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身内の死を悲しめる人間になりたかった

人生の中で「自分のためにみんなが集まってくれる機会は3回ある」という言葉を聞いたことがある人も多いと思う。

1回目は自分が生まれたとき、2回目は結婚式、そして最後は、この世を去るときだ。

そのため、この言葉は「この3回の中で唯一記憶があるのは結婚式だけなので、結婚式は盛大に...!」というように使われることが多い。しかし今回は、3度目に人が集まってくれる「この世を去る時とき」について書いていこうと思う。

※先に言ってしまうが、このnoteは毒親ならぬ毒祖父だった祖父の葬儀中に
ふと感じたことをnoteを投稿した内容となっている。

毒親が亡くなったとき、私と同じように育ってきた人たちが悩んだり、苦しんだりするかもしれないなと感じたために書いている。そのため、世間一般的な考えとは逸脱している部分も多くなっているので、不快に思う人もいるかもしれないが、その辺は了承して読んでいただきたい。

訃報を悲しめない。むしろ心底ホッとしてしまった

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先日祖父が亡くなった。
元々体調が良くないとは聞いていて、この間の夏には愛知の灼熱にやられたのか、入院もしていた。

今回の訃報を友人に話すと「大丈夫!?」と心配してくれて、
いい友人たちに囲まれてるなと嬉しく思った反面、自身のとある感情に愕然とした。

祖父の死を1ミリたりとも悲しいと感じなかったのである。むしろ、心底ホッとしてしまった。

これは炎上覚悟でいうが、今までずっと「早く死んでくれ」と心の底から思っていたのだ。

祖父は、毒親ならぬ毒祖父だった

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なぜ、訃報を聞いて何も感じないのか?
なぜ、訃報を聞いて、心底ホッとしてしまったのか?

それは、単刀直入にいうと、祖父は毒親ならぬ毒祖父だったからだ。

私には歳の離れた弟が2人いるのだが、祖父母は老人らしく...昔ながらの男尊女卑の考えだったため、性別が違うということだけで弟はとても優遇され、私は異常に厳しく育てられてきた。搾取されていたと言ってもいいかもしれない。

多くの人は、祖父母の家が実家から遠い人も多いため、会う機会はそこまでないと思うが、実家から車で5分・徒歩15分の位置に住んでいたため、しょっちゅう実家に来ていたのだ。

この何十年間、実家に来ていたときや祖父母の家に行ったときに言われ続けていた内容としては...正直、理不尽な要求ばかりだった。

気持ちが落ち着いている今思えば「いや、お前が気に食わないだけだろ」「自分の思い通りにしたいだけだろ」と歯牙にも掛けないことばかりだが、
当時の私としては、ただ性別が弟と違うだけを理由に理不尽な要求を飲まされ続け、弟は何も言われなかった。それもまた不満が募っていた。

そんなことが多く積み重なり「こいつを殺して、自分も死んでやる」と思ったこともある。(もちろん、1度や2度ではない)
しかしそういった環境が当たり前だったため、「親や祖父母をの言うことを聞けない自分が間違っている」「相手を愛せない自分がおかしい」と思っていた。

だから「これはオカシイのでは?」という思いは勘違いだと、ずっとそういった気持ちを自分の中で押し殺してきた。
(先に言っておくが、ここ数年は特に色々な人と交流をもち、こういった状況やそう思い込むのは明らかにおかしいと気付き、物理的に距離を置いたため、現在は全く苦しんでいない。)

そんなこんなで我慢して、理不尽な...火山の噴火にひたすら耐え続けて20年以上が過ぎたころ、とある口論をきっかけに「もう縁を切ろう」と吹っ切れた。

とはいえ、結局「縁切るって具体的にどうやるの?」となったため特に何もせず、ここ2年は物理的に距離をおく生活を送ってきたのだが...、
自身の中で”関わりたくない存在”のレッテルを貼り、心底どうでもいい存在となっていた。

火山の噴火が無くなった今、良い思い出も蘇ってきた

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理不尽なアレコレという”火山の噴火”に怯えなくていい今、祖父との良い思い出が浮かぶようになった。

実はこの「火山の噴火」という表現は、私が20歳ぐらいからずっと愛読している作家(コラムニスト?)さんが言っていた言葉だ。


アルテイシアさん(@artesia59)という方で、両親がモラハラ父、アル中...というような両親ともに毒親育ちの方なのだが、3年ほど前にお母様がなくなったときのコラムに書かれていた。
>> VERY妻になりたかった母の死から学んだこと

これを読んだ当時は「なるほどなあ...。うちも親が亡くなったら、こう思えるのかなぁ(遠い目)」なんて思っていたが、祖父が亡くなった今、全く同じ気持ちを抱いている。

「あの人の孫」というレッテルが鬱陶しかったが、いいこともたくさんあった

実は祖父は、誰もが知っている...むしろ、知らない人は絶対にいないとある有名企業に勤めていた。

退社してからは、ウチの前の畑仕事を趣味にしながら、地域の治安維持?に貢献する、小学校などで農業について教える、農協の集まりか何かに参加し地元のお祭りなどでは飲食店のブースを出店する...などなど、
色々やっている”すごい人”だった。昔から、いわゆる地元で有名な人だったのである。

そのため、小学生のときには、学校近くに住むお年寄りをよんで昔の遊びを教える...というような授業があったのだが、いらっしゃった老人から「おじいちゃんの名前なぁに?」と聞かれ、知らない人がいなかったぐらい。
そのときは「うちのおじいちゃん、すごい人なんや!」なんて、誇りに?思っていた。

もちろん、孫目線で言えば、遊びに行けば美味しいものを食べさせてくれるし、お小遣いくれるし、何か買ってくれるし...というゲンキンな感情も入っていたと思う(笑)

地元の祭りでは出店している店(団子屋)に買いに行けば、2箱ぐらいサービスでもらったりしたし、野菜は今まで買ったことなかったし...、まあ正直、おじいちゃんメリットはたくさんあった。

もちろん、その反面「あの人のお孫さん」というレッテルが鬱陶しく感じたこともあったし、そういった環境だったからこそ、老人特有の”周りの目を気にする”部分が強く出て、理不尽な行動制限をされていたのかもしない...なんて今は思っている。苦しんだ記憶が消えるわけじゃないけどね。

安全地帯にいる今、思い出した「愛された記憶」

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祖父が亡くなり”もう二度と火山の噴火に怯えずにすむ”状態、要するに完全な安全地帯となった今、祖父との楽しかった記憶や良いところを思い出せるようになった。

小学生のとき、自由研究か何かで「親の職場に見学に行こう!」という課題があったのだが、勤めていた某有名企業に見学に連れて行ってくれたのだ。

祖父と2人で1時間ほど電車に揺られ、見学して...、帰りに受付のお姉さんから教えてもらった駅近くのスイーツ屋さんで買い食いをした。
そこからまた仲良く電車に乗って帰ってきて、地元の駅までおばあちゃんが迎えにきてくれた。

弟が生まれる直前は、おばあちゃんちに1ヶ月ほど住んでいた。
夏前だったから、冷凍庫にアイスを常備してくれていて、毎日アイスを食べていた気がする。夜は一緒に「世界ふしぎ発見!」を見た。

思えば小学生のときは夏休み期間中も、ずっとおばあちゃんちで過ごしていた。古い家だから風通しもよくて、ずっとゲームボーイアドバンスでゲームしていたと思う。もちろんこの時もアイスが常備されていた。

ほかにも、岡崎にある桜の名所に連れて行ってくれたり...。


こんなにも楽しかった記憶や良い思い出があるのに、なぜ毒を撒き散らす存在になってしまったんだろう。

白い花に囲まれて眠る横顔に、全てが浄化された気がした

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葬儀が終わると、火葬場へと出棺するのだが、その前に最後に顔を見てお別れをする「花入の儀」というものがある。

遺族や親族などの参列者たちが棺に花を入れたり、好んでいた食べ物や飲み物、使っていたカバン、手紙、御朱印帳などを入れて、最後のお別れをする儀式だ。

宗派や葬儀屋さんによって違うと思うが、今回は足元から色とりどりの花を入れ、最後は顔周りに胡蝶蘭を入れた。

棺の中が花で彩られ、花々に埋もれた横顔を見たら、それまで一滴も流れなかった涙が初めて流れた。

こんなに顔は細かっただろうか?胡蝶蘭の白に囲まれた横顔は、何故だか美しい...。そして、この世から消えたことで、過去の苦しみや恨みが薄れて、開放されていった気がした。

訃報を悲しめる人になりたかった。でも、今は全くそう思わない

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タイトルにあるようにずっと「身内の死を悲しめる人になりたかった」。むしろ、悲しめない自分にぞっとしたぐらいだ。

でも、今は全くそうは思わない。

このnoteは心配してくれた友人たちへの近況報告も兼ねているが、
「毒親育ちの人が、親を亡くしたとき、悲しめなくてもいいんだよ」ということが一番伝えたくて書いている。亡くなったことにホッとしてもいいし、「ざまあww」とか思ってもいい。

亡くなって仏様になったからこそ、自分に害さない存在になったからこそ、
そんな火山の噴火に怯えなくていい安全地帯になったからこそ、
落ち着くものが多いと思うから。

そういえば、私の母はずっと毒親だと思っていたし、友人たちにもそう話してきたが、真実はそうじゃなかったように感じる。
物理的に距離を置いているため気持ちに余裕があるからかもしれないし、
喪主となって忙しかったからかもしれないが...、今回葬儀のために帰省したとき、全く毒要素が見当たらなかったのだ。

帰りは友人に手伝ってもらい、実家から荷物を引っ越ししたのだが、友人から見ても毒要素がなかったと言う。

なんというか...家が近過ぎて、祖父の毒が移っていたんだと思う。
もちろん、母親に苦しめられたり、傷つけられたりしたことが無くなるわけではないし、赦すつもりもない。

でも、仏様になった祖父は二度と私を傷つけないし、毒を母や祖母に感化させることもないから、このままいつか過去の恨みや苦しみがすべて薄れて、全てが浄化されるといいなとは思う。


こうやって火山の噴火に怯えなくていい状態になったからこそ、安全地帯だからこそ、時の流れとともに赦していけるものなんだと感じた。

でも、こう思えるのは、祖父が死んだからだ。

だから、毒親で苦しんだ人たちは、亡くなったときに悲しめないことやホッとしてしまったことに悩まなくていいし、死を喜んでしまってもいい。
今苦しんでいる人たちは、物理的に距離を置いて離れて、死ぬのを待つのがいいと思う。(っていうかマジで距離置くのおすすめ。リゾバでもやろう)

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でも、もし来世があるなら、今度はおじいちゃんと一緒に農作業をしてもいいかもしれない。そのときは、休憩に「なごやん」でも一緒に食べよう。やっぱりおじいちゃんが作った野菜が一番おいしかったと思うから。

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