見出し画像

ワタシノ想フ Eros and Ecstasy ~ 2つの美術書を比較しながら

エロスと性愛的欲望は異なるもの

この世を生きていくということには、どうしても避けることのできない「ある問題」が解決されることなくあり続けていますが、自分独りの考えで解決することではないので、普段はそのことをあまり意識しないようにしているかもしれません。

その問題とは、広くは「人間関係」であり、具体的には「異性や同性との関係」ということになります。

私は男性である、ということだけが理由にはならないのですが、私にとってのエロスの対象は「女性的なるもの」なのです。もちろん、実生活上の事というわけではなく、創作活動におけるモチーフとしての話です。

では、そのエロスとは何なのでしょう?

さっそくネット検索すると、主に以下のような3点の定義があります。

・西洋史の定義として:
エロスとは、ギリシャ神話における愛と美の神であるエロース( Eros )に由来する言葉で、性的な愛や情熱、魅力を指す概念

・次に:
特定の人に対する、性愛としての愛、愛欲

・さらには:
プラトン哲学で、真善美へのあこがれという純化された衝動


私としては、古代ギリシャ哲学者プラトンのイデア論やキリスト教の異端学派グノーシス主義などからおそらく派生している、以下のような捉え方に心惹かれます;

「元々一つだったのに二つに切り離された魂が、再び合体して一つになる」

ふたつの魂が合体して本来の姿に回帰すること、これこそがエロスなるものの究極の本質ではないか、と私は考えているのです。

ですから「エロス」とは、単なる性愛的な欲望や肉体的な欲情だけで世間一般では語られがちな「エロ」とは大きく異なるべきものだと思います。これには、フロイト心理学の概念であるエロス(生の本能)とタナトス(死の本能)との関連もきっとあるはずです。

注記:
ただし、LGBTQIA+における「エロス」については全く考察できていないことを申し添えておきます。


以上のことを前提とした上で、本題へ進みます。

2冊の「ヌード美術書」の比較

さて、手元に2つある美術書、それぞれの長所・短所を比較してみます、

1冊目:
ヌードの美術史~身体とエロスのアートの歴史、超整理
(美術手帖 2012年 2,200円)


2冊目:
禁断の西洋官能美術史~美術で読み解く性愛の歴史
(宝島社 2013年 1,260円)



それぞれの書の全体的な印象


美術手帖「ヌードの美術史」は;

歴史編・観賞編・分析編とテーマを大きく分けて、20世紀以降の現代アートまで含んだ広範囲で多面的な切り口でアート論を展開している点はとても
刺激的である。
ただ、執筆者7人の中には、言語表現上の「思い入れ」が強すぎて単なる感情論に堕している人や、確立した美術史をなぞっているだけなのに自分独自の解釈を披露しているかのように雄弁な人もいる( 要するに「頭だけ」の思考で終わっている )。

一方の宝島社「禁断の西洋官能美術史」は;

主に19世紀までの絵画中心で、ファム・ファタル(運命の女)、キス、夫婦の寝室、描かれた性交場面、不倫と娼婦、同性愛と近親愛など、週刊誌的ネタ満載である。
3人の執筆者の記事そのものは平易な文体なので読みやすいが、時代背景の説明中心でアート論はないので、あまり示唆を受ける内容はない。ただ、このような編集のほうが実際の生活の実感に近いと思われるが、この本のタイトルだと書店ではちょっと買いづらい。

蛇足1:
ちなみに私の場合、ジュンク堂にて他の本の下に重ねて購入しました・・・福岡ジュンク堂は各階にレジがなく、一階の集中レジまでずっと本を持って降りて行かねばならないので、まわりの目を何となく気にしてしまいます。

それぞれに掲載された絵や写真

美術手帖「ヌードの・・」は、江戸時代の春画や現在活躍中の写真家まで幅広い収録数だが、本自体が小さめなので見えにくい図版もある。

それに比べ宝島社「禁断の・・」は、収録図版数ではやや見劣りするが本は大判なので見やすいし、こちらのほうに好みの図版が多い。


共通して掲載された絵に対するコメントの違い


1番目の例:
アレクサンドル・カバネル作「ヴィーナスの誕生」1863年

カバネル作    ヴィーナスの誕生


宝島社「禁断の・・」ではこの絵の画面上の女神が「大胆なポーズと流し目が艶めかしい」とあり、別ページにはその目の部分の拡大もちゃんと載せられている。
一方の美術手帖「ヌードの・・」では、女性執筆者によって、“ 通俗化していく新古典主義の典型作品 ”との批判があり、「たっぷりの媚を含んだ眼差し、腰のくびれを強調する・・マネより卑猥。天使の目つきまでエロい。」とかなり感情的なコメントが寄せられている。ただし、小さな画像しか載っていないので読者はその点を確かめることはできない。

書き手のつぶやき:
( 率直な話、一般的に男性であるならば、絵の中の女性の描き方に対してここまで執拗で手厳しい批評は思いつかないのでは・・・)


2番目の例:
ジャン・レオン・ジェローム作:「芸術家とモデル」あるいは
「ピュグマリオンⅡ」1890年

ジェローム作 「芸術家とモデル」


美術手帖「ヌードの・・」の解説では「モデルはあくまでモデル・・・芸術とは現実と理想の相剋から生じるもの」とあり、宝島社「禁断の・・」では
「理想の女性像を彫刻に」とあるだけで、美術手帖のほうが本質的な問いかけがなされている。

3番目の例:
ハーバート・ドレイパー作:「ユリシーズとセイレーン」1909年

ドレイパー作 
「ユリシーズとセイレーン」


宝島社「禁断の・・」では、ラファエル前派の耽美的な作品のひとつとして紹介されているだけ。一方、美術手帖「ヌードの‥」では、「ヴィクトリア朝後期の代表作家・・水と女という魔性の主題に優れた描写力を発揮・・濡れた身体にまとわりつく海藻がぬらりと妖しく光る」と、時代と作家の特性をしっかり論じている。


それぞれの本のねらい

宝島社「禁断の‥」のねらいは、表紙にはっきり記されいている通り、「愛欲に溺れる奔放な神々、タブーに触れる官能描写・・・美術で読み解く性愛の歴史」である。つまり、さまざまな「歴史上の性愛」を説明する手段として西洋の美術作品を引用している。

一方の美術手帖「ヌードの‥」は、江戸時代以降の日本美術や、20世紀以降の現代アートの動向にも触れつつ、西洋の歴史の中で生み出されてきたヌード美術作品を素材にして、身体とエロスをめぐる美術の歴史をたどりながら、執筆者たちそれぞれの強い主張を織り込んだ独自の視点での本作りが
ねらいだろう。

従って、それぞれの本がターゲットとしている読者層はあからさまに違いますが、私の場合は両方に興味を持ちました。


エロスとエクスタシー 

Eros and Ecstasy


実は、宝島社「禁断の‥」の巻頭に、とても気になる記述があったのです。

エクスタシー  ECSTASY と題されたページに、グイド・カニャッチ(1601~1663)というイタリア画家の作品「マクダラのマリア」が紹介されており、

カニャッチ作 「マクダラのマリア」


次のような説明が添えられていたのです;

聖女マグダラのマリアは、「悔い改めた娼婦」というイメージを反映し、美しく妖艶な姿で描かれた。信仰の高まりは、一種のトランス状態を引き起こす。忘我の境地での信仰対象との一体感・合一感を得るともいえるこの「法悦」には、性的な絶頂と同じ「エクスタシー」の語を用いる。


ほんとかなと思い、英和辞書を引くと次のように書いてありました;

Ecstasy  :  恍惚状態、宗教的な法悦、詩人・予言者などの忘我    

そういえば、キリスト教を題材にした西洋絵画には、これと似た表情を描いた絵がかなりあるようです。たとえば次のような絵です;

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571- 1610)作:
「マグダラのマリアの法悦」

カラヴァッジョ作 
「マグダラのマリアの法悦」


あるいは、ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル(1836?1911)作:
「洞窟のマグダラのマリア」

ルフェーブル作 
「洞窟のマグダラのマリア」

この絵に至っては、宗教性などよりも、女性の肉体を描くことが目的となっているのは明らかです。


私の想うエクスタシー

私は、エロスに特別の意味を込め、そのことが自分の創作にも何らかの形で反映しているのではとずっと思って来ました。ですが、実際に私が今までに
作ってきた作品の中には、エロスというより「エクスタシー」を何らかの形で描こうとした作品のほうが多かったことに、上記の本によりあらためて気づかされました。つまり、「宗教的な法悦」・「詩人などの忘我」の視覚化を試みた作品だったのです。

以下に、そのような「エクスタシー」をまさに描かんとした、2015年に制作していた作品を紹介します;

あなたはどこにでもいる  だからどこにもいない 
you are anywhere,  and that is why you are  nowhere.
created  by  Rilusky E   2015


私の想うエロス

私の考える「エロス」を何とか表現しようと試みた作品も少ないながら過去に何点か作りました。次に紹介する8年前の作品は「女性の肉体美が醸し出すエロティシズム」をより強調した形で創ったのではないかと思います。

そもそも、この作品の発想の根本には、前述した、ハーバート・ドレイパー作「ユリシーズとセイレーン」や、次に合わせて紹介するJ・W・ウォーターハウス作「ヒュラスとニンフたち」における、女性の肉体美のイメージも心の奥に強く残っていたのではないかと思われます。

ウォーターハウス作 
「ヒュラスとニンフたち」


そして次が、その影響下で創った私の作品;

「幻は密かに公園に宿る」
a phantom secretly  lurks  in the  park.
created   by  Rilusky E    2015


最後に、まとめとして


男性による「女性の裸体」

以上の絵のように、古今東西、男性というものは、画家に限らず、その独自の視点と感性から「女性なるもの」を想い描き、絵や言葉や音楽あるいは映像にしてきたのではないでしょうか。言い換えれば、その男性独自のエロスとエクスタシーへの想いをいろんな形で表現してきたのでしょう。

そして実は、隠れた真相は、そういう男性の<勝手な>想い入れに、女性側はあまり関心を示さないし興味もないようだ、といことです。

・・違う視点で言い換えると、一般的な男性が見て生理的に興奮するような「裸体女性像」を、同性の女性も見て生理的に興奮してしまうなら、「性的な対象として見る・見られる、あるい美的な対象として描く・描かれるという相互の関係」が成立しにくくなるのではないか、ということです。

しかしです、・・
まさに、そうであるからこそ、男性側による一方的な「女性ヌードの歴史」が飽きることなく連綿と今日も続いてきているのではないかと、私は思うのですが・・・。

女性による「女性の裸体」

では、女性側が描く「女性の裸体」はどうなっているのでしょうか、興味あるところですので、ネットでいろいろ調べてみました。すると、ある女性画家の描いた作品と記事が目に入りました;

ベッカー作 
「六回目の結婚記念日の自画像」

以下は、この作品についての記事

1907年に31歳の若さで亡くなったドイツ人女性画家  パウラ・モーダーゾーン=ベッカー の描いた作品「六回目の結婚記念日の自画像」、ヨーロッパ美術史で女性の画家がはじめて描いた裸の自画像とされている。


今日の視線からすると、絵でも写真でも映画でも当たり前に目にする「妊婦の姿」ということになりますが、西洋美術史の観点では違う捉え方ということです。強いて言うならば、この絵の「素っ気ないほどの日常感」には、男性が妄想とともに描き込みがちな「女性の官能や色気」というものは全く感じられません。
逆に、その点にこそ、20世紀初頭にこれを描いた女性画家の「新しい視点」があった、ということでしょうか・・、? 、・・。

補足1:
この note では、少ないながらも女性アーティスト( 主に水彩やイラスト )や美術ヌードモデルの方々の記事が偶然に目に入って読む機会があります。

たとえば、美術のデッサンで、ある女性モデルが自らのカラダを「見られる裸体」として見る側にさらすことの「無私と献身の至福感」と書いてあるのを読むと、そこにはもう、ただの裸体のエロスやらエクスタシーを超えた、慈愛と寛容に満ちあふれつつ、どこか超俗的で高邁な精神の極みへ近づいた存在のように感じてしまいます。

再び注記:
以上の記事では、LGBTQIA+における「裸体の描き方」については全く探求できていないことを申し添えておかねばなりません。