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日本の歴史と現代の真実を訴える「良い映画」としての『福田村事件』(森達也監督作品)しかし、わたしの観たいものは、映っていなかったんだ。

話題の映画『福田村事件』(森達也監督)を観た。
100年前の関東大震災時、東京から関東、広範囲で起こった民間人による民間人への虐殺の中で起こった「朝鮮人に間違われた日本人が殺された事件」に関する劇映画だ。

関東大震災は、よくテレビドラマでも描かれるし、宮崎駿監督『風立ちぬ』での具体的で幻想的でもある恐ろしい描写が思い出される。
10万人以上が死亡。その多くは地震の後に起きた火災に巻き込まれたものだと学校では習った。

ずいぶん長い間、わたしは、ろくに何も知らなかった。
「満州」が中国大陸にあったこと。日本が朝鮮半島に進出し、韓国を併合、植民地化し統治していたこと。母国語を奪い、日本語を強制的に教えていたこと。台湾も同様に統治していたこと。
支配実行のため各地で残虐的な行為、夥しい殺人を犯していたこと。

さらに日本へ強制連行された労働者を含め留学生、多くの移民は、額面上は「日本国籍」(臣民化)だったこと。しかし、そうでありながら「朝鮮人」「中国人」と分け隔てられ、下級者とみなされ差別されていたこと。

関東大震災時、「朝鮮人が暴動を起こす」「井戸に毒を入れた」「日本人を殺そうとしている」といったデマが流れ、煽動された住民たちが、多くの朝鮮人、中国人を殺した。内務省と警察、新聞も誘導し、日本人を自覚する住民たちは正義の元に、自警団を作り、行動したとされている。
戒厳令下で、状況により殺人も許される状態。どさくさに紛れ、社会主義運動家や思想家も殺された。

イギリスもアメリカも白人たちは世界中で同様のことをしていて、日本は、植民地化されるのをくい止めようと大陸に進出していった、アジア解放のために戦ったのだという言説もある。しかし、やってることは大国列強のモノマネだったし、つまり何事にせよ他者を支配するとは、暴力しかないと全て共通する。

人間の最終的な、本質、姿は「暴力」なのか。
圧倒的な暴力の前に、わたしたちは、いつでも屈服するしかない。
そして、真実を隠蔽するのもまた暴力である。

何も知らずに生きていた。「日本人」のマジョリティとして。
子ども頃には、日本は先の敗戦を反省し、世界で唯一戦争を放棄する平和憲法を掲げた良い国だと思っていたし、大人になっても自分自身「普通の良い人」だと思っていた。
「良い人でありたい」と思っていたと言う方が正しいのか。
「良い人」とは「正しい行いをする人」と同じなのか。

100年前から現在の日本へ。
「これは今の話だ」
森達也監督が述べてきた『福田村事件』への制作意図は、そのような「普通の良い人」に関してあったと思う。
100年前から現在の日本へ。インターネットSNSで蔓延する暴力性。差別の煽動。弱者を見つけ出し叩き潰す。ネット上から溢れ出し、具体的に実行される事件も増えている。
しかし、それらの多くは、匿名の彼らの「正義感」に依っている。彼らは良いことを正しいことをしている。間違っていると見える、有ると良くないと思える存在を消そうとしてるのだから。何が悪い? 

「お前は日本人か!?」
「朝鮮人か!?」

「朝鮮人だったら殺してもいいのか!?」
殺された讃岐の男の叫びは。誰に、どこに、向かって放たれているのか。

 わたしの印象では、森達也監督は、優しい人だと思う。
数々のドキュメンタリー映画。オウム真理教の信徒を追った『A』。聾者を偽ったとして糾弾された作曲家佐村河内守に執拗に迫る『FAKE 』。東京新聞記者望月衣塑子を追っかけるうちに自分も出演者となる『i新聞記者』。

先入観を持たず、個人として対象を見る。麻原逮捕後のオウム信者を断罪もしないし、佐村河内氏が聾者か偽りか、音楽家としての能力もあるのかないのか判断しない。望月記者にしても同様で、いつもはっきりした主張も答えもない。もやっとして曖昧なままドキュメンタリは、終わる。

そういう曖昧さは、ある種の映画関係者からは「甘い」と糾弾されたり、「オウムを擁護している」と批判されてきたりもしていた。批判自体が的外れだが。でも、わたしは、そういう森監督の在り方が好きだった。

答えを出せない。もやっとしたまま、しかし何かを知りたくて、映画を撮る。撮ってももやっとしたまま。
一言で言えば「弱い」のだ。でも、その弱さこそが「怖くない」から。好きだった。

森監督、初めての劇映画、自ら「エンタメでやりたかった。エンタメでなければ伝えられないこともある」と望んだ。エンタテインメント映画は。
封切り前から話題となり、上映開始から大評判。
ネット上では称賛の嵐(と言ったって『スラムダンク』には到底及びもしないささやかな規模だけど。)

わたしも躊躇しながらも、やっぱり見なくては、と観に行った。
躊躇とは、結末がわかっている、多くの人が無惨に殺された事実を想像すると恐ろしいし、それによって自覚される日本人として殺す側の心理を想像するとさらに恐ろしいからだった。

しかし、実際に観た結果は、真逆のものだった。
こういうのも憚られるけれども、正直に言って、何一つも恐ろしくなかった。何も心に迫ってこない。

自分で言いますが、わたしは感情移入の激しい、非常にのめり込みやすい体質の人である。いろんな映画を見てきたし、残虐な歴史物もたくさん観た。ナチスのホロコースト『夜と霧』、アルゼンチンの軍国主義政権による弾圧『ローマ法王になる日まで』中世ヨーロッパの虐殺と戦争『王妃マルゴ』中国での日本軍の残虐『紅いコーリャン』沖縄戦『ひめゆりの塔』原爆『はだしのゲン』韓国の光州事件『タクシー運転手』…
たくさんの「エンタメ映画」を見て、映画館の片隅で泣いたり、恐ろしさに震え、愕然呆然としてきた。(この間は、NHKBSで『アンという名の少女』を観てて白人化を強制される先住民族の少女カクウエットが、教室で神父に鞭打たれるシーンを見て、一人で泣いていた。)

そんな自分が、こんなに酷い史実を描こうとした映画に何も感じない?
それは映画のせいなのか、見ている自分のせいなのか。

なんというか、本当に「劇を見ている」ようにしか、見ることができなかった。虚構が虚構にしか見えないという意味である。
劇を見てたって虚構が虚構でなくなる瞬間はあるわけだが、わたしにとって映画を見るとは「虚構を見る」ことではない。
映画を見るとは、スクリーン(今は白い壁)上の光と影が映し出す人々や出来事との「出会い」であり、共有された時間を「リアルに生きる」ことだ。

そのリアリティの間合いのようなものは、こちらと映画の関係性にあり、どんな馬鹿げたくだらないエンタメだろうが、どんな真面目な社会派映画だろうが、どんな難解な前衛映画だろうが(そしてドキュメンタリーだったとしても、創作物という意味で)同じである。

わたしには、『福田村事件』に、そんな、虚構であるからこそ立ち上がってくるリアリティを感じられなかった。全てが脚本で全てが演出であるーそもそもそうなんだけどさーとしか画面から見えないってのは、はっきり失敗じゃないんだろうか?

そうではない感動してる、リアリティを感じている人もいるのだから、失敗というのは言い過ぎとしても、言い換えてみれば。

「良くできた教科書を読んでいるようだった」が、一番近い。
真面目に地道にコツコツと資料を集め、できる限り真実に迫る。
しかし劇映画なので起承転結を作り、わかりやすく、主題を抑え、「何を伝えるか」を明確にする。さらにエンタメなのでサービスも怠らない。女性は可愛く美しく、感情的でエロティックで、なんなら最近日本映画から駆逐されているおっぱいも出してみる。男性は色々だが、昨今不倫不貞で物議を醸している東出昌大を間男役で抜擢、ばっちりエロく濡れ場担当もやらせてみる(わざとだよね?)。

 物語が佳境へ入れば入るほど、心は冷めていった。あれほど恐れていた殺し殺される場面も淡々と流れていく。ラストに近く、生き残った少年の「一人一人の人」への言葉も、本来は無意識にも意識的にも全体主義へと突っ走っている現代日本への痛烈なメッセージのはずなのに、凡庸にしか響かない。意味はわかる。よくわかります。と思うだけで。

わたしは、この映画の<物語>と<世界>を生きられなかった。
教科書のように読むことしか、できなかったのだった。

なぜそうなってしまったのか。
理由は、おそらく脚本にある。森監督は、初めて他人の脚本で長尺の劇映画を撮った。これまでのドキュメンタリ作品は、どこまでも森達也自身の視点であり主観から構築されていた。
しかし、この度は、荒井晴彦、井上淳一、佐伯俊道 という3人の男性が共同で脚本を担当している。各氏の経歴など、パンフレットにも色々書いてあるので興味ある方は、読んでみたら良いと思います。

 ここから先はわたしの単なる想像、根拠なき妄想に過ぎません。エビデンスとやらはありません。ご了承ください。

 森さんは、劇映画界の先輩(井上氏は年齢は下だが経歴的にはベテランの範疇になる)たちに囲まれて、所詮映画界は、昔ながらの封建遺制、圧倒的男社会、ホモソーシャルな関係性の中で、あちらを立てて、こちらを立てて場面場面で角が立たないように割り振ってってやってたんじゃなかろうか。なんかキャメラは気がなく弱々しいし…。
 
 なぜか映画の前半をほとんど占める、朝鮮から帰ってきた夫婦の欲求不満なすれ違いと葛藤のエロい関係。森監督は、本当に、この設定を必要としたのか? 群馬の田舎の閉鎖的な農村、無知蒙昧な村民野郎と、虐げられてもたくましく、強く、それでもなお男らを愛し、庇護する女たち。本当にこんな風に、彼ら彼女らを描きたかったのか?

被差別部落から行商に来て、殺されてしまう瑛太くんはとっても良かったが彼らを、本当にあんな風に「民主的な集団」として描き出したかったのか?

千葉の新聞社に勤める若い女性記者。
「新聞とは真実を伝えるものではないのですか!?」
「政府の言うなりになるのが新聞なのですか!?」

震災後、目の前で「鮮人の女の子」が「わたしの名前は、キム・ソンリョ」と言い放ち、惨殺される姿を見ながら一人ですっくと立ち、編集長に意見する女性記者。本当に、そんな『新聞記者』みたいな「自立した女性記者」を描きたかったのか?(林芙美子ですら従軍記者として戦意高揚の記事を書きまくっていたのに)

そうだったのかもしれないし。そうでなかったのかもしれない。
結果は映画にしかないのだけれども。

大きな暴力の前で、わたしたちは、無力だ。
強い力の前で、弱い者は簡単に、潰される。だから人は暴力に屈し、暴力の側につく。あまりにもどんなに理不尽でも…。

映画を見てる最中、わたしは何度も思った。
見たことあるよなーこういうシーン。なんだっけ?『死の棘』とか?
昔の日活映画とか東映映画とか?田中裕子が出てくる映画とか?
ここで男が覆いかぶさりまーす。
でも強引ではありません。必ず同意を描く。
出来るだけ女性の方から求めまーす。
下着を脱がしますーが、自分から脱ぎまーすになってるのは、今風なのか?
それとも昔風なのか?

くだらない。まじでくそだろがい。
こんな風にしか撮れないのかい。悔しくて涙が出そう。

わたしは観たかった。
森達也という一人の弱い男が、圧倒的な暴力の前で、ただ殺されるのを待つしかない人の無力と、殺す側の無慈悲を。その鏡に映る、残酷を。
抗えない、人間の一つの真実として、拾い出す。
「暴力」それ自体を。何かと問う。
ヒリヒリと目の前に取り出してくれる様を。

そして、いかにしてわたしたちは、意図せずも噴出してしまうだろう自らの本性に、抗う術を見つけようとできるのかを。

目に見えない、形にならないものを表現できる。
エンタメ映画ー虚構ーは、そのためにこそあるはずだ。

なんの答えも出せず、ぼんやりと映るラストシーン。
比喩としては、「どこにもいけない日本とわたしたちの現実を表す」のだろうけれども。社会的主張の強い「良い映画」の中で、最後の最後にわずかに漏れ出た森達也自身、その弱さの表れだとしたら。少しは納得できるんだけどな。
























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