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子育てに夢中ではたらくとか社会とかが分からなくなってしまった

就職して働き出す前にどうしても書き留めておきたいnoteがある。その一つがこのテーマ。

「妊娠・出産・育児の頃、わたしは社会と断絶していた。」

すべての人がそうではないと思うが、私はそう感じざるを得ない日々を過ごしていた。妊娠や育児をネガティブに語るつもりはないし、社会との断絶が悪というわけでもないのだけれども、そういう面もあるんだよ、ということを自分への備忘録としても残しておきたいと思う。

(逆に、道端や日常生活の中で力を貸してもらったり助けてもらったりと「妊娠や子育てを機に、地域社会との繋がりを感じた」という声も聞く。それはとても素敵なことだなと思う。)

これは妊娠〜仕事復帰を通して、「自分の中の社会が消える」という感覚に陥った時の話。悲しかったり怖かったりしたので、できればもう経験するのはごめんだ。

いま、この感覚を忘れないうちに記録しておきたい。きっとまた産休や育休をとって社会との距離ができてしまった時、のまれてしまわないように。

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どんな変化が起きたのか

自分の中の社会が消える、とは、どういうことなのか。その頃をふり返ってみる。

大人との付き合い方がわからなくなる

妊娠して始まったのは、家にこもりがちな生活。私はひとつの場所に留まり続けるのが苦手な性格で、1日中家にいるのが苦痛に感じた。本当は、ぶらりと外に出て、電車にぼーっと乗ったり、街の人混みの中をただただ歩いていろいろな人を観察するのが好きなのに。

家で私がコミュニケーションをとる相手は、むすこが中心だった。もうずっと、自分とむすことの2人だけの生活だったので、大人との付き合い方全般がわからなくなってしまっていた

出産が落ち着くと、ばたばたと訪れてくる出産祝いの友人や知人たち。友人が来てくれるのはとても嬉しい一方で、なんだかうまく、コミュニケーションがとれない感覚があった。それがちょっと気持ち悪かった。でも、もともと話すの苦手だしな…と、自分のネガティブな部分があらわになって悲しいなぁ、そう毎日感じていた。

「仕事」がわからなくなる

息子が保育園に入園した後、以前お世話になっていたアルバイトを再開し、仕事復帰初日を迎えた。結論から言うと、全然だめだった。全然何もできなかった。仕事って何。何をすればいいの? と、自分で答えを出せない幼稚な問答だけが脳内をずっと駆け巡っていた。

いま思えば「私、仕事復帰の初日で久しぶりなので、どういうふうに動いたらいいかちょっと迷ってます。助けてください」なんて言えばよかったんだろうと思う。
でも、仕事のためにはそういうふうに声を上げることも大事だということも分からなくなっていて「うわあ、言われたことをやらなくちゃ。でもできないどうしよ…どうしよ…う…」と、ひとりで黙って悩みすぎて固まって何もできなにという、あんまりよくないムーブをかましていた。そうゴミムーブ。

「仕事をする上で大事なこと」みたいなマインドセットが、頭からすっぽり消えてなくなっていた。考えても分からない時は人に聞こうとか、自分だけじゃなくて人の力や知恵を借りるとか、時間をむだにしない、とか。いまこうして書き出せば当たり前すぎて仕事どころか小学校の標語になっていそうなことも、その時の私はわからなくなってしまっていた。

他者の視点に立つことができなくなる

自分とむすこが中心の世界で、自他がわからなくなるというか、「人の気持ちや行動を推し量って動く」みたいなことができなくなっていた。それは仕事以外の場面でも、如実に現れた。

たとえば人と会食する時。「外食なんて久しぶりでしょ」と誘ってもらってウキウキで出かけ、食事の場を過ごす。ワ〜イと浮かれて座っていると、相手はやたらと、飲み物をついでくれたり取り皿を差し出してくれたりと、せかせかしている。それを見て変な気持ちに駆られる私。

「あっ、こういう時、皿を渡してあげたりした方がいいんだっけ…」
「うわ、しまった、いまお水をついであげるべきだった…」

私は「誰かの視点に立って、気を遣う」ことができなくなっていた。(ちょっと以前は、気を遣い過ぎだよと言われるくらい色々やっていたはずなのに)

(ただ正直、前は気遣いしすぎて疲れて食事が楽しめないことも多々あったので、今はこのくらいでちょうどいいなとも思っている)


仕事復帰から1年弱が経った今

復帰したての頃は、まるで浦島太郎のような感覚だった。私だけが社会から取り残されているように。私だけ時が止まってしまったように。そんな孤独さを人知れず味わっていたなと、ここに綴りながら思い出した。

今はこうして当時をメタにふり返っていられるように、仕事の感覚や大人との付き合い方というものもなんとなく思い出すことができた、と自覚している。

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どうやって取り戻したのか

正直、「取り戻そう!」とバックキャスティングに動いたわけではないので(そんな頭の働き方してたらとっくに戻ってるって話だよなあ)、何がなんだか分からなくてもそこに身を置き続けるしかできなかった。なるようになってしまったというのが本音である。

けれど大人とうまく会話できなかったり、仕事復帰初日でうまくいかなかった時に「なんだかわからない感覚」があることだけはわかっていた。仕事がわからない、大人との付き合い方がわからない。わからない感覚って特別だと思う、わかってしまったらもう味わえない感覚だから。その特別な感覚がやっぱり心に引っかかって、「何がわからないんだろう」と考え続けていたような気がする。何がわからないかがわかれば、それに向かってまっすぐ向かえばいいだけだから、そうやって取り戻していったのかもしれない(うん、つまりほとんど記憶にない)。

社会との断絶=悪、じゃない

ただ、ここに書いたことは一見ネガティブに見えるけれども、裏を返せばとても必死に、一生懸命にむすこに向き合って集中してきたからこそ起こった変化なのだと思う。仕事や外のことを気にせず、むすことの時間を毎日毎時間、無我夢中で過ごすことができた。得られたことや感じた幸せもたくさんある。

この春からは社会というものの中で過ごす時間や働くことの重みも増えていく。仕事と育児を2つに分けるならばどちらかに没頭するということはもう当分できない。けれども私のことだからまた勝手に断絶して浦島太郎になってしまうかもしれない。そうなりそうな前にまたこの記事を読み返しに来たい。


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(臨月の頃のわたし。最後まで読んでくれたあなたにボーナスショット)



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