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足の不自由な人が車いすを使うことを「ずるい」と思う人はいないのに、精神的な疾患や見えない障がいで配慮を受けることを「ずるい」と思う人達がいる現実❔

#仕事の心がけ





足の不自由な人が車いすを使うことを「ずるい」と思う人はいないに等しいのに、精神的な疾患や見えない障がいで配慮を受けることを「ずるい」と思うのでしょうか❔

合理的配慮という言葉があるのに、
精神的な疾患や見えない障がいで配慮を受けることに対して遠慮してしまう
当事者の方は多いと思う。

遠慮してしまう要因のひとつに
「周りの目」だったりする。

「精神的な症状❔それって、気にしすぎが原因じゃない❔そんなことならば、誰にでもあるよ。心を鍛えて強くした方がいいんじゃない。」

そういうことでもない・・・けど、
やっぱり当事者にしか理解が難しいもの。

本当の実情は、分からなくても当然。
でも、合理的配慮の目的は、
「本当の実情は、分からなくても当然。」だけど「当事者の話をまずは、傾聴してみよう。」から始まると思う。



「そう、そんなことに困っているんだね。」


「そういう部分で、私たちとは違いがあり、配慮が必要なんだね。」



「〇〇の部分の配慮ならば出来るかもしれないから、ここは、こういう風に
変えてみよう。」




自分が思っている精神的な状態と
医師から診察や診断を受けた精神的な疾患と呼ばれるものは、全く別物。


ある人が「私、繊細なんです。だからちゃんと私に配慮して下さい。」
と言う。
また別の人が「精神的に不安定で、メンタルクリニックを受診したんだけど、診断がついた。医師とも相談した結果、こういう部分を配慮してくれると、助かります。」
両者を同じ状態と考えられるだろうか・・・

「繊細」=自己診断
「医師の診断」=専門家による客観的な診断



自己診断が本人にとって辛い場合には、良い方向性には進んでいかない。


自己診断を決して否定するわけではないけど、
本人で自分自身に自分自身に「診断」というような判定を下すような行為は、リスクも伴う。
イメージとしては催眠療法を正しい技術や知識のないまま自分自身に行ってしまうと、危険という感じだろうか。

自分自身の辛さを軽減するためにも、
違う選択肢を考えてみてもいいかもしれない。


冷たいと思われるかもしれないけど、
「例えば、もし自己診断で配慮が少ないと感じる場合には、
クリニックを受診するなどの必要な処置を受ければいい」と
言ってしまえば、きつく感じるかもしれないけど


「私は、こう思う。」と
他者が、あなたのことをどう思っているのか❔それは、全く違うのかもしれない。

お互いの価値観も性質も違うから、
「私がこう思うから・・・あなたも私のことをこういう風に思って、接して欲しい。」という世界は、実はとても難しい。



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