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存在の粉砕か、至高の法悦か ~ アート思考は一時休止して

現代アートの元祖たち、現代美術展の感想、キャプションは学習指導か、などに触れながら自分のアート観を伝えます


現代アートの元祖たち ~ デュシャン・ケージ、そして・・


こと現代美術に限定しての記事を閲覧すると(美術品売買業者のHPも含め)、マルセル・デュシャンの1917年発表の作品「」は元祖・現代アートとして位置づけている内容が多いです。
デュシャンは古典絵画から20世紀初頭まで連綿と続く西洋絵画の伝統を、目で見て愉しむだけの「網膜的絵画」だと一刀両断し、その代わりに、脳に刺激を与えて「思考の快楽をもたらす新しいアート観」を提示するべく、日常品としての便器にサインをしただけのものを「泉」と名付け、作品として世に問いました。

要するに、「これは何なの、何を描いたの?」という疑問を発することからすでに「現代アートの目指すアート思考」が始まっている、ということでしょう。この傾向は、60年代のコンセプチュアル・アートミニマル・アートとして現代美術史の中に確固とした地位を獲得し、この21世紀まで受け継がれてきていると思います。

音楽の分野で現代音楽といえば、私の知る限りでは、ジョン・ケージの作品「「4分33秒」でしょう。ご存じのように、舞台のピアノ前に座ったピアニストは弾く格好をしたまま4分33秒のあいだずっと何も弾かないという演奏スタイルを貫きます。「何なんだ、これは?」とチケット代を返せと怒られるような演奏(?)ですが、従来の西洋音楽とは全く違う「新しい音楽のコンセプト」であると、その後、高く評価されて彼の名は音楽史に刻まれます。

そして・・演劇の分野で、少なくとも1980年代末までは前衛演劇という区分けがあり、たとえば前衛演劇の奇才でもあった寺山修司の残影も残り続けていたように思いますが、その後は、ここニッポンでは演劇のエンターテインメント化が急速に進んでいったと思われます。

そんな中、舞台芸術家として独自の世界を築き演劇の概念を変えたと言われる一人に、ロバート・ウィルソンという演出・劇作家がいます。私は見たことはありませんが、いろんな観劇記事を読むと、たとえば、代表作の「浜辺のアインシュタイン」、5時間の上演時間のあいだ、音楽と照明だけの演出で、役者は机から棚までわずか1mの距離をゆっくりスローモーションで何もしゃべらず動くだけ、といった演出もあったとのこと。

これは、80年代末まで活躍された劇作家・太田省吾氏の転形劇場での役者の動きと近似しているようですが、太田氏の場合は、長い時間をかけて「インスタントラーメンを作る」「蛇口の水を飲む」だけなど、何かもっと「原初的な生命体の妖しくも美しい蠢き」のような印象がありました。


以上3つのアート=芸術作品に共通するのは、やはり、「一体これは何なの?」でしょう。ただ、この3つのアート作品は、今や、歴史に残っているアートであり、時代を変えた名作扱いというだけでなく、他の芸術家がこれと同じことをやっても意味がなく、それを超えた作品の創造もできないくらいの、唯一無比の元祖・現代アートになってしまっていると思います。

2023年現在のニッポンのアートは

私が美術館で初めて個展を開いた2011年から11年経過した現在、日本も世界も大きく変化していると感じます。
中でも革新的変化だと私が感じるのは、、新しい情報伝達メディア: スマートフォンの普及とアプリ利用による、国の行政も巻き込んだIT(情報技術)産業の台頭であり、それに伴う社会構造の変化です。このコロナ禍にも見事な特性を発揮しています。

パソコンだけでなくスマホによる商品注文と発送、ポイントつきの会員登録そして支払いまで、スマホさえあれば便利と特典を手に入れて、テレビ・ステレオ・カメラなど無くても、全世界を対象に片手に持った小さな液晶画面を 1 click で見て聴いて撮って楽しめます。もちろん、今もこうして利用している note という きわめて有益なSNSも私たちの日々の生活を大きく変化させてくれるのではと期待されます。

アートの世界も、現実社会のそのような変化の影響を受けています。たとえば、行政や企業の取り組みとして、SDGsや LGBTQ にも対応したような
イノべーションの企画や商品開発が行われる際に、「アート思考」と名付けられたビジネス・コンサルティングが多く散見され、アートは戦略的に活用されている印象です。

スポーツ、エンタメ、グルメなどの業界にでも「これは、もうアートですよ!」と、アートというコトバが飛び交っています。

アート業界はといえば、この note 記事を閲覧してもわかりますが、SNSの発信力を活用したさまざまな取り組みが個人レベルでも行われているのは、10年前とは明らかに違う傾向です。美術館やギャラリーでも、「現代アート」を集客と啓蒙のために活用したような企画が目立ちます。


コロナ禍以前に見た現代美術展について

現代美術=contemporary art」の大規模展としては、横浜・福岡トリエンナーレ金沢21世紀美術館の企画展などを見てきましたが、今回は、コロナ禍よりずっと前に見た展覧会について、当時の率直な感想を述べます:

国立新美術館「A・グルスキー展」; 巨大な画像 イメージの限界

2013年7月に、東京の国立新美術館へと「アンドレアス・グルスキー展」を見に行きました。宣伝チラシにはこう書かれています・・・

「これは写真か? 世界が認めたアーティスト、日本初の個展」。

主催者として、当美術館、読売新聞社、TBS、TOKYO FM と有名企業が名を連ねています。これで興行的成功はほぼ約束されたようなものでしょう。

会場内と彼の作品の印象

会場に入ると、平日の昼間なのに、たくさんのお客さんでした。おそらく、隣で開催中の二科展のお客さんがうまくこちらにも流れてきていることも一因でしょう、でないと、日本で一般には無名に近いグルスキー(当然、 私も知りませんでした )をこんなに人が進んで見に来るとは思えないのですが・・。とにかくこの作家の「絵」はあまりに巨大で、チラシにもなった代表作「カミオカンデ」など、視覚のみならず体感としてこちらを圧倒する巨大さです・・・制作費・人件費等おそらく数千万円では。

この作家の特徴は、日常の光景をいろんな角度から写真に収め、それらを画像処理して限りなく反復増幅あるいは歪曲消去する手法なのではないかと
私は推測します。複数の画像の重なり部分は見事に合成処理されているので、まるで現実にこのような光景が存在するような錯覚に陥ります。会場に来られていたご婦人方が「まあ、よくこんな場所を撮れたわね」と感心したように話されているのが聞こえました。

one of  Andreas Gursky ' works

グルスキーの問題点:イメージの呪縛力ZERO

この作家の作品の多くにシニカルな視点を感じるので、現代社会のさまざまな否定的な断面を揶揄あるいは隠喩として描くことがコンセプトのように思えます。ですがまさにそれ故に、会場の圧倒的に巨大なイメージ図にしばし我を忘れて見つめてしまうのですが、会場を出ると、そのイメージの呪縛力は余韻も残さず脳内から跡形もなく消えてしまっています。

なぜでしょうか?

これは私個人の勝手な感想ですが、この作家の「絵」のねらいは、事実の無限な積み重ねによって生じた「夢なき幻影」を描くことであり、魂の浄化や精神の開放のような「人間の希求」は当然ながら描き込まれていないからだと思います。
おそらくグルスキーの視線は、自我の夢想や人間のヴィジョンなどできるだけ排して、この世の表層的なイメージを冷静に対象として客体化することだけに徹しているからではないでしょうか。

それにしても一部の現代美術家たちは一体いつまで、手垢にまみれたお馴染みのコンセプト:20世紀以来の現代社会の否定的様相をわかりやすい揶揄や隠喩で表し続けたいのでしょうか?「現代アート」という業界のお約束事のようにも思えたりするのですが、グルスキーさん、いかがでしょう?

東京オペラシティ アートギャラリー:「絵画の在りか」展


2014年9月、京王新線の初台駅を降りるとすぐにこの施設へたどり着けました。東京の巨大な複合施設の中に作られた美術館ギャラリーはどれも豪華な意匠を施された立派な外観と内装美が感じられます。この施設も、各駅停車でしかない小さなエリアに、忽然とカネをかけた豪華な文化施設が出現している、というのが、遠い地方都市に住んでいる人間の感想です。

そのような美術館を施設運営に取り込んだ事業団体は、アートを「文化という名の商品」としても取り扱っていることは明らかであり、そのこと自体に
何も批判されるべき要素は全くありません。ただ、昔から「おかしい」と思っていたことですが、この「絵画の在りか展」でもまた同じことを思ったのです;

キャプションは誰のためにあるのだろう?

この「絵画の在りか」展は、21世紀以降の現代アートにおいて、とくに「絵画=実際に手で道具を使って描かれている絵」に焦点を絞り、比較的若手の日本人作家たちの絵画作品を一望できるようにした企画展だったようで、とても新鮮でよい印象を持ちました。が、・・

展示されている作品のそばには、題名や解説を記した小さなパネルが貼ってあります。そのことには何の問題もないのですが、私が「おかしい」と思うのは、そこに記されている内容です。小さなパネルに日本語と英語でわざわざ解説が書かれていました。その内容は、作家の傾向や作品素材そして作品解釈と評価が誰かの手によって事細かに記してあるのです。

一体なぜここまで記す必要があるのだろう、展示採用された若手の作家たちはこのキャプションを快く思っているのだろうか、まるで生徒を高圧的に指導する教官のようなコメントを書いている執筆担当者にそんな資格があるのか・・・などなど、いぶかしく思いました。

懇切丁寧すぎる解説は学習指導になっていませんか?

そのいぶかしさとは、・・まず、作品を目の前にして一人黙って作品を見つめるべきなのですが、横に貼られてある解説パネルが詳細な解説と寸評を先んじるように記してしまっているので、鑑賞者は自分の考えを持つ前にそちらに誘導されてしまうのではないでしょうか、ということです。

とりわけ美術館のような大規模な展覧会の会場には、至る所にパネルが貼られ、作品に対する学術論文のような長い解説が記されていることが多いです。それは、需要があるからというより、来場者へ教育的示唆を行うのも職務のひとつなのであろう学芸員の方々の、プライドを賭けた仕事ぶりを披露する場になっている、という印象も少し感じます。

彼ら、作品のことを伝えたいという学芸員の真摯な情熱が「教えてあげます」という「学習指導」になっているのではありませんか、というのが私の印象です。

美術史だけではなく、人類の創造史 - the history of human creation に残ること


最初に、元祖・現代アートについて述べたのには意図があってのことです。正直、私は、デュシャンやケージに全く興味がありません。芸術史における彼らの革新性を論理的に理解しているだけです。彼らは、ある意味、芸術の極北まで突き進んでしまったひとたちです。では残された者たちは、その先、どこへ行けるのか、ということになってしまいます。

しかし実際には、彼ら亡き後も、ずっと揺るぎなく世界中で芸術作品=アートは生み出され続けています。ある意味、彼らよりはるかに面白く美しく心奪われ考えさせられる作品を創造する芸術家がたくさんいます( たとえば、映画監督のタルコフスキー、作曲家の武満徹、現代美術家のタレルなど )。彼らはいずれ、人類の創造史=the history of human creation という広範囲な体系の中で選りすぐられて残ってゆくのではと期待できます。

やはり私としては、人類未来の創造史に残るかもしれないアートを、いや、残らなくてもいいから、作る側と見る側が共感や理解を共有できるアートを創ろう、見ようで、歩んでいきたいです。

最後に ~ 存在を粉々に砕かれるか、至高の法悦をもたらされるか


古今東西あらゆる芸術=アートの中でも最高の経験を与えてくれる作品とは、自分というちっぽけな存在を粉々に砕かれるか、あるいは至高の法悦をもたらされるかで、全く新しい自分に脱皮させてくれる作品のことだと私は考えています。

そのような作品とは、ある時代だけの流行などとは無縁であり、「アート思考」「学習」などの論理的理解だけでは遠く及ばない、身体と精神と心すべてで「直感」するしかその真価がわからないものなのだと思います。

そして、表現者とはそのような作品を創造してこそ真の「アーティスト=芸術家」だ、というのが私の信念です。

大地は回転して空を覆す
The land revolved and overturns the sky
created  by   RiluskyE  2016