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フライドポテト

夏。
昼下がりの日曜日。

キッチンで
買ったばかりのフライヤーと向き合っている。

珍しくエプロンを身につけて
テンションは少し高揚気味だ。

一袋揚げてしまおうか
考えあぐねている。

水面...じゃない、

油面に、ポテトが上がってきた。

スーパーで買った、大袋のフライドポテト。

ギザギザじゃない方のポテト。
皮がついていない方のポテト。
安心の、北海道産じゃがいも。

上がるのは
出来上がりを知らせるサインだ。

無数に入れたポテトを
1つ1つ順番に、木の菜箸で取り上げていく。

網を使えば一発なのに。

わかってる。

親切にも、新しいフライヤーには
すくい網が付いていた。

けれど洗うのが面倒だから
私は使わない。

消費者なんてこんなもの。
人の親切を
悪気もなく無下にする。

だがこの菜箸と織りなす反復動作が
妙に気分を揺さぶってくる。

なぜだろう、心が騒ぎ出す。

水面にあがってくる者...

水面で浮いている者...

何か思い出しそうだが
モヤがかかってよく見えない。

心地よい揚げ物の音が響く広いキッチンで
小さなポテトと向き合い続ける。

そして私はふつふつと
幼少期を思い出し始める。

...

漂う物と浮く物。
それが混在する場所...

そうだ、ペットショップの金魚コーナーだ。

あそこでは、水面に浮いた者は死んでいた。

...

幼少期、
ペットショップに行くことが楽しみだった。

初めてのペット
”プレーリードッグのぱんちゃん”
と出会ったのも、そのペットショップ。

幼い私にとって
ペットショップは毎回新たな発見があった。

中でも特に印象的な発見が
浮いた魚の姿。

劣悪な環境のペットショップでは
なかったと思う。

それでもたまに
魚が死んでいた。

大人も子どもも
駆け寄って行くのは
動く生き物の方。

浮いた魚を探すのは私くらい。
褒められた行動じゃないと
幼いながら自覚していた。

けれど
生が溢れる空間に、ポンと見える死は
一桁の年の私にとって
非常に興味深かったのだ。

...

あそこでは
”生きた者”を売っていた。
浮いている者より、水中を漂っている者の方が
”生きている”という、注目すべき存在なのだ。

だが今ポテトを前に、私は
”浮いた者”に注目している。
水中で漂っている者は、まだ食べられない。
”死んでいる”のだ。

同じ「浮く」と「漂う」の世界なのに
こうも事態は逆転する。

当たり前ではない。
この当たり前を上手に説明できる大人がいれば
ぜひご飯に行きたい。
これは面白いことであり、なんだか皮肉で
滑稽なことだ。

そんなことを考えていたら
あっという間に一袋が揚げ終わった。


私がふと”人生って面白いなぁ”と思う時は
大概こうやって
なんにも関係なさそうな事柄が繋がった時
だったりします。

私はこれをきらめきと呼んで
これでもかと言うくらい
わくわくしてしまうのです。

なぜならこのマッチングは
意図して叶えられるものではないからです。
ラッキーな出会いに胸が高鳴り
誰かに感謝したくなります(笑)

ポテトを揚げなかったら
この瞬間に幼少期を思い出さなかっただろうし
生と死の不思議にも
考えは巡らせなかったと思う。
暇だったのも良かったのでしょう(笑)

意外なものと意外なものの掛け算。
きっとみんなの身の回りにも
たっくさんあるはずです。
見えにくいだけでね。

それを見つけた時
生きていることを”最高に楽しい!!”と思う。
と、私は思う(笑)

みんなの日常に
ほんの少しでもわくわくが増えますように。
見えやすく、感じやすくなりますように。

Mayu

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