「正解」と「最適解」

今日は「正解」と「最適解」について書いていきたいと思います。現代社会において、教育の役割は単に知識を伝達することだけではなく、思考力、批判力、そして創造力を育むことにも重点を置かれています。この文脈において、「正解」と「最適解」の概念は、教育のアプローチと方法論において重要な役割を果たします。本章では、この二つの概念を深掘りし、それぞれが教育においてどのような意味を持ち、どのように実践されるべきかを探求します。


日本の教育が自分に合わないと感じていた幼少期

高校までの教育を日本で受け、大学教育をアメリカ(UCLA)で経験した私は、二つの異なる教育システムの中で育つという貴重な体験をしました。(小学生の頃には日本の教育システムが自分に合わないなと思っていました。)日本とアメリカの教育システムを直接比較することは難しいかもしれませんが、教育を受ける側として明確に感じたのは、「正解」と「最適解」を追求する教育方針の違いでした。

私は子供の時から歴史(特に日本史)が好きで学習要綱の範囲以上に自分で調べたり研究していました。しかし、テストではほとんどが4択などの○×問題で、記述も事実を正しく暗記できているかを試すような問題ばかりだった記憶で自分の頭を使って考えるというよりも、とにかく暗記したもの勝ちで、試験勉強は膨大な量の暗記の作業のようでした。

一方で、アメリカの大学で履修した「韓国ではどのようにしてプロテスタント(キリスト教の一派)が広まったか」という授業では、確か15個くらいの単語が用意されていてそのうち最低12個くらいの単語を使って、記述で説明する、といった論文形式の問題がありました。これらの単語はパッと見繋がりがわからないものですが、その流れや相関関係を理解していれば書けるもの(=そこに書かれていないが重要な出来事や単語を理解している必要がある)ような設計になっており、本当の意味で理解しているか、自分の思考力をフルに使っているかが試されるとても良い形式だと思いました。(初回のテストは撃沈しました。笑)
(余談ですが、あまりに今まで使っていた脳みその使い方、使う部分が違いすぎて脳の動きを体感できるレベルでした。笑)


「正解」を求めさせる教育

日本では「正解」を求めさせる教育が主流になっています。今現在の教育は以前よりは改善されているというものの、まだまだ必要なクオリティに届いていないのではないかというのが私の見解です。「正解」という概念を基にしたアプローチでは、知識の伝達と記憶が重視され、生徒は与えられた問題に対して一つの「正しい」答えを見つけることが求められます。歴史の年表を正確に覚える、数学の公式を適用して解を導き出すなど、知識の正確性と再現性が評価の基準となっています。

例 -日本)
・1192年に何が起きた? (A. 鎌倉幕府の誕生)

このように一問一答的なアプローチの利点は、基礎知識の確実な習得にあります。事実や公式を正しく記憶し、再現できる能力は、多くの学問分野において不可欠な基盤を提供します。しかし、この方法は学習者の批判的思考や問題解決能力の発展を必ずしも促進しないという批判に直面しています。(この方法の方が採点は楽ですね…)


「最適解」の教育

一方、「最適解」を求めるアプローチはアメリカ等欧米の教育では主流のなっていると感じます。「最適解」の教育は、問題に対する一つの「正解」を求めるのではなく、与えられた状況や条件の中で最良の解決策を見つけ出すことを目指します。このアプローチでは、知識の適用、批判的思考、創造的問題解決が重視されます。筆者はアメリカの大学(UCLA)の出身ですが、在学時は「Logical Thinking」「Critical Thinking」「Creativity」の3つのワードを耳にタコができるくらい言われました。アメリカの教育システムでは、このようなアプローチがより一般的であり、生徒は自身の知識、経験、判断を組み合わせて問題に対処することが奨励されます。

例 -アメリカ)
南北戦争において、あなたが北側の将軍だったらどうしますか?

「最適解」を追求する教育の利点は、学習者が実世界の複雑な問題に対して柔軟に対応できる能力を養うことにあります。例えば、異なる文化や歴史的背景を理解すること、異なる立場からの視点を考慮すること、未知の問題に対する創造的な解決策を提案することなどが含まれます。
(採点者も高い理解を求められ、回答を一つ一つ読み論理が成り立っているか、破綻しているかを判断する必要がある為かかるコストも高いです)


「答え」を導き出す過程が生み出した思考プロセス

「答え」を導き出す過程は潜在的に、物事の捉え方や、自分が求めている「結果」を出すまでのプロセスの捉え方に変化をもたらすのではないでしょうか。

「正解」を導き出す教育は、目的達成のために必要な最低限の努力を推奨することがしばしばあります。つまり、目的を達成するための最低限しかやらないということが頻繁に起きる。このアプローチは、学習者に対して問題の表面的な理解を促し、深い思考や批判的分析を省略する傾向があります。しかし、本当の学びは問題解決の過程において発生します。この過程では、私たちは様々な解決策を探索し、評価し、選択する必要があります。それは、物事の捉え方や、求められる「結果」に対するプロセスの理解に深い変化をもたらすことができます。

検索エンジンの発達により、自分の頭で考えることなしにとにかくさっさと答えを知りたい人が増えているように思います。さらに、検索結果をそのまま鵜呑みにしてしまう人も多くいる。日本人は情報のリテラシーが低いと言われていますが、これはメディアの責任だけでなく、教育システムによって構築された各々の思考プロセスにも起因するのではないかと仮説します。これが転じて、思考停止でルール等誰かに決められたものに乗っかる人を大量生産したのではないかとも思っています。

一方、アメリカではクリティカルシンキングと言って、常に記載の内容や自分が書いた論文の主張について、「ほんとうにそうなのか?」という視点で見ることを叩き込まれる。メディアが言うことにも常にその視点を持つように教育されている。

幼少期に受けた教育がもたらす個々人のパースペクティブ(世界をどう見るか)への影響は計り知れないものがありますから、これはとてつもない差を生んでいるのではないかを考えます。


もちろん、アメリカの教育の全てが良いとは思いません。システムそのもののネガティブ面もありますし、アメリカ式の教育をそのまま日本に組み込もうとしたところで日本とは土壌の文化が違いすぎて上手くワークしないと思います。しかし、現在の日本の教育は発展途上国が目指す教育システムであり、先進国で実施するのに奨励される設計ではありません。さらに、現在の日本の教育は労働者(チャイムで行動するというのは工場労働のスタイルそのもの)を生み出すための教育であり、自律的に動ける人材を育てるようなシステムではありません。これが日本から革命的な人材が中々出てこない理由の1つだと思います。(さらに横並びの教育なので秀でた人材もみんなと合わせた進捗になる etc..)

web3が発達してきている現在、日本の教育の根本的な構造を丸ごと見直し、構造改革しないことには今後の日本は衰退の一途を辿ると感じています。日本人は保守的で現状維持が好きな傾向にありますが、その現状維持すらも危ういです。

大学で履修した動物学でハッとさせられた言葉を今でも鮮明に憶えています。

「現状維持はゆるやかな衰退」


この世界はそもそも1つの「正解」が用意されているわけではありません。
私たちに必要なのは、自分の頭で考えた結果、選んだ道を正解にする力が必要なのではないのでしょうか。

幼少期より、教育の興味関心があるので今日の記事は少々アツくなってしまいましたが… 日本はまだまだポテンシャルもあるし、ご先祖様が紡いできた素晴らしい日本の文化や歴史を次の世代に繋いでいきたい。今ある恵まれた環境を守る為にも、未来の子どもたちの為にも、みんながハッピーな世界を作りたい。web3の力でそんな未来を実現する一助になれたら幸せです。




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