづけた。



あの日の夜。
去年の春のこと。

わたしは
彼を
誘惑したのだ。

そう決めてきたことだった。
だから、忍ばせた。

ポケットの中で触れて、何度も、今日こそはって。
今日が最後なんだから、って。


その日の夜は、たくさん嘘をついた。
言いたくもない「おめでとう」を言って、お祝いのお酒をたくさん飲んで
楽しそうにはしゃいで、笑った。

これでもかってくらい飲んだはずなのに
悲しいことにちっとも酔いがまわらなかった。



彼は優しいキスを落として
わたしを抱き寄せることはあったけど
それ以上のことは、決してなかった。

それでもわたしは、
彼のキスは、ほのかに煙草の味がすること、
普通に過ごしているだけでは気づかない、
特別な距離となってはじめて分かる、苦いような甘いようなその香りを

知ってしまった。

“決して本気にならないこと”
それがわたしと彼とで交わされた暗黙のルール。

彼の弱さを許したのは他ならぬわたし自身で、
だからこの不毛な関係は、2人の合意の上だった。



黙って歩く帰り道。
風があたたかで、ちっとも寒くなかった。
街灯に照らされて、2つ並んだ影が消えては現れて、また消えて。

なんて不確かなのだろう。なんて曖昧なのだろう。


「・・・じゃあ、これで。・・・元気でな」
聞き慣れた柔らかな低音が、夜の空気を震わせて鼓膜に届く。


ねぇ、お願い。行かないで。
今日で最後だから。もうどうせ、今日が最後なんだから。

あなたの声。胸の鼓動。
もっと近くで感じたいと思うわたしは、わがままでしょうか。

後姿に手を伸ばす。服の裾を引く。

振り返った彼に、はじめて、わたしから唇を重ねた。



結局、彼は最後までルールをおかさなかった。
ポケットの中のそれは、
出番のないまま今日までその存在すら忘れ去られていた。


季節は巡る。
どんなに泣きはらしても否応なしに夜は空けて、
現実という波が日々押し寄せる。

その中でわたしの傷もいつの間にか癒えて、
他人や自分の弱さとの距離の置き方もこの1年で少しずつ覚えた。

初々しいスーツ姿にスプリングコートを羽織った
新入社員らしき集団とすれ違う。
群れて笑っている姿は、まだ見ぬ新しい生活への不安を
必死に隠しているように見える。

あの頃のわたしもまた、あの子たちのように何も知らなくて… 
ただ、幼かったのだ。

あぁ、これも、あの日のわたしの形跡なんだ。
ここに忘れ去られていたのは、あの日のわたし自身だったんだ。

もう一度、ポケットの中のそれにそっと触れる。
今度は、大丈夫、触れる。わたしはあの日から、ちゃんと前に進んだのだ。

少しだけ転がして、タイミングを計って思い切ってつかんで、
路面に向かってぽかんと口を開け設置されたコンビニのゴミ箱に
それを捨てた。

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「モノカキ空想のおと」春企画

――― スプリングコートのポケットに、去年の忘れ物を見つけた。


今回は冒頭の一文を全員共通とし、
さらにモノカキの一人から指示された条件に沿って書いています。

わたしに条件をくださったのはしるてっくさん。

・香りや匂いの描写を入れる
・桜は使わない


でした。ありがとうございました。


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