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勝手に書評|絡まり合う生命 人間を超えた人類学

奥野克巳(2022)『絡まり合う生命:人間を超えた人類学』亜紀書房

 人類学者の奥野克巳さん(1962〜)による最新の著作である。奥野克巳さんは現在、立教大学で教鞭に立っており、近年は精力的に著作活動を行っている。単著では、『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(亜紀書房, 2018)や『モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと』(亜紀書房, 2020)があり、『ひび割れた日常 : 人類学・文学・美学から考える』(亜紀書房, 2020)といった共著に加えて、エドゥアルド・コーン著『森は考える : 人間的なるものを超えた人類学』(亜紀書房, 2016)、ティム・インゴルド著『人類学とは何か』(亜紀書房, 2020)といった翻訳もいくつも手掛けている。

 本書は、2016年から2021年までの6年間で発表された、論考やエッセイなどを編んで加筆したものだという。全部で14章からなり、それぞれが完結した文章になっている。1〜4章が第1部「アニマルズ」、5〜8章が第2部「スピーシーズ」、9〜11章が第3部「アニミズム」、12〜14章が第4部「ライフ」となっており、それなりのボリュームがある。著者自身もあとがきで述べているように、それぞれの章が別々の場所で発表されたものであることから一冊の本としての一貫性はそこまで強くないが、その根底にはマルチスピーシーズ人類学やアニミズムという共通したテーマがあり、各章はやんわりと繋がっている。(勝手に)書評を書くにあたって、どのようなスタイルで書こうかと迷ったが、ここではいくつかの章を取り上げてコメントを残しながら全体を俯瞰してみようと思う。

第1部 アニマルズ

第1章 鳥たち

 本章では、鳥をめぐる人類学的研究から、人間中心ではなく、鳥や動物が中心となって描かれる世界について言及している。例えばプナンでは、狩って仕留めた鳥は、忌み名を用いて呼ばれる。これは死んだ鳥を悼むために用いられるのであり、人間同様に、一つの主体としての存在を認められるといえる。

プナンが住まうボルネオ島の森では、人間と鳥の関係は必ずしも人間を中心にして組み立てられているわけではないように見える。非人間、この場合、鳥や動物を中心とした見方が人間の世界に組み入れられている。(p.49)

第4章 ネコと踊るワルツ

 本章では、動物写真家・岩合光昭のネコに向き合う姿勢と、エルクを狩るシベリアの先住民ユカギールのハンターの姿勢が重ねて描かれる。「撮影する」と「撃ち殺す」はどちらも英語でshootである。ハンターはエルクを模倣し誘惑することでエルクを仕留める。写真家はネコと同じ視線に立ち誘惑することでシャッターチャンスを作る。どちらも相手と同じ視線に立つことによって、ハンターは「エルクではないが、エルクでなくもない」状態になり、写真家は「ネコではないが、ネコでなくもない」状態になる。そこには一つの関係性の世界が生じているといえる。

ハイブリッド・コミュニティは、人間と異種がともにつくり上げている生活空間である。それは、同種のものたちの「共同体」ではない。異種たちから成る〈共異体〉と言ってもいいかもしれない。(p.94)

第2部 スピーシーズ

第5章 多種で考える マルチスピーシーズ民族誌の野望

従来の人類学では、その対象は人間を中心に描かれてきた。これに対して、マルチスピーシーズ人類学では、人間という一種から多種へと視点を移動する。このことを端的に示すのが「絡まり合い(entanglement)」という語だという。そして、これはアナ・チンの言うアッセンブリッジ(assemblage)とも通ずる。いずれも、主体同士の関係性の変化と生成の過程に焦点が当てられている。このことは従来の人間観の刷新へと導かれる。それは、固有性・単一性・実体性を有する「人間ー存在(human beings)」から、刹那刹那に生成される「人間ー生成(human becomings)」への転回だという。

絡まり合いとは、人間と人間以外の多種、あるいは人間を含む多種どうしが働きかけたり働きかけられたりするなかで、特定の関係性が継続したり断続したり途切れたりしながら生み出される現象のことである。(p.126)

第8章 菌から地球外生命体まで

近年、B・ラトゥールのアクター・ネットワーク理論(ANT)やG・ハーマンのオブジェクト指向論(OOO)など、モノとモノ同士の作用とその関係性に着目する議論が脚光を浴びている。(ちなみに私はきちんと理解しておらず、言葉となんとなくの枠組みを知った気になっている程度だ。おいおい勉強していきたい。)マルチスピーシーズ人類学もこうした流れを汲んでおり、人間中心主義的な既存の人文学とその周辺領域を脱中心化する新たな「思想」になっているという。

人間と他種という二者間の関係ではなく、人間を含みながら複数種という3+n者の絡まり合いを。人間に現れる範囲での種ではなく、ともに生きる種たちのダイナミズムを。人間ー存在ではなく、人間ー生成を。安定的で自律的な「種」ではなく、相依相待によりそのつど作られる「たぐい」を。民族誌に著すだけではなく、多様なメディアをつうじて制作を。

第3部 アニミズム

第10章 科学を凌ぐ生の詩学

本章では、レヴィ=ストロースや現象学者エトムント・フッサールから着想を得たフィリップ・デスコラのアニミズム、さらにそれを批判的に見たヴィヴェイロス・デ・カストロのアニミズムなど、アニミズムの学術的なレビューがなされる。単にアニミズムといっても、その捉え方は歴史的に様々であることが分かる。

インゴルド、ウィラースレフ、宮沢賢治に共通しているのは、人間と人外の関係の内側もしくは「間」に入り込んで現象学的に直観する態度、すなわち「アニミズムを真剣に受け取る」態度に他ならない。(p.235)

第4部 ライフ

第14章 バイオソーシャル・ビカミングス ティム・インゴルドは進化をどう捉え、どう超えたか

本章では、インゴルドの人間をめぐる思想の試みとその変遷が紹介されている。インゴルドは、元々、人間存在とは、生物的かつ社会的であり、その2つは切り離せないものだとする「生物社会的存在(biosocial beings)」という考えを打ち出していた。しかし、その後インゴルドは、「存在」を「生成」へと置き換え、「生物社会的生成(biosocial becomings)」へと修正している。後期のインゴルドは、動きと成長の軌跡として、あるいは関係性によって絶えず生み出されるものとして、人間を捉えようとしたのだという。

インゴルドは生物社会的存在を説く際に、社会関係と有機体、社会の領域知と自然の領域がひとつであることに気づいたのである。だが間違ってはならないのは、それらをひとつにするのが、「全体論的で関係論的な存在論」ではなく、「局所的で関係論的な生成論」に進むことだという点である。あらかじめ全ては関係であるといった調和的な全体論に進むのではなく、何ら確定していない偶然による局所的なつながりによる不安定な生成へと進まねばならない。(p.327)


まとめ

 本書でキーワードとなっているのは、「マルチスピーシーズ」、「絡まり合い」、「アニミズム」、「間」、「人間ー生成(human becomings)」あたりだろうか。これらの語は何度も登場するので、その都度理解が深まっていく。最初に読み始めた時は、特に説明もないままにプナンの人々の描写から始まったので、本書がどういった構成なのか、どこに力点が置かれているのかなどがよく把握できずに、内容に入り込むのに時間がかかった。しかし、段々と本書の主題が見えてくると、それらが様々な角度から説明されるので、次第に点と点が結びついていくような感覚を覚えた。全体的に引用が多いが、それぞれの引用元についての説明も比較的多いので、そうした引用元も読んでみたくなってくる。個人的には、アナ・チンの『マツタケ』、エドゥアルド・コーンの『森は考える 人間的なるものを超えた人類学』は近いうちに読んでみようと思う。いずれにせよ、本書を通読することによって、近年のマルチスピーシーズ人類学の水平線が見えてくるのは間違いない。人間と自然という二元論に対して疑問を抱いている人がいたら是非おすすめしたい一冊である。

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