月明かりの下、私と私の弁証法

なんだか温かい国というイメージがあるスペインも、冬はしっかり寒い。片田舎だからか、相当な数の家に暖炉があるとみえて、外を歩くと煙の匂いがたちこめている。村の外に出ると、どこか遠くで、チェーンソーで丸太を切って薪にしている音が聞こえる。私にとっては慣れない冬の風物詩といったところだ。
私の家は100年くらい前に作られた家の、元々は家畜の食べる干草を入れておくためのスペースだったそうだ。今はなぜか日本からやってきたアラサーが住んで寒い冬をやり過ごしているのだから、巡り合わせというのは不思議なものだ。
古い家で、分厚い壁ながらも、冷気を完全に防げるわけではない。

冬の夜は長い。そんなの当たり前だ。
でも、夜の10時まで太陽が沈まない夏に比べて、冬の夜は、あまりにも長く感じられてしまう。
暗く、寒く、長い夜を一人で過ごすということは、私が考えていた以上に過酷な状況だった。

私は調査でここに住んでいるが、調査をしようにも、寒くて外に人が出てこない。おまけに冬は雨が降る季節で、1月は皆クリスマスや新年など度重なるパーティーでお金を使いすぎて外出もしなくなると言われている。
冬はあまりにも一人の時間が長い。端的にいって、寂しい。

寂しいながらにも、自分にとって一番身近な人間、私について考えてみようと思い立つことになった。冬の寂しさがなければ、こんなこと思いつきもしなかっただろう。そういう意味では、冬に感謝しないといけない。

寂しい時、時間を忘れられる趣味があれば、と思うものだ。
私ほど多趣味な人もそういないと思っていた。手芸、読書、植物の世話、金継ぎに運動をするのも好きだし、ゲームをするのも料理をするのも、散歩をするのも好きだ。
でも、ほとんどが、スペインにいてはできないものばかりである。
こういう趣味には、いくらでも愛情を注ぐことができた。時間も惜しまず使ってきた。それは自分を養生するためになるから。毎日毎日、実体のない何かに追いかけられるように研究に向かう日々なので、あえて自分から自分を養生する時間を決めておかないと気づかないうちに心がすり減ってしまうような気もしていた。

ひとりでできる趣味も、一人暮らしも、誰に気を使うこともなく自分のためだけに全てを傾けられる。それは大変に快適だ。
快適だが、これまで持ってきた趣味ができない今、一人の時間というのは大変に寂しく感じてしまうものである。誰かからの愛情を恋しく思うこともあるものだ。自分のじょうろの水を植木鉢にあげたら、また水で満たして欲しくなるようなものかもしれない。
私のそれはじょうろで、泉ではないようだ。

だが、問題は、愛情が欲しいと念じたところで、私にはそれを受け止めるだけの器があるように思われないことだ。

まったく、不都合な心の持ち方をしているものだと思う。しかもその半分は杞憂のように思われる。だが、愛情といっても色々ある。私にとって一番ありがたく思われるのは、友愛だ。

私と付き合いのある友というのは、多くはない。実際に会えば積もる話もできる友はたくさんいるが、向こうから連絡してくれるような友はほんの一握りだ。
それでも、その数少ない友人のことを、私はいつも気にかけているつもりだ。向こうは私のことを気にかけていないかもしれないが。

私は、友のことを尊敬している。みな、私の知らないことをたくさん知っているから話しているだけで刺激になるし、いつも新たな視点をくれる。深い話をしなくたって、お互いの近況をアップデートできればそれで満たされることもある。
だから、私にとって友達というのは、性別や年齢の違いなんて大した問題ではない。話ができて、意見を交わしあえればそれで友達だと思っている。
それに、昔話で盛り上がれる昔からの友も良いものだが、付き合いの時間ばかりが仲の全てを説明できるわけではない。去年知り合ったばかりの友達の中にも、なんでも話せる人もいるのだから。

私は、そんな友達に手紙を書くのが好きだ。今どき片手で、しかも切手を買う手間も投函する手間もなく、手軽に友達に連絡が取れるものだ。でも、インスタントに連絡できると、どこか相手にインスタントな返事を期待してしまう。
「元気?」と尋ねれば「元気だよ」と返ってくることに慣れすぎているような気がする。返事が返ってこないことにも、慣れすぎている気がする。結果、私は、短い文字列から友の調子を読み取り、時に深読みし、会話するよりも時間がかかってしまうことがある。

その点、手紙は良い。言い方が悪いかもしれないが、私が友に対してどう思っているのか、自分の最近はどんな様子か、そちらの様子はどんな調子だろうかと、そんなことを私の裁量、私のペースで詰め込んで送ることができる。
相手にも手間はかかるので、手紙を読むのも返事をつくことも強要するものではない。
それでも、私がどう思っているのか、感じているのかを、一通の手紙に構成し、推敲し、まとめることができる。そういう意味で、私がどう思っているのかを、ひとことずつのチャットの応酬よりは、的確に伝えられる気がする。よしんば伝わらなかったとしても、自分の中で相手をどう思っているかがよりクリアになる。

不器用な私には、友達に自分のことを伝えるには、最高の手段だ。

そして期待しているわけではないが、返事が来るととても嬉しい。手記を眺めていると、この人はどんな文字の癖があるのかとか、便箋はどんなデザインを選んでくれたのかとか、相手のことがよりわかるような気がする。

…そうこうしていると、日本にいる私よりいくつか若い友から、はるばるスペインまで手紙が届いた。言葉遣いが柔らかく、想像力を膨らませてくれるような、そんな文面が端正な文字で綴られていた。私は喜び勇んで村の小さな商店でハガキを買い、何度も何度も推敲を重ねて文章を綴って返事を書いた。知り合いの写真屋さんに頼んで、村で撮影したお気に入りの写真を封入した。今頃、あの手紙はどこを漂っているのだろうか。

どうしようもなく寂しくて、家から出られないことも、ベッドからなかなか起きられないことも、なんだか食事が喉を通らない、何を食べても美味しくない日もある。単純に頭も体も疲れてしまって、本を開く気力も出ないことだってある。

そういう日はあるものだと思いこんで仕舞えば、それで済む話かもしれない。しかし、いらないところで真面目な性格が邪魔をする。
お前は何のためにこんなに遠くまでやってきたのだ、ちゃんとやるべきことはやったのか、課題は山積しているのではないか、そう問い詰めてくる自分がいる。私は人生の多くの場面で、こうして自分に鞭打ってきた。

結局、外に出ることも、自分を奮い立たせることもうまくいかない。
エンジンのかからない心身を引っ張って空虚な時間を過ごした末に、夜になるとまた寒さがやってくる。青白い月明かりがやたらと明るくて、私の影を地面に落とす。ああ、また今日も自分の舵さえ切れなかったと悲しくなることもあるが、太陽のようにギラギラと私を追い立ててこないだけ、月のほうが優しく思える。

私はそういう気質を持っているもんだから、つい目の前のこととは別のことを考えてしまう。友のことを思い出しては、楽しかった思い出に浸って、そういえばあいつは元気かな、と、気になってしまう。半年前までは慣れきった土地で暮らしていたという気楽さがあったなと、懐かしく思ってしまう。

何もかもが懐かしかったり、目の前のことに取り組めなくなった時には、こうすることにしている。

自分にこう言うのだ。

頑張れ、私。まだまだできることはある。でも、毎日うまくいくわけでもないぞ。焦らず、最後まで、歩いても一休みしてでもいいから完走するんだ、と。

…自分の心構えとして、こういうふうに自分を許せるようになったのは、それこそ、寒い冬の月明かりにさらされて、考える時間ができたからなのかもしれない。

どこまでいっても、村では私はよそものだし、なんならよく分からないけれど研究をしていると触れ回って色んなことを嗅ぎ回っているやつ、そう思われているだろう。村人は優しいが、ほとんどのひとたちにとっては居ても居なくても同じことのはずだ。それが人類学者というものだ。人類学者が調査をしていなければ回らない社会なんて、ないはずだ。

そんな調査に身を投じて、人類学者自身がどう変わったのか、という話を聞くことがある。オートエスノグラフィーという言葉もあるほどだ。
私がどう変わったのかと考えるには、少しばかり気が早いかもしれない。まだ半年も時間がある。残り半分で、何かが劇的に変わるかもしれない。変わらないかもしれない。

変わることがいいことであるとも限らないが、私にとってこれだけは確かである。

これまでいた場所から自分を切り離し、別の文脈に自らの身を投じなければ考えられないこともある。そして自分自身というのは、そういう機会でないと分析できないものである。

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