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『my closet 』~名刺用マガジン~

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初めましての方はこちらから コンテスト入賞作品、おすすめ記事や投稿ピックアップに選ばれたものを収録 いくつか改稿してノベルデイズへも転載中
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記事一覧

手土産とただいまと

 ドアが開くと冬の冷たい風が車内に流れこみ、その空気を纏った人たちが乗り込んでくる。  度々足を運んでいた推しがいるこの街へ住みつこうと思ったのは、そこかしこでジングルベルが聞こえる頃だった。キラキラした装飾のなかを歩いていると少し疲れて、駅前からバスに乗り、大里というバス停の近くにあるカフェへ向かっていた。  ショッピングセンターに出ていた巨大なツリーの横に不釣り合いなほど達筆な筆文字で書かれた「紅茶専門店」という幟が気になり行ってみようと思ったのは、この街をもっと知りたい

冬をキライにはなりきれない

どんより曇り空から とめどもなく降りしきる 大きな大きな白い粒 コートに貼りついた雪は 六花と言われる結晶が はっきりと見えるほど こんなお天気でも 公園の斜面を滑る人たち 氷点下ゆえの粉雪を 味方につける遠い存在 私といえば 雪の斜面にはしばらくご無沙汰 眺めるだけで なんの感情もなく通りすぎる 車にしても徒歩にしても 雪道は緊張を伴うし 帰宅すると 自宅前には よけられるためだけに降る 白く重たく 気が滅入る原因の品、雪 どうしてこんなに降るのだろう 雪と仲良く

私の中の「書く」。そして今サイトを断捨離してnoteを残す。

少しずつプロフィールに載せていることを書いていこうと思っている。 (プロフィール欄に詳細あります) 今回は「書く」 ※  ※  ※ 小学4.5年の時に日記をつけ始めた。親から日記帳と書かれた単行本のような分厚いノートをもらったのがきっかけだ。 それにその日の出来事を普通に書いていた。 ただ、普通に。 でもそれが、毎日何か書く、という習慣をつけたことは確かだと思う。 中学生になり日記はやめてしまったけれど、代わりに詩を書くようになっていた。 まだそんな長い文章は書けなく

「ナニタベル?」

初めての街へ降り立つ。駅舎を出ると桜が満開だった。引越していった友との待ち合わせ。キョロキョロと見まわすが見知った顔がない。と、連絡が入る。 「ごめん。5分くらい遅れる」 私もすぐに返信。 「了解」 するとまたすぐにスマホが振動する。「なに食べる?」 そんなの、会ってからでもいいのに。 でも、そんな人だ。ずっと前から。 私が待っている間、時間をもてあまさないように気を使っているに違いない。そんな彼女の想いが「ナニタベル?」に詰まっている気がして、たった5文字が素敵に私の心に

ふるさとにて

1年ぶりに訪れたのに、畑にいた婆ちゃんは私を見るなり「ああ助かった、ちょっと手伝ってやー」と容赦ない。 6時間もの運転の疲れをとる間もなく私は畑へ入る。 離農したあとの一画とはいえ家庭菜園と呼ぶには広大だ。そして、ここの野菜は皆でかい。 カンカン照りで汗だくだく。ああ早く座ってお茶でも飲みたい。 婆ちゃんは猛然ときゅうり、なす、ピーマンと売れるほどの野菜を採っていく。私も負けまいと手を動かしながら、畑の中、大きな声で近況を伝え合う。せわしさと穏やかさが共存する時間。

水曜の朝、揺れる茶葉を眺め

お湯がポコポコ沸いている。 コイン型の泡が浮かんではプツっと消えるのを眺めながら、そばに立つ。 頃合いをみて、ふたつのティーポットへ、そしてカップへと、お湯を注ぎ温めておく。 美味しい紅茶をいただくための ひとてま。 ティーメジャーで茶葉を一杯。 それをめがけ、熱湯が勢いよくティーポットへと飛び込んでいく。茶葉が、待ってましたと湯へ絡まり、葉を広げながら上へ下へとダンスを始める。 砂時計をひっくり返す。 待つ時間は何もしない。 黙って茶葉がジャンピングしているのを見守

たまに、ミシン

プロフィールに載せていることを少しずつ書いていこうと思っている。(詳細プロフィール更新中) 今回は「たまにミシン」について。 ※ 長女を出産する数か月前に退職し、数年間専業主婦だった時代がある。 その時に古くて年季の入ったミシンを実家から持ってきた。 そもそも母は一切裁縫をしない。ミシンどころか、裾上げやボタン付けすらしない。針と糸は持たない主義の人だった。 姉や私はまだしも、当時家庭科を習うことのなかった弟ですら、とれたボタンは自分なりに付けていた。なので何のためにミ

それでも私は放課後に2つの卓球台を出した

中学時代は卓球部だった。 卓球部というと暗いというレッテルを貼られていた昭和の時代。 選ぶスポーツで性格を表されるっておかしいでしょ、と思いながらも、地味なスポーツではあると感じていた。 近年の卓球にスポットが当たるようになった功績はここで書いたので割愛するとして。 入学当初はバスケ部に入ろうと思っていた私が、やったこともない卓球部に入ったのは、近所に住む先輩からの強い勧誘があったから。 男子卓球部は大所帯だったが女子卓球部は部員が一桁で、新入生が入らないと廃部だと懇願さ

子どもが泣き止まない・親の不安やイライラはどのように伝わるのか

余計なお世話と言われるかもしれないが、小児看護師の視点から今日は書きたいと思う。 ※ 「お母さん、怒らないでー」「怒ってないから」 「お母さん、怖いよー」「いいから早く歩いてよ」 昨日、帰宅途中で赤ちゃんを抱っこしているお母さんの傍らで泣いている幼稚園くらいの女の子を見かけた。 会話は、その時通りすがりで聞こえてきたものだ。 店や乗り物など、いろんな場所でよく見かける状況だと思う。 一方で、小児外来では「赤ちゃんが泣き止まないんです」どこか痛いのではないだろうか等と

人生の舵を切った あの日あの数時間の出会い

看護師が第1志望ではなかった。 たとえ人生を決める決断をするときでも、何かに魅せられて心にストンと入りこんでしまえば考える時間なんて必要ないのかもしれない。 高校3年生も終盤にさしかかり、今まで通りの進路でいくと決め、家庭の事情で私立も道外も視野になかった私は、国立大学ひとつしか受験校を提出していなかった。それを担任が心配し、滑り止め、もしくは場慣れのためでもいいから何校か受けたらどうだと言ってきた。 しかし国公立の志望学部が当時の北海道にはそこしかなかったのだ。志望でも

毎月少しのこだわりを

社会人一年生となる春、3年間過ごした看護学生寮から引っ越しをした。ひとりをこよなく愛するタイプではあるが、4人部屋の寮生活は全く窮屈さを感じない快適な場所だった。 それでもやはり念願の初一人暮らしに浮き足立つ私。 インテリアが大好きなので、何が嬉しいって、これで思い通りの部屋が作れるってことだ。 白と茅色(かやいろ)をベースにしたナチュラルカントリーにしたいと意気込む。 実家暮らしの頃も個室だったが、まだ親が買ったものが断然多かった。それでもしょっちゅう模様替えをしたりお年

郷愁に佇んで

「ふるさと」と云われて思い浮かぶ町がある。 生まれ育った場所でもなく、住んだこともない場所。 それは夏になると不定期で数日間だけ訪れていた、道北の海沿いにある小さな町。 何度かnoteでも触れている母の田舎について書こうと思う。 祖父は栃木の人だったそうだ。終戦とともに樺太からの引き上げ船に乗り北海道の北、稚内へと降り立った。 妻(祖母)と幼子3人を連れて。 少し南下したが内地(本州)へ戻るのは困難と判断し、そこへ永住する覚悟を決める。 祖父母は、私が小さい頃は酪農を営

『DEAR GIRL』~娘への想いを歌に~

私が作詞してシンガーソングライターの莉央さんが作曲した曲、 先日、サビの部分だけお伝えしていた『DEAR GIRL』が出来ました。 娘が成長する過程を母の目線で綴ったものです。 すっと頭に入ってきて残る曲なので、聞いたあとしばらく、このフレーズを繰り返し歌ってました。ふと口ずさんでいるのが、自分の歌詞であることに気付いて衝撃を受けるという、なんという幸せな初体験 と先日も書いたように、 自分の綴った言葉が歌となり作品となったことに、深く感動。 私の書いた詩に目をとめてく

『薫風』

ひとりぼっちの隅っこを 風がふわーっと揺らしてゆく あっという間に帽子が空へと舞う 流れていく雲の隙間に 昼間の白い月が見えていたあの日 私はまだほんの少女だった 帽子はゆっくり樫の木に座る お気に入りのワンピースは 黄色の花びらがひらひら動くたびに ふくらはぎがくすぐったい 泣いていたのか 笑っていたのか みんなと遊ぶ輪から離れて こちらへ走ってくる見知らぬお兄ちゃん 「持ってて」と透明なラムネの瓶を私に渡して 樫の木へすいすいと登っていく 見上げると 揺れ