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「コーヒー」と書けなかった時代

変な話になるけれど、カタカナで「コーヒー」と書くことができなかった時代があった。多分、高校時代くらいから始まって、収まってきたのがつい最近のことなので、十五年くらいはそんな症状に悩まされていたようだ。

学生の頃に発症というと、当時は英語の授業で「coffee」を和訳する機会も多々あったはずだが、それはあまり問題なかった。困ったのは、日記や創作物などで自分の文章を書くときだった。そういうときに「コーヒー」、つまり大人の飲み物の代名詞の名称を、ほとんど子供の分際で書いてみせるというのが、なんだかとんでもなく気障なことのように思えていたということだ。そしてそれが巡り巡ってとても野暮に感じられるようになってきて、「耐えきれないなあ」なんて思っていた。かといって「珈琲」と表記するのも違う。英語で「coffee」と書いてみるのも馬鹿馬鹿しい話だ。それで、どうしたものかとしばらくの間は結構試行錯誤しなくてはならなかった。

そうしてやっとのことで思いついた解決策というのが、物を書くときにコーヒーの話題についてなるべく触れないことだった。面白いもので、絶対に書かないと決め込んでいれば、案外うまい具合に避けて通ることができるものだった。もちろん、もしかしたら「コーヒー」と書かなければならないタイミングに接近したことは少なからずあったけれど、何とか回避した。まるでゲームで面倒な敵をかわしたときの達成感のようなものを感じたものだ。

それが、今年の6月くらいになってようやく気にならなくなった。先日、note.でアイスコーヒーについてのつぶやきをする機会があったのだが、そのとき、「ああ、もう『コーヒー』って書いても悪い気がしないじゃん」と気が変わったのを感じたのだ。多分、「コーヒー」と書く前に「アイス」があって、この「アイス」が絶妙な緩和媒体になってくれたのかもしれない(これにもう少し早く気づいていればいろいろと違っていた可能性もあるけれど、それで本当に気が晴れたのかは謎だ)。

大袈裟な言い方かもしれないけれど、何だか憑き物がすーっと落ちていったような気分だった。同時に、「コーヒー」と書けないことで悶々としていた時代に一区切りついたのだな、というしみじみとした思いも生まれてきた。ようやく、「コーヒー」と書いても何とも感じないようになったのだ、と。

まあ、こんな話をしても誰の役に立つわけでもないだろうけれど、とりあえず、そういう状況を脱することができたのだということを書いて残しておこうと思ったのが、今回のnote.です。

 



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