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行く末は希望か絶望か~「人新世の「資本論」」

新型コロナウイルスの騒動が始まって、早一年が過ぎた。
この一年で社会は大きく変わってしまったが、これは終わりの始まりなのだろうか。そんなことを思わせる書籍が、いまベストセラーとなっている。
気鋭の若手社会学者・斎藤幸平著「人新世の「資本論」」である。

資本論というと、いわゆるマルクス主義や共産主義だとか、ロシア革命といったキーワードが思い浮かび、いずれも今となっては廃れてしまったものという印象が一般的ではなかろうか。

本書ではまず、現在の世界が直面している問題が資本主義によってもたらされているものであることを示し、その解決の方法を晩年のマルクスが到達した真の思想に見出そうとしている。

ポイント・オブ・ノーリターンはすぐそこ

筆者の言う問題とは、気候変動のこと。
その原因は、「グローバル・サウス」ー労働や自然資源を提供する側に回っているいわゆる南側諸国ーからの収奪をせずに維持することのできない、資本主義のシステムにあるという。

自動車の鉄、ガソリン、洋服の綿花、牛丼の牛肉にしても、その「遠い」ところから日本に届く。グローバル・サウスからの労働力の搾取と自然資源の収奪なしに、私たちの豊かな生活は不可能だからである。

そもそも資本主義とは、「囲い込み」の経済である。フラットな状態から一定の区画を囲い込み、「希少性」を持たせること、差別を設けることで一部の分野だけを豊かにする仕組みなのだ。だからそこには持てる者と持たざる者、奪う者と奪われる者の両者が必ず生まれる。
しかし、その収奪ももはや限界にきている。それが地球規模の気候変動となって大きなしっぺ返しとなっているのだという。

資本は石油、土壌養分、レアメタルなど、むしり取れるものは何でもむしり取ってきた。この「採取主義」は地球に甚大な負荷をかけている。ところが、資本が利潤を得るための「安価な労働力」のフロンティアが消滅したように、採取と転嫁を行うための「安価な自然」という外部もついになくなりつつあるのだ。

経済成長ではなく「脱成長」

この問題に対して、いままでの経済学者たちは一様に「経済成長」と「技術革新」による解決を提示し続けてきた。
しかし、この数十年これだけ経済発展したかのように見えても、一向に問題は解決するどころか、悪化の一途を辿っている。
そこで筆者が掲げるのが「脱成長」である。

労働を抜本的に変革し、搾取と支配の階級的対立を乗り越え、自由、平等で、公正かつ持続可能な社会を打ち立てる。これこそが、新世代の脱成長論である。

この「脱成長」を達成するために、マルクスの提示している考え方を取り入れていこうというのが本書の後半でつづられていく。

「使用価値経済への転換」、「労働時間の短縮」、「画一的な分業の廃止」、「生産過程の民主化」、そして「エッセンシャル・ワークの重視」である。

希望を見出すか、絶望に打ちひしがれるか

なかなか刺激的な書物であった。一つ一つの論は説得力に富み、うならずにおれない。いままで安穏と生きてきたことを反省させられるばかりである。しかしそれ以上に、目前に迫る、いやすでに始まっている危機は、解決が困難な状況にあることが知らされる。

一方で、筆者の述べる解決策についてはいまいちピンとこない。果たしてそんなにうまくいくだろうか、と。
かつての共産主義への批判の一つに、人間を見ていないというものがあったが、今回の論もそれに同じではないだろうか。人間はそんなにキレイなものではない。みながみな、マジメに地球の行く末を案じているわけではないのだ。

白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき

かつて江戸時代の寛政の改革で奢侈な生活の引き締めを図った松平定信。一定の効果はあげたものの、次第に”自粛疲れ”を起こした江戸の町人らはこのような歌を歌い、昔の賑々しい世の中を懐かしんだという。
いまの何でも手に入る便利な生活を少しでも棄損するとなれば、どれだけの人が賛同するだろうか。それほど今の資本主義の誘惑は強い。かつて宗教はアヘンであると言われたが、資本主義こそアヘンであろう。そう思うと、我々の未来は希望よりも絶望が待ち受けているのだろうか。

ベストセラーとなった本書。ぜひ他の人びとがどう読んだか、その感想を聞いてみたいものである。

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