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世界で一番不思議な人、そして会いたい人

 森達也「千代田区1番1号のラビリンス」を読みました。「戦後日本の表現における臨界に挑む問題小説が…」などと帯に書かれていたのでドキドキしながらページを開きました。ところが全部読み終わってみると、特に「問題」はなかったように思いました。もしかすると私があまりに無知なので問題を問題と認識できなかったのかも知れません。それでもとにかく歴史あり、社会問題あり、恋愛あり、そして冒険ありで楽しく読める一冊でした。

 私はこの本を手に取るまで知らなかったのですが、題名の「千代田区1番1号」とは皇居のことです。もしかして東京の人は「そんなの当たり前じゃん」というのでしょうか?もしそうならびっくりです。だって京都人の私は京都御苑の住所なんて知りませんから。

 本作は事実を基にした小説だそうですが、この方式にはなんか馴染みがあります、そう原田マハですね。最近になってたくさん読んでいるマハさんの美術小説がこのスタイルでした。そして本作では、山本太郎や是枝裕和、一水会(右翼団体)など、登場人物(団体)はほぼ全て実名で登場し、唯一著者の森達也さんだけが「森克也」となっています。それって意味あんの?なんて思いましたが。マハさんの美術小説と同じで虚実入り混じって話は進んでいくので、「ェ、これ実際にあったんやろか?」などと想像しながら読み進めるのも楽しかったです。

あらすじ

 話の大筋はこうです。「森克也」や是枝裕和を含む6人のディレクターが、統一テーマに沿って1人が1つずつドキュメンタリーを制作し、それをテレビ番組として6週に渡りフジテレビで放送する、というものです。そしてその統一テーマとは「憲法」です。当然誰が第何条を担当するのかという話になり、克也は「第1条」を選びます。第1条がどういう条文なのかパッと言える日本人は何割ほどでしょうか?私は言えませんでした。9条が戦争の放棄、くらいしかわかりません。第1条は「天皇制」です。このドキュメンタリーの目玉として克也は、天皇に会ってインタビューを撮ることを計画しますが、果たしてうまくいくのでしょうか。

日本で一番有名な人は誰か

 ところで天皇というと一つ思い出すエピソードがあります。かつて私はスイスを拠点に、日本人客をヨーロッパアルプスのハイキングやスキーに案内するという仕事をしていたことがあります。あるツアーでフランスに行った時のことです。そのとき我々のグループに現地ガイドとしてフランス人山岳ガイドが帯同してくれました。その彼がなんかストイックで寡黙な青年だったため、雑談の話題に困った私は「日本人といえば誰を知ってる?」とベタな質問をしてみました。ヨーロッパでイチローが全く有名でないことは想像できたので、中田英寿あたりの名前が出てくるかと思いきや、少し困ったような顔でしばし考えてから彼の口から出たのは「イロイト」。私は理解するのに2.5秒ほどかかりました。

 実はフランス人は「はひ(ふ)へほ」が言えません。「H」は発音しないのです。一方「F」は言えますから、「ふぁふぃ(ふ)ふぇふぉ」は大丈夫です。ですので日本語の「ヒ」はフランス人には「イ」と発音されるわけです。もうおわかりですね、彼が知っていた日本人とは、昭和天皇「裕仁」だったのです。

 歴史が外国でどのように教えられているか、普段我々はほとんど知る機会がありません。山にしか興味がない(ように見えた)フランス人ガイドの青年にとって、日本人と言えば唯一「エンペラー ヒロヒト」だったということは私にとってかなりの驚きでした。もしかしてフランスの歴史の授業では、ヒトラー、ムッソリーニと並べて「ヒロヒト」が教えられているとしたら、日本の保守派にとっては屈辱的かも知れません。いや私だって昭和天皇とヒトラーを並べるのは違うだろうと思います。なぜなら昭和天皇に「独裁者」というイメージはないからです。

象徴って誰が決めるもの?

 話が逸れました。いずれにせよここで言いたいことは、フランス人の彼にとって「(裕仁)天皇」は日本の「象徴」として機能していたということです。これを見た時に、ある集団の「象徴」とは、その集団を外から見ている人が決めることではないのかなと私は思うのです。
 例えば読売巨人軍の象徴は.…長嶋茂雄ですよね。ミスタージャイアンツですから。でもそれは、おそらくファンや記者などが言い出したのでしょう。それをもし逆に巨人軍が自ら「うちのチームの象徴は長嶋茂雄です。」と発表したらなんか変じゃありませんか?また人によって、ある集団の象徴としてイメージする人物は違うはずです。例えばアフガニスタンの人々にとって、日本の象徴と言えばおそらくは「ドクター・サーヴ・ナカムラ(中村哲医師)」でしょう。

 本作でも「いったい象徴とは何だろう?」という疑問が投げかけられています。しかしこの疑問の根本的な難しさは、本来「象徴」とは他人が決めるものなのに、それを自分で決めてしまったところにあるのではないでしょうか。もちろん組織やチームのマーク(意匠)も象徴(シンボル)ですから、それは自分で作るものです。でも人を「象徴」として自ら決めた場合は、その定義も決めなければいけませんが、日本国憲法には言及されていません。皇室典範とやらに、天皇がなすべき「仕事」が定められているだけのようです。

 ですから本作の重要な登場人物である平成の明仁天皇(現上皇、以下全て)も譲位に際してのお話の中で、在位期間中「象徴とは何か?」を模索する「旅」を続けて来たと述懐されたことでも「象徴」であることの難しさがわかります。しかし、そのレールが敷かれていない道を行く難しさから逃げたりごまかしたりせず、誠心誠意向き合ってこられたのだということは、その活動を振り返ってみても、ご本人の口ぶりからも伝わってきます。

言えないことを伝える方法

 さて明仁天皇が在位中に行った活動の中に「私的訪問」というものがあり、克也はその訪問地やタイミングにある種のメッセージを感じています。ここは私が本作の中で一番興味をひかれた部分なのですが、もし仮に明仁天皇が私的訪問に何らかのメッセージを込めていたとして、なぜそんなことをする必要があるのでしょうか?
 答えは、天皇は「発言」を封じられているからです。日本は(一応)民主主義国家で(一応)自由主義で(一応)言論の自由があります。しかし天皇にだけは言論の自由も職業選択の自由も移動の自由もありません。しかも「生まれながらに」です。
 そりゃしょうがないよ、税金で何不自由なく生きていかれるんだから、と言う人がいるかも知れませんが、本当にしょうがないのでしょうか。天皇だって国民の一人です。ある国民にだけそのような権利に対する制限を生まれながらに課しても許されるのはなぜですか?当然の疑問だと思います。しかしそれが妥当であろうとなかろうと、あなたがもしも今の日本に天皇として生まれたなら従うしかないのです。
 「私はこう思う」と決して口にできない人間としてこの世に生まれてきた天皇が、それでも日本の「象徴」としてこれだけは日本のために、国民のために伝えておきたい残しておきたいという想いを心に秘めているとしたら、それを「私的訪問」によって我々に伝えてようとしているのではないか?と克也は妄想、というより確信するのです。そしてドキュメンタリー作家としては、直接本人に会ってそれを確認したいと思うのは当然でしょう。

 いくつかある私的訪問地の共通点は「国策企業が引き起こした公害によって一般国民が犠牲になったその土地」です。その一つに「足尾鉱毒事件」があります。社会の授業で習うはずですが歴史も含め社会科がめっぽう苦手だった私はよく知りませんでした。明治時代の話ですが、栃木県の足尾銅山から出た鉱毒が下流の渡良瀬川に流れ込み、流域の人々に重篤な健康被害が発生したというものです。私など渡良瀬川と聞くと森高千里しか思い浮かばないような人間です。
 その被害地域出身の衆議院議員であった田中正造は帝国議会で鉱毒被害を訴えるも相手にされず辞職、その二か月後、明治天皇に直訴状を手渡そうとしたが失敗に終わるというのが事件の顛末です。
 明治天皇も大正天皇も昭和天皇も読むことがなかった(とされる)その直訴状を、ついにひ孫である平成の明仁天皇が、栃木県佐野市の郷土資料館を私的訪問し、丹念に読んだのだそうです。
 
 仮に私的訪問をある種のメッセージだと捉えるなら、明仁天皇は、これまで国家が国民に対して犯した罪を「償おう」としたのではないか、「象徴」として。その意味で、最も訪問回数の多かった最重要地が「沖縄」だと言えます。もしそうなら、それを是非本人に確認したい、ご存命のうちに、ということです。

 《ちなみに現在(9月14日)公開中のドキュメンタリー映画『荒野に希望の灯をともす』の中村哲医師には尊敬する人物が三人いて、田中正造はその一人なんだそうです。》

右翼ってどんな人?

 克也は天皇に会う方法を画策する過程で山本太郎や右翼団体の代表と会ったりします。山本太郎とのやり取りも面白かったのですが、やはり新鮮だったのは「一水会」という右翼団体の代表 木村三浩に会う場面です。「右派」とか単に「右翼」あるいは「ネトウヨ」という場合と違い、「右翼団体」というと私のイメージは、子供の頃日曜日に街に出ると大抵どこからか聞こえていた街宣車と軍艦マーチです。一体あれは何なんだ?と思いながらもいつしか「見てはいけないもの」だと認識していました。しかし本作を読んで、その「見てはいけないもの」というイメージは書き変わりました。(ちなみに一水会の木村氏は自分たちのことを「右翼」ではなく「民族派」と呼んでいます。)
 というのも木村氏との会話の中で克也は何度もその「論の真っ当さ」を感じるのです。言うこと言うこと全てまともだし芯を外していない。ただ一点普通でないのは、天皇を極端に敬愛しているということです。

 私は興味本位にTwitter上で「一水会」のアカウントを探してみました。すぐに見つかったので幾つかの投稿を見てみると、驚いたことに自民党政治を痛烈に批判しています。安倍さんの国葬にも明確に反対しています。「右翼=保守=愛国者=与党支持」何となく私の頭の中にはこんな図式があったのですが、間違いでした。右翼はもちろん自分達を愛国者だと言うでしょうけど、それは保守政権支持にはつながっていないのです。無知でした。でもなぜなのでしょう?

天皇という存在の不思議

 そこで今回のタイトルです。「世界で一番不思議な人」としました。では何が不思議かということです。もちろん、日本国民なら生まれながらに持っている権利を、生まれながらに天皇は持っていないということもが第一の不思議です。でもそれだけではありません。
 人類が「民主主義」を発明するまでは、大体の地域や国には君主がいて「支配ー被支配」の社会が普通でした。それが17世紀前後から次第に君主が民衆に打倒されるようになり、第一次世界大戦を機に多くの国で王室が消滅したといいます。現在王室が残っている国は27あるそうですが、その中にあって日本の皇室は特殊です。まず2,400年ほどの歴史(実在が確認された天皇に限ると約1,500年)がありこれは最長です。そして大きな戦争に負けているにもかかわらず、戦勝国によって処刑されていません。なぜそれほど長期間存続できたのでしょう。
 私は歴史の勉強が大の苦手でした。日本史でしばしば困惑したのは「朝廷」と「幕府」です。結局どっちがえらいの?などと考えてるうちに眠気が襲ってきて、日直の「起立!」の号令で目が覚めるというのが高校時代の歴史の授業でした。私を悩ませた朝廷と幕府の関係性ですが、日本列島で武家がメジャーになり政治の実権を握っていったときにも彼らは朝廷を滅ぼさなかったのです。なぜかというと、わざわざ朝廷と戦って彼らを根絶やしにするコストより、「朝廷から統治権を認められた」と宣言する方が民衆の納得も得やすく、戦費もかからず、つまり圧倒的に「コスパ」が良かったからだそうです。[注:この段落の歴史情報は COTEN RADIO 「#16 結局、天皇ってなんだっけ?」より得ました⬇️]

 そこで、様々な枝葉を大胆に端折って言うと、「日本ではある時期から、政治の実権を握った者が、皇室や天皇のもつ”権威”を徹底的に利用してきた」と言えるのではないでしょうか。間違っていたらすみません。昭和天皇に”独裁者”のイメージはないと先ほど書きましたが、私がわずかながら持っている歴史の知識からも、第二次大戦は昭和天皇が独断で押し進めたようには見えないからです。なのに日本人は「天皇陛下万歳」と言わされていたのです。ここで右翼に話を戻すと、よもや戦前のように天皇の人気(と現在は自ら発言できないこと)を利用して政権与党が政策を実現しようなどと考えたら黙ってはいないぞ、というのがおそらく「民族派」団体の立場なのかもしれません。いや、ここは自信ありませんのでもっと勉強が必要ですね。

三つの「愛国」

 先述の私的訪問などからわかるように、明仁天皇は国家が国民を犠牲にした歴史を反省し、どこまでも平和主義を貫こうとしているように見えます。ですがそれを公に発言されては困る人たちが現在日本の政権を握っている。しかし彼らにとって幸いにも天皇は政治的発言を禁じられています。
 ここで「愛国」という一つの態度を取り上げてみると、右翼も、現政府も、天皇も「愛国者」に違いありません。しかしさらに「愛国」から「国」を抜き出してみると・・・
 ▪ 右翼(団体)にとっては「国」=国の象徴である天皇
 ▪ 現政府にとっては「国」=国体(国の体面、体裁)
 ▪ 天皇にとっては「国」=国民
というような三者三様だと言ってしまって間違いではないと思います。この三つの「愛国」の違いはとてつもなく大きな違いではないでしょうか。

最後に

 著者の森達也氏は明仁天皇の封じられた「口」の代わりとなって、その秘められた思いを一冊の本に、フィクションというオブラートに包んで届けてくれたのだと私は理解しました。(でも本当はドキュメンタリーとして映像化したかったわけです)ただ「小説」としての読みごたえは正直いまひとつでした。最後の方はちょっと何の暗喩なのかわからない場面もあり(自民党や電通を批判しているのかな)消化不良気味で終わりました。(これは私の咀嚼力がなかっただけなのかも知れません)
 森達也という人は、日本において「それは”なかったこと”にして楽しく生きていく方が楽だよ」という事柄をほじくり返して「ほら、こんなものがあるんだぞ。ちゃんと見ろよ」と訴えるという非常に「しんどい」仕事をされていて、とても応援したい表現者であることは間違いないのですが、最後は少し厳しめの感想を敢えて書いておきます。

 今回は、気づけばなんと6,000文字を越えるヴォリュームになってしまいました。やはりそれほど「天皇」というテーマは掘れば掘るほど興味深いということがわかりました。「タブー」にしてしまっては勿体ないし、本来この国の主役であるはずの国民が何故か「萎縮」して思考停止では、それこそ明仁天皇に失礼だし申し訳ないという思いが今回しました。
 ちなみに私は天皇制に反対でも賛成でもありません。「別にいてもいいけど、いなきゃいないでもいい」という感じです。ただ存続するのであれば、もっと人間らしい扱いをしてはどうかと思います。人間らしいとは、例えば離婚だってしてもいいのです。なぜいけないのですか?国民の誰もが持っている権利を「この人だけは持ってはいけない」と国民が言える根拠はなんでしょうか.…皆さんはどう思われますか?

 最後まで読んでいただきありがとうございました。 

 

 







天皇陛下のブルーギル「持ち帰り謝罪」発言 舞台裏を証言|社会|地域のニュース|京都新聞 (kyoto-np.co.jp)

天皇陛下、その人間らしさ - BBCニュース


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