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Chapter2 ありふれた親切とその理由


 早速、「遊び」特集Chapter2ですが、最近は本当に何をするのにも理由がなければいけないし、意味を求められているように思う。

 サッカーのことだって、純粋にプレーすることを楽しんでいたのはとうの昔、今では何のため、誰のためにあるのか、その存在意義すらも問われてしまう。

 就活生には耳にタコだろうけど、何でも「言語化」するこの流れは、たしかに行く先の未来が不確定要素にまみれていて、今一度自分たちの指針を明確にしなければいけないという点において必要なことなのだろう。

 しかし、それは逆説的に言えば、理由がなければ何もできないわけで、意味がわからないものには頭も回らない。思考停止、無感覚、無感情。

 遊びには、かねてより理由なんてものは二の次で、やはり言葉にできない感情が存分に含まれている。そういった様々な時代や文化や価値観みたいなものを共有することで僕たちは繋がっている。それいいね!て素直に言えたら、次にはすぐにプレーだ。

 まあ、これ自体こうして文章で書き記すことで何よりの言語化を図っているのだから、全くどうしようもないのだが。


 フットボールの夢、はじまります。

ーー

 ソフトケース、ハードケース、うつ伏せ、推定無罪。味わい深い、ミスディレクション、ツナ缶、腕時計、使える、話せる、ノルマクリア、空の青、網、防カビ、HB鉛筆、目が回る、目が回る。ぶんぶん。

 参ったよな。並んだ言葉に意味はない。これがあれで、それがそれで、ある理由はどこにもない。ぶんぶん。

 意味もない、理由もないことなんて実にありふれている。これによる1つの障害は、「不親切」だと僕は思う。なぜなら、普通の人々は誰しも親しい仲ではないからだ。縁もない人には、親切を働かせる理由がない。ぶんぶん。

 ぶんぶん、と言うのは一種のしゃっくりのような生理現象に近く、これ自体にも意味は全く無いので、どうか気にしないでいただきたい。もういい加減、これを書くのはやめにしようと思う。ぶんぶん。

 話を戻そう。

 例えば、あなたに大切な弟がいたとする。もし、弟が風邪を引いていたら、あなたは薬を買ってくるかもしれないし、毛布をかけて暖めてやるかもしれない。別にそれくらいのことをするのに、あなたは苦だとも思わないだろうし、見返りも求めないだろう。もし理由があるとすれば、家族だから。それだけで十分だ。

 しかし、道行く名前も知らない人にわざわざ話しかけて、「やあ、元気かい?」なんてことは聞かない。もしそうしたとしても、向こうはあなたを不審者だと思って、できれば関わり合いにはなりたくないと思うかもしれない。

 おそらく、多くの人は誰に対しても親切でありたいと願うし、そうあるよう心がけていることだろう。しかし同時に、多くは見落としてしまっているし、たとえ不特定多数に向けた親切であったとしてもそれは伝わらない。人は他人とそれだけ繋がりがない。ぶんぶん。

 それでは、人との繋がりにはとても特別な意味や理由が存在するのだろうか。ちょうど、兄弟、親、家族が血で繋がっているように。


 小学校の頃、僕はサッカーをすることしか頭になくて、朝は学校の門が開く前に走って行って校庭のゴールをすぐに確保し、学校から帰ってくると近くの公園で遊んでいる年上のお兄ちゃんたちに混ぜてもらっていた。いつも汗をかくので、上はサッカーチームのユニフォームに下は半ズボンだった。

 ベトナム、ラオス、タイの街中を歩いていても、当時の僕のようにユニフォームを普段着にしている人をたくさん見かけた。

 ここで面白いのは、彼らがそのクラブチームが好きだからとかサッカーユニフォームがお洒落だからということで着ているわけではないというのだ。ただ、暑い日が続く東南アジアの気候の中では、通気性も良く、汗を吸収するユニフォームが一番快適だそうだ。それ以上に理由はない。

 それは、80年代のニューヨークで黒人がプーマのスエードを履いていたのに似ている。ストリートで踊りやすく走りやすいからだ。そして、そのスニーカーはカルチャーと共に次第に世界に広がる。今では、プーマのスエードというだけで、そこには特別な意味がたっぷり含まれている。しかもそれは、企業がどんな意図をしていたかとか戦略は全く関係なく、遊びの中で生まれてきたものだ。DO THE RIGHT THING!!

 

 人やモノにくっつく意味とか理由とかなんていうのは、その程度のものなのである。とにかく、僕たちにはその理由が必要で、そしてそれは実際のところ何でもいいというわけだ。

 こうして繋がった人々は、ただの他人ではなくなる。あいつはオレと同じプーマを履いてるぜ!というのは、もしかしたら重い荷物を運ぶのを手伝ってあげるくらいの、ぶんぶん、理由になるかもしれない。 

 

 遊びには意味がない。僕はサッカーをするのに楽しい以上の理由を求めていない。もちろん、それは今となっては後づけで色んなものがくっついてはきたが。

 遊ぶことには報酬も他人評価も関係なく、僕もあなたももっと純粋にそれ自体を楽しむことができるだろう。だからこそ、意味も理由も偶然が多い。

 この偶然性は、英語では「Chance」とも言うように、絶好の機会なのだと言えよう。なぜなら、あなたは何の企みも意図もなしに、人との繋がりの中で、ありふれた親切に出会うからだ。

 街の中に、遊びがあるというのはそういうことである。サッカーはボール1つだから、そうやって遊びの中で人々を繋げてきた。それはむしろ、スタジアムやピッチの外で生まれるかもしれない。

 ここでサッカーやっちゃだめ!あれもこれも禁止!なんて言ってたら、僕たちはどこで遊べばいい?

 他人は他人のままで、見て見ぬふり、勝手にしやがれだ。

 目が回る、目が回る。

 ぶんぶん。


ーー

 わけわからないと思ったら、順調、順調。

 理解しようと必死に頭回すのもいいし、ただ行間に差し込まれているリズムだとか匂いみたいなものを感じてもらえるだけでいい。

 次回は、天才と呼ばれる人たちと遊びの関係について書いていきます。どんどん置いていきますので、ついてきてください。


 前回の、遊び特集Chapter1はここから見れます。



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