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学力・教養のおはなし

学力・教養は、何歳になっても、自身がその気になれば、身につけられるものだと私は今でも信じており、今も色んな本を読み、自分のために勉強しています。
いろんな教養を身につけておけば、いざ窮地に立たされたとき、自分の身を守ってくれるからです。

暗い話で恐縮ですが、私は小4~中2まで、自殺まで考えるほどの凄まじいいじめに遭っており、当然、落ち着いて勉強できるような環境になく、その間、成績は絶望的に悪かったです。

ところが、いじめていた連中たちも現金なもので、中3になって受験が見えてくると、とたんにいじめはなくなりました。(それでもたまに、私を揶揄する声は飛んできましたが)私も、これでようやく落ち着いて勉強できると、得意な国語、英語の成績を伸ばそうと勉強しました。

国語は、文章を隅から隅まできっちり読めば、絶対にどこかに答えは書いてあるものですし、読解力をつけたければ、本を読めば自ずとついてくるものです。漢字の読み書きも、覚えたいなら書いて書いて、手に覚えさせればいいですし、やはり本を読めば、知らない漢字も出てくるでしょう、そういう時は辞書を引けばいいのです。(ググるのではなく、辞書を引く、これは大事なことですよ)
英語は、アルファベットはAからZまでしかないですし、読み書きも、やはり文章をきちんと読みさえすれば、理屈でなく頭でわかるようになります。これでも、英会話も少しならできます。

反対に、私は数学、理科が苦手だったものの、これも少しずつですが勉強するようになりました。おかげで、点数こそよくはなくとも、教師たちに顔をしかめられることはなくなる程度の点は取れるようになりました。

暗記がカギになってくる歴史などは、部屋にこもって、念仏のように唱えて丸暗記し、それなりの点数は取れるようになり、中3にしてようやく、勉強の楽しさがわかるようになりました。

私は、絵を描くのが好きな子供でしたが、絵を描くのに飽きると、図書室へ行って、面白そうな本がないか探し、本を読むのが大好きでした。ですので、小学校の頃から、国語の成績はよかったです。小2のとき、私が夏休みの宿題で書いた作文が、区のカレンダーに載ったこともあります。私の母親は、それを鼻高々に自慢してまわっていたほどです。

中学へあがると、私の中学は毎年、歳明けに必ず「漢字の王様コンテスト」というイベントがあり、成績が悪かったにも関わらず、私は毎回そのコンテストで満点を取っていました。

小・中と、作文・漢字などは得意とする分野だったので、とりあえずそれを伸ばそうという考えは正解だったようで、夫からも、文章力は群を抜いた秀逸さと称されるほどです。(絵でもたびたび賞は取っていましたが)

私は高校へあがりましたが、やはりお世辞にも「頭のいい学校」ではなかったため(笑)その中で馬鹿になる必要はない、なりたくないと、高校3年間は勉強し、おかげで体育以外の成績はよかったです。そうすると、教師たちの覚えがめでたくなり、可愛がられるので、教師たちの私に対する印象は「成績優秀、品行方正な生徒」だったとか。

以後も、私は漢詩、漢文に興味を持ち、お小遣いで漢詩、漢文の本を買って読み、独学で勉強しました。
クラスメイトたちは皆、ことのほか漢文に苦手意識があったのでしょう、平均点も悪かったようですが、私は100点近い点数を取ることができました。
漢詩、漢文も、じっくり読みさえすれば、絶対に答えは書いてありますし、言ってる意味もとても深いものです。

高校卒業後も、私はやはり絵の他に読書が好きだったので、今も漢詩、漢文の本はたまに読むことがあり(やはり為になることが書いてありますよ)その他、雑学だったり、目についた本は買って読むことがあります。(ちなみに、私はキンドルは苦手です、読んだ気になれないのです)

そういうことがあってか、人間、頭がいいに越したことはない、そう思うようになりました。いくら見た目が綺麗でも、中身が空っぽなら、そういう人に引っかかるのは、鼻のきかないお馬鹿さんです。

私の娘も、たまに「宿題がめんどくさい」とこぼすことがありますが、学校の勉強であれなんであれ、勉強し、色んな知識を身につけておくことは人生においてとても重要、疎かにすることは許さないとだけ言っております。

おかげで娘は、家で勉強などしている姿を見たことがないのに、テストでちゃっかり100点を取って帰ってきますし、言うことも9歳にしては大人びたことを言います。娘の詩が、学校の新聞に載ったこともあり、某お茶の俳句コンテストに入賞したこともあります。この辺が、私の血を引いた子です。

図書室でよく本を借りてきて読んでいるので、国語力は小4にしては充分ついているのかも知れません。

人間、学力・素養・教養があるに越したことはありません。色んなことを知っておけば、いざという時、自分を守ってくれるからです。(大事なことなので何度でも)

逆に、そういうものを疎かにして、言い方が悪いですが「あっぱらぱー」に生きている人は哀れだと思います。同情はしませんが。勉強しないのはその人の責任ですので。

私と縁が切れた友達たちは、皆、そういう教養や素養が全くない「あっぱらぱー」の部類でした。ただ自分の目の前の快楽にだけ溺れていて、そういうものを疎かにしていました。それも彼女たちの責任なので、今さら指摘してあげる筋はありませんし、私はそれ程親切な人間でもありませんので。今思い返しても、本当に空っぽな人たちで、学べるものがつくづく何もない人たちでした。ご縁が切れたのは良かったです。それでも、彼女たちがそれで満足しているならそれで良いのです。困ったとき、対処できないで悩むのは、自分たちのせいなので。

夫や娘が袋小路にはまっている時、こういうことわざがあるよ、漢詩でこういう一節があるよ、〇〇が言った一節で、こういうこと言ってるよ、等教えてあげると、やはり打開するヒントになるらしく、よくお礼を言われることがあります。

いくつになっても勉強し、見た目だけでなく、人間的にも豊かで、博識でありたい、そう思います。そうするとやはり、日々、勉強するしかないのです。

日々、勉強です。


日々、勉強!



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