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ポストロックが好きなんだが

音楽で特に好きなグループを見ると、ジャンルはどれも、「ポストロック」だ。

蓮實重彦という人の「「ポスト」をめぐって-「後期印象派」から「ポスト・トゥルース」まで」というタイトルが目に「ばーん!」と飛び込んで手にした「新潮」2019年2月号。

美術に詳しくは無いけれども、「後期印象派」という呼称の「後期」は、ポストという単語の意味を考えると、ちょっとおかしくないかと思うのだけれども、本屋でこの稿を見てみると、やっぱりこの人もそう思っているようなので、購入した一冊だ。

「ポスト」という単語が気になって仕方が無くて、この稿は、購入してから何度か読み返している。何かすっきりずばっと言ってくれているわけでもないし、固有名詞が沢山出てきて知らないものも多いので、全部わかったというわけにはいかないのだけれども。

蓮實氏はこう書いている。「彼は、1886年のある雑誌記事の中で、Néo-impressionisteあるいは Post-impressionisteという呼び名によって、Impressionismeが相対としてその意味を失ったとその死亡を宣言したのであります。[中略]その後、NéoよりもPostの方が接頭辞として珍重されたかにみえるのは、おそらくその接頭辞が持っている否定的な機能に人類がより敏感だったからでしょう。」
「「ポストモダン」という呼称は、いまだ確かな輪郭のもとにとらえられてはいない「モダン」なるものを全面的に否定することで、かえってこれを存在させてしまう。」

その後、アメリカ合衆国大統領トランプ氏がその渦中となっている、「ポスト・トゥルース」や「フェイク・ニュース」といった新たな語彙について語られる。

つい先日の京都アニメーションの惨劇が頭から離れなくて、山本寛監督の「アニメ・イズ・デッド」という講座(?)の動画と、岡田斗司夫監督の「オタク・イズ・デッド」という講座(こちらは途中。3時間に及ぶ講座。途中の、宮崎駿とその息子の宮崎吾郎についてのエピソードなどが、めちゃめちゃ面白い)を視聴した/している。アニメやオタク(おたく)がどうして終ったかということが語られていて、とても面白い。

この事件については、余りにも凄惨で、人々の記憶から消えることが無いだろうと思う。犯罪史について私は詳しくないけれども、犯罪にはやはり、時代性などが現れる(賦与される?)のではないか、と思う。この時代との関連性をどうしても考えてしまう。

そして、今日またこの「新潮」のポストについての稿を読み返したら、「死」や「終焉」という単語が出てきて、今視聴中のこれらの話との共通点が見えて、なんだかびっくりした(これらの講義のタイトルと被っている)。

さて、今騒がれている「れいわ新選組」だけれども、これも何かを「ポスト」に追いやるだけの力を持っているように感じる。

れいわについて、色々言われているけれども、問題は政策の「正誤」ではないだろうと思う。政策の正しさを競いあって、一番正しいところが、一番票を得るわけではないというのを、私たちは見てきている(ひとつの正解など、もともと有りはしないけれども)。

このパワーが、今後「ポスト」とするものは、何だろう。というところを、みんな、わくわくしているのではないか、と思う。

これまでのものに、飽き飽きしていればいる程、期待する気持ちも大きくなるだろうし、そういう意味では期は熟している様に、私は感じる。

ひとつ、この稿では、「ポスト」の二重の機能として、否定する機能そして、それが故に存在させてしまう機能について繰り返し指摘している。

「ポスト」されるものが、存在させられてしまうのは、さて、好ましいのか好ましくないのか。私は好ましいのではないかな、と思う。

何故なら、問題が可視化されるからだ。これまで、(充分に力強い)対極が存在しない故に、なんとなくそれが当たり前だとされてきたことが、そうではなかったのか、と人々に気付かれるようになるという形で、存在させられるようになるのだと思う。

こんなことは分断を生むという心配の声もあるかもしれないけれども、物事はこうやって、進んでいくのだと思う。問題のあぶり出し。がないと、克服のし様もないのだから。(ただ、ポストさせられる旧勢力的なもの求心力も、比例して強くなることも考えられるけれども。でもその場合でも、今度は、無意識の、良識派を装った確信犯にはなりにくくなるのでは。)

この世の中には、色々な力やファクターがあるので、今後こうなると私は予言している訳ではなくて、そういう力の高まり、時代の機運を感じる、と言っているだけです。

追記: 政策が大切ではないと言っている訳ではありません。

追記2 : ただ、人々の共感を集める力は、政策そのもというよりは、政策や選挙のやり方も含め、そこに現れる、姿勢や立ち位置、視点、これまでの実績の蓄積などの総合的なものなのだと思います。その意味で、政策「だけ」見て論じるのは、pertinentではないないのでは、とは思います。

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