短編小説・神戸駅前三宮事件

 それは淡い色のついた夢。どこまでも透明な水彩画のような夢。

 赤、それは鮮明な生きた色。

 人間、それは残酷な深い闇の色。

 ――子供の頃、僕はあのテレビに出ているようなすごい人たちになる。そう思っていた。美しく誰からも愛され、そして尊敬される。そんな人間に――。
 

 何か全国的に難しい算数のテストで百点をとった。
「あなたはきっとすごい人間になるわ」
 母は僕に言った。僕もそう思った。

 僕はいつも何かに守られていた。

「これでアイスを買いなさい」
 母が僕に百円玉を渡す。
「どうしたの?アイスは?」
 戻って来た母は僕の顔を覗き込む。
「募金した」
 僕は赤十字の看護婦さんたちが募金箱を持って立ち並ぶ駅前を指差した。
「まあまあ」
 母は感激の声を上げる。
「あなたは本当にやさしい子だわ」
 母は言った。僕もそう思った。

 輝かしい記憶の断片。

 それは確かに僕だった。

 青、それは希望の色。

 空一杯に満たされた光り輝く希望の色。

 僕はこの世界を信じていた。この世界には確かにはっきりとした、幼い子どもの頃に見たクレヨンの色見本のような鮮やかなやわらかい色彩があった。

 ―――

 夢の色、それは儚い幻の色。

 

 ――いつしか世界は灰色になっていた。無味無臭の色のない冷たい世界。それが真実の世界だったのだと、いつしか気づいていた。

 幸せになると信じていた世界の虚構に、もう、子どもみたいに夢を見れなくなっていた。

「・・・」
 テストの結果に愕然とする。学年で発表される成績上位者の中に、僕の名前はなかった・・。

 こんなはずじゃ・・。

 こんなはずじゃない・・。

 
 ただ、現実があった。ただ、そこには濃い現実の色があった。

 ただ・・、

 気づけば、ただ目の前の苦しみに、傷つかないように生きることだけが精いっぱいの日々。
 

 この世界の片隅に漂う残酷に、心が凍ってしまいそうになるのを必死に酒で温めた。

 手の届かないテレビの向こう側の光の世界。この暗黒から救って欲しいと手を伸ばす。
 それは届かない、触れることのできない固い、絶対の距離。

 そこにあるはずだった僕の人生の輝き。

 なぜ、なぜ、僕はここにいる?

 暗い部屋。

 なぜ、僕はこうなっている?

 一人の僕。

 なぜ、僕はこうなってしまった?

 受け入れられないこの世界の残酷を、無理やり押し込まれる意識の拷問。

 この現実を現実として受け止めきれないあまりに非情な現状に、それでも容赦なくこの現実はやってくる。これが現実なのだと。これが現実なのだと。何度も何度も叩きつけるように現実は突きつけられる。

 酒に酔うことでしか救われない日々。

 頭に浮かぶ思い出は、こびりつくあいつのにやついた顔。

 どんなに酒に酔っても、あいつの顔だけは消えなかった。

 自尊心、自尊心・・。

 傷ついた自尊心。

 母は泣いていた。

 二日酔いの酸っぱい吐き気と、胸をかき回されるような気持ち悪さと、痺れた頭に漂う無気力を引きずり、今日も僕はあの世界に目が覚める。

 世界はやっぱり、まだあの世界のままだ――。

 全身を這うような絶望感が、ぴりぴりと駆け巡る。

 世界は残酷な、あの色のままだった・・。

 人間の汚さの髄を絞り出した黄土色と、血のにじむ反吐を無茶苦茶に混ぜたどす黒いうんこ色をしたクソみたいな底辺労働の日々。

 
 膿汁を吹き出す大きな吹き出物のような腐臭を放つチンカスみたいな人間たちの群れに、ただ削られていくだけの日々。

 亡者のような最底辺の人間が互いに威張り合う地獄の世界。

 そこはあまりに薄汚く荒んでいた。

 
 ――暗い部屋。世界はテレビのブラウン管から漏れる光だけ。

 光りの先には少女がいた。純真無垢な少女はゴミの山でゴミを漁っていた。

 少女のそのあどけない無垢さから見える、自覚のない惨めさが、僕の心を堪らなく引っ搔いた。目の奥に熱を感じ、涙が溢れた。
 彼女を救いたい。何としても幸せになってほしい。心の底からそう思った。
 テレビ画面の向こうのその小さな体に、幸せになってほしいと心の底から思った。

 眠る前の一瞬の安らぎ

 まだ愛され希望を持っていたあの頃の僕の世界は、夢だったのはないか。今ではそう思う。淡く切ない想いが、胸の中で悲しい幻想曲のように響き渡る。

 ――しかし、やっぱり、目の前にあるのは、冷たい孤独と錆びついた絶望。

「・・・」 

 僕は現実の前にうなだれ、無力に泣いた――。

 世界は、煌びやかなカラーの世界。そこに僕だけが、一人白黒で歩いていた・・。

 人混み。

 重い塊のようなコンプレックス。押し込まれる劣等感。

 敗北・・。

 敗北・・。

 敗北・・。

「敗北っ」

 それはただ、敗北だった。

 キリキリ、キリキリと頭が痛む。

 グラグラと世界が揺らぐ。

 水色の世界に巨大な泡がほわほわと浮かんでは消えてゆく。世界は質量を増し、波打つ空気が歪むのが見える。大地は上も下も平衡もすべての安定を失っていく。

 キリキリ、キリキリと頭が痛む。

 
 形のはっきりしない人々の黒い影がゆらゆらと揺れている。それは笑っていた。みんな僕を見て笑っていた。

 そんなはずはないと、何度も頭から振り払い、何度も確認するが、やはりそれは僕を見て笑っていた。

 それは確信。心の奥からの確信。それはありとあらゆる言い訳も、理屈も通用しない絶対だった。

 背中に冷たい戦慄が走る。胸の奥に何か鋭く尖った、鋭利が突き刺さった。

 ガタガタと、僕という存在の連続が、恐怖に震えだす。価値の不安。意味の不安。自分が生きているということが、罪悪だった――。

 ガラガラと僕の何かが崩れていく――。

 

 ――速報です。○○線の女性専用車内で男が、刃物で次々と女性を切りつけ、十人以上が重軽傷という・・――

「あいつもあの色を見たんだな」

 世界はやはりあの色で満たされている。

 あいつは僕だ。僕はあいつだ――。

「助けてくれ、助けてくれ」

 一っ時の些細な快楽に身をゆだね、なんとかその苦しみから逃げ出す。酒を飲み、酒を飲み、とにかく逃げ出す。

「僕は壊れていない」

 僕は壊れている。

 いや、壊れていない。

 僕はまともだ。

「僕はまともだ」

 鏡に映る僕の目は、赤く、銀色に光り輝いていた――。

 青、それは絶望の色。

 空のすべてが、絶望の色に変わっていた。

 僕はそれを見た。

 怒りと絶望が手を握る。

 

 僕は決意した。

 光の粒の残滓の影の片隅に、僕はいた。

 あの夢想した世界が今、目の前にある。

 でも、そこにリアルはなかった。むしろ夢想していた世界の方が現実であり実在だった。

 四輪駆動車のアクセルを思いっきり踏み込む。

 世界はどこか剥落した空気の断片に滲んだ水彩画のようだった。熱せられたアスファルトに歪められた空気の淀みの中で、人々の顔や体がひしめき合い、混ぜられ絡まりあっていく。車に当たる人間の重みが、普段感じることのできなかった人の存在感が、ぼこぼこという軽薄な音と共に体に伝わってくる。
「こんなものだったのか」
 呆気ないほどの人という存在。

 三つの原色の光が無限の色を作っていく。その光に包まれて、僕は人を殺していく。それは殺人などという重厚なものではなく、どこまでも質量の無い、軽薄な、どこまでも透明な水彩画の世界だった。

 それは質量のない、散りゆく虹の花びら。 

 車に轢かれ倒れゆくスーツを着たサラリーマン。ボンネットに跳ねあげられる若い女。人形のように腰を曲げ、バンパーに食い込む青年。僕を囲むガラス窓に映し出される逃げ惑う人々。僕はそれを見ている。
 その時、僕は不思議なくらい冷静だった。そこには何もなかった。それは透明な感情。時間はゆっくりと、ゆっくりと流れていた。このまま止まってしまうんじゃないかとさえ思えるほどゆっくりと時間は流れていた。
 透明な空気が、透明なまま質量をもって見えていた。それは時間だった。時間は存在し、確かにそこに流れていた。
 僕は何度も何度も人混みに突っ込んでは、また方向を変え、バックしては突っ込んだ。

 それは黄金に輝く歓喜の色。太陽の熱量をすべて受け止め咲き誇る向日葵の無限の群れの黄金色。

 突然、黒い細身のスーツに身を包んだ、アニメのキャラクターのように髪を金髪にして横に流し固めた男が目の前に現れた。その瞬間、なぜかこいつだけは何としても殺さなければと思った。何としても、こいつだけは――。
すべての、僕の苦しみのすべての元凶がこの男であると、なぜかその時分かった。僕はどうしてもこいつだけは殺さなければと思った。
 それから、ただひたすらその細い背中を追いかけた。何度も何度も小刻みに右往左往する細い背中を、こちらも何度も何度も必死でハンドルをきり、執拗に追いかけた。車体が軋み、僕の腕も軋む。
 世界はその男を中心に、色の残像に溶けていくように、淀み、そして流れていた。
 ついにそいつを横断歩道の脇に追い込んだ。そして、僕は渾身の力を込めて全力でアクセルを踏んだ。重厚な思いとは裏腹にポコッという軽薄な音とともに、そいつは轢かれて行った。
 だが、その細い背中が倒れ、視界から消えた瞬間突如目の前に電柱が現れ、避ける間もなくぶつかった。大きな衝撃と共に腹と胸が鈍くハンドルに食い込んだ。車のボンネットが大きくせり上がり車内が一瞬で暗くなる。   
 ゆっくりと顔を上げ、フロントガラスの向こうに変形した黒いボンネットの質感を感じた時、初めて心臓がドクドクと激しく鼓動を始めた。全身に血がものすごい勢いで駆け巡る。
 僕は慌ててギアをバックに入れて思いっきりアクセルを踏んだ。しかし、すぐに大きな鈍い金属がこすれ曲がる音があがり、ものすごい衝撃と共に車は止まった。振り返るとすぐ後ろに乗用車がいた。何度も何度もアクセルを踏んだが、乗用車にブロックされ車はそれ以上進まない。必死で、ギアをバックからドライブに、ドライブからバックにを繰り返す。思い通りに素早く動いてくれない車に焦りと怒りで頭が痺れる。
 焦り、焦り、焦り、絡みつく水彩の水たまりが全身に抵抗してくる。
 僕はせり上がる興奮と混乱を抑えながら、腰に巻かれたベルトに仕舞われたダガーナイフを、力をいれ思いっきり引きぬくと車の扉を開けた。出て直ぐに、僕に飛びかかって来た太鼓腹のおやじを刺し、辺りを見回した。歩道の信号機の下に茫然と立ちすくむ何人かを見つけると、そこに僕は走った。彼らはただそのまま立ち尽くし、硬直したまま次々に倒れて行った。
僕の右手には温かい感触が残った――。

 赤、それは実態。ぎとぎととした油絵の具のような生々しい赤。

 僕の中にはあの光景があった。怒りと屈辱の日々。僕の目の前にはっきりとそれが現実として見えていた。同級生たちが笑い、蔑み、嘲る、そのすべてが今、目の前に揺れ、グルグルと回っていた。
「お前は間違っている。間違っている」
 声が聞こえる。同級生たちの声が聞こえる。
「うるさい。うるさい。うるさい。うるさい」
 僕はダガーナイフを振り回す。
「うるさい。うるさい。うるさい」
 あの時、キスを許してくれた、薄汚いピンサロの狭い部屋に苔むす女の子。
「うるさい。うるさい」
 最初で最後のキス。
「うをぉ~」
 怒りと憎しみと、もうなんだか分からない感情と、掴むことのできない漠然とした苦しみ。それらすべてを殴り倒したかった。無茶苦茶に殴り倒してやりたかった。
 もう、目的も何もかも見失っていた。すべてがどうでもよかった。世界は茫漠としていて、虚しく、悲しかった。でも、この世界のありとあらゆるすべてを破壊してしまいたかった。すべてを、すべてを壊してしまいたかった。この世界を形作る価値や意味、この世界のありとあらゆるすべてのこの色を、無茶苦茶に切り裂いてやりたかった。
 そして、それができる気がした・・。 

 ガァ~ン
 ものすごい衝撃が背中に走った。それが何なのか訳が分からないまま、僕は固いざらざらとしたアスファルトの上に倒れた。
 その瞬間、あの淡い水彩画の色は失われ、世界はあの見たくもないあの肉厚な色をしていた。世界はいつもの時間が流れ、生々しい生きた濃い色が目の前にあった。
 僕の体にいつもの生身の感覚がはい昇ってくる。世界に質量が戻り、縛られた物理の法則の中で、僕の体は鼓動していた。
 僕は呆然とその場に転がっていた。気づけばありとあらゆる感情の視線が僕を突き刺していた。体の芯を何か冷たいものが伝っていくのを感じながら、右手にしっかりとこびりつくように握られたナイフを見る。顔を上げると目の前に立ちはだかる警官が、ものすごい形相で僕を睨みつけていた。
 興奮し僕を睨みつける目。そこには絶対の現実があった。ただそこにどうしようもない現実があった。
「違うんです。違うんです」
 僕は慌てて叫んだ。
「僕はこんな人間じゃないんです。違うんです。本当なんです」
 僕はナイフを振り回しながら立ち上がり、必死で叫んだ。しかし、僕を見る敵意の眼差しは、どんどん大きくなり迫ってくる。一人の警官が長い棒を振りかざし襲い掛かって来た。その振りかざされる棒を必死でよけながら、僕は尚も叫び続けた。
「違うんです。違うんです」
 僕は泣いていた。感情がぐちゃぐちゃで、悲しいのか怖いのか興奮しているのか訳が分からなかった。警官たちはじりじりと、容赦なく迫ってくる。僕はやたらめったら右手に握られ固まったナイフを振り回した。
「来るなぁ。来るなぁ。来ないでください。来ないでください」
 僕はナイフを振り回し叫んだ。
 ごふっ
 また、体に衝撃が走った。今度は棒のようなもので殴られたと分かった。
 怯んだ僕に次々と警官が飛び掛かってくる。
「違うんです。違うんです」
 体中を殴られ、押さえつけられながら、僕は叫んだ。
「違うんです。僕はこんな事する人間じゃないんです。違うんです」
 僕は叫ぶ。
「おらぁ~」
 警察官は怒声を上げながら、ものすごい力で僕の体を硬いアスファルトの上に腹ばいに押さえつけた。
「確保。確保」
 古いトーキー映画のように聞こえる声。アスファルトのざらざらした表面の硬さが頬に食い込む。僕は、ものすごい力で押さえつける警察官を振りほどこうと体をよじった。
「違うんです」
 その時、自分でもびっくりするくらいの力が出て、何人もの警官に抑えつけられているにも関わらず、体を少し浮かすことが出来た。
「おらぁ。大人しくせんかこら」
 警官の怒声が響きわたる。僕は再びアスファルトに押さえつけられる。それでも僕は尚も体をよじりなんとかその状態から抜け出そうとする。しかし、それを上回る圧倒的な力が僕という弱い肉体を完全に押さえつける。
「違うんです。違うんです」
 尚も僕は必死で叫んだ。しかし、その声はまったくなんの感情も持たない何か大きな塊に拳をぶつけるように、虚しくそして無残に何の手応えも無くその空間の中に霧消していった。僕はなぜこんなところでこんなことをしているのだろう。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。
 僕は、僕はもっと人から愛され、尊敬され、輝き、うらやましがられる、そんな人間になるはずだったんだ。これは何かの間違いだ。間違いなんだ。
「違うんです。違うんです」
 僕は叫ぶ。
「違うんです」
 混乱と混沌の中、歩道に人が集まり出していた。群衆の目、目、目が僕を見つめている。怒りと興奮と好機の視線。その中に、浮き立つように立つ一人の女の子。恐怖と蔑みと怯えきったなんとも言えない目。その子も僕を見ていた。
「やめてくれ。やめてくれ。そんな目で見ないでくれ」
 それだけは嫌だった。そんな目で見られることだけは嫌だった。
「違うんだ。違うんだよ」
 僕はその子に向かって叫んだ。
「僕はこんな人間じゃないんだ。こんな人間じゃないんだよぉ~」
 本当はやさしい人間なんだ。本当はもっとすごい人間なんだ。そんな目で僕を見ないでくれ。分かってくれ。僕は・・、僕は・・、こんな人間じゃないんだ・・。
「違うんだ。違うんだよ」
 違うんだよ・・。涙が出てきた。堪らなく涙が出てきた。
「違うんだ・・」
 僕は本当はとてもやさしい人間なんだ。こんなとこでこんなことをする人間じゃないんだ。違うんだ。何かの間違いなんだ。僕は立派な人間になるんだ。みんなから尊敬される人間になるんだ。涙が出た。悔しくて、悔しくて、僕は泣きながら叫んだ。
「違うんだ。本当に違うんだ」
 しかし、僕が叫べば叫ぶほど女の子の表情はさらなる恐怖に包まれていった。もうそれは、揺るぎのない、決して戻らない時間のように、確信であり、容赦のない断定であった。その目は、そんな絶対を僕に突きつけていた。
「違うんだ。違うんだ」
 それでも僕はひたすら叫び続けた。
「うううっ、違うんだ・・、ちがうんだよ・・」
 僕はやさしい人間なんだ。やさしい人間なんだよぉ・・。
 しかし、無力な言葉の断片は、圧倒的現実の中にかき消され、女の子の目の中に映る僕への恐怖のそれは、完全に、無惨に、確定しいた・・。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?