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何者でもない日…

 年度が始まって間もない日、長期、また短期の見通しと度段取りがついたところ
で有給休暇を1日取った。


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 数年前、父が亡くなった時、戸籍の抹消、遺影選びやそれにまつわる写真、身の回りの品の整理などをした。初めての家族の家族の死を前に、悲しみとは別に、このように、人は社会から消え去るものなのだということが大きく記憶に刻まれている。

 人間は、文字の如く人と人との関係性の中で生きている。ある実験で、生まれたばかりの赤ん坊に一切話しかけなかったところ、その子どもたちは生きながらえることができなかったと聞く。
 人と人が家族を作ったり、社会を形成したりして、人間はいくつもの系を成して生きている。それは社会的関係ばかりではない。私的な友人、知人、深さや広さはさまざまに、誰もが直接、間接にそのネットワークの中で生きていることは間違い無いだろう。
 「名付けれた葉」という合唱曲がある。名付けられたのだから、わたしたち一生懸命生きなければならない、そんな内容のフレーズがあったが、別の言い方をすれば人はそれぞれある運命を背負わされ、強いられて生きる存在であるとも言える。可能性なのか制約なのか。それを分つのはひとえに「気分」なのだろうか。存在の価値と、その制約に想いを馳せてみる。

 父が亡くなった時、一人の生きた人間が社会的に消滅する、という事実に触れて、「自分もいつか〇〇〇〇(という名前を持った存在)ではなくなるんだな。ならば、今は〇〇〇〇を精一杯生きよう」と思った。

 名前を持った存在としての人間は、関係性を生きる存在である。日々、社会の中で社会的役割を果たし、家族の中で家族の役割を果たし、友人と寛ぐ時にも相手役を果たす。必要に迫られたスケジュールの中で、一人の部屋で〇〇という肩書きのために時を費やす時、そこには、やはり関係の中に生きる自分を意識せざるを得ない。たとえ、それが、プライベートなことであっても。

 
 漱石は言った。「死ンデモ自分ハアル」と。それは漱石夏目金之助ではない。その全てを捨て去って、却って満ちる光の全域のようなものだろうか。
 考え合わせると、〇〇ではなくなる、ということは、「存在」が何かが削られるとか消滅するということでは決してないのではないかという気がする。


 「人は2度死ぬ。一度目は命を終えた時に、二度目は忘れ去られた時に。」という言葉もよく聞くけれど、結局のところ、人は死なないのかもしれない。般若心経でいうところの「不生不滅」「不増不減」である。みんなどこからかやってきてどこかへ進んでいく。長いデータのほんの一区切り、今生きてある存在たちをそんなふうに見つめ、長い未生の生を思うとちょっと涙ぐむような気持ちになる。

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何もしないための休みを取ることは多くはない。取っても、義務に駆られていろいろやってしまうし、有意義に楽しまなければならない、と脅迫的に何かに勤しむことも多い。

 ほんとうに何もしない、何者でもない存在になって1日を過ごすことは難しいなあーーーーぼんやりとそう思いつつ、窓からの春の日差しに身を晒し、一時思考を停止し、何者でもない者に戻ったつもりになるーーーそれは、未知のエアポケットに入ったような不思議な、また心地よく軽い感触である。束の間の僥倖、とはこんな感じだろうか‥。もちろん、戸籍も名前もあるし、光熱費家賃はじめ契約中のものは継続し、明日行くところも決まっている。しかし、今日ばかりはちょっとそのことから意識を外している。

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