絶対的に自分の人生を肯定するには。
絶対的な人生肯定哲学。
“気休めだ”としてしまえば、そのまま“気休め”で留まる。
私にとっては、フランクルのこの言葉は納得でしかないけど、他人にこれを伝える時、“気休めだ、と思われやしないか?”と躊躇することがある。
説得力を伴わなければ、表面的な“綺麗事”、“取って付けたような言葉”になりかねない。
まぁ、要するに、私は自分に説得力が無いとジャッジしてしまってるわけで。
相手がどう解釈しようと、それはその人の自由であり、その時のその人の状態にもよる。
すべてを自分の影響下に置くのも、傲慢といえば傲慢よね。
相手に解釈の自由を与えずに、自分の理想通りの反応を求めてるんだから。
理想通りの反応が得られない(もしくは、得られないかもと思い込む)のを、自分の“力不足”が原因だとする。
そして勝手に落ち込む(笑)
どんだけの影響力だと思ってるのか(笑笑)
伝わる人もいれば、伝わらない人もいる。
共感してくれる人もいれば、共感されない人もいる。
こちら側の力は関係ない。
相手に委ねたらいいだけのこと。
それもまた、相手を“信じる”ということ。
そして、自分の自己肯定感を上げるために他人の自由を奪わないこと。
あなたを必要とする“何か”や“誰か”。
すべての“もの”や“人”、ではないのだ。
自分を必要とする“もの”や“人”だけを発見しようとすればいい。
だから、フランクルのこの言葉を“気休めだ”と思ってしまう人も、それでマルなのだ。
気休めにしたいんだから。
気休めに留まりたくない人にだけ、伝えればいいこともある。
相手が何を選ぶかを、自分の中の正義に寄せて無意識にコントロールしようとするの、気をつけなきゃな〜。
私にとって“良いもの”は、相手にとっても同じく“良い”とは限らない。
それでも私は、自分が“良い”と感じたものはこれからもシェアしていきたい。
そういう性(さが)みたい。
ということで、最後にやっと冒頭のフランクル。
“気休め”と感じていたことを、“気休め”じゃないと腑に落とせた先にある世界、見てみたくない?
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