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経験のないことはできない(基本的には)

数年前の夏。とある海辺の温泉地でうかれていた僕は、ふらり昼食にはいった店で焼き魚とビールを注文。気の利いたお通しにはじまり、ご飯に味噌汁、そして焼き魚……と順調に続くが、いつまでたってもビールがでてくる気配がない。もしかすると、オーダーがはいっていないかもしれないと、若い店員にたずねてみれば「えっ、食後でなくていいですか?」と聞き返される。不思議におもいながらも、あ、はい、いまお願いします、といえば、厨房からは板前さんの叱責。おそらくこのふたりは親子。高校生とおぼしき店員の彼は夏休みのあいだ、繁忙期となる家業を手伝っているのだろう。たぶん。

たどたどしくサーヴィスをおこなう彼のようすをみながら、ふと思いつく。かんがえてみれば、ファミリーレストランはじめ、およそ高校生くらいまでの年頃のうち、自覚的に経験する外食では、ジュースなりコーヒーなり、食後に飲み物がでてくることもおおい。そうかそうか、彼にしてみれば、その順序のほうが自然だったのかもしれない。

さらに数年を遡った冬。友人へのプレゼントとして、ステンレス・ポットをもとめたとき。これまた不慣れそうな店員さんに、ギフト包装でお願いしますとつたえれば、店頭にならんでいたものをそのまま包装紙でくるみ、事も無げに渡された。この手のキッチン用品の場合、基本的には展示物とはべつにバックヤードの新品を販売するものだろうし、店頭品だとしても衛生上、なんらかの掃除はされるはず。なにより、鏡面仕上げの製品だから、指紋や手垢が気になるもの。くわえて、それなりの商品だから専用の箱もあるはず。もちろん、そのときは呆気にとられたが、帰りの電車のなか、その方のたどたどしい所作をおもいだしながら、もしかすると仕事として不慣れで、かつ本人もそうした商品をもとめた機会がなかったのだろうな……と気づき、なんだか悪いことをした気分。自戒の念をももちながら、その足で東急ハンズで消毒液と研磨剤を、伊東屋で箱と色紙を購入し、ギフトに仕立てた。

基本的に経験のないことはできないのかもしれない。デザイン専門学校講師をはじめたころ、学生から「初期段階でアイデアがでない」という相談をされることがおおかった。はなしを紐解いていけば、それは本人の努力不足や才能云々のはなしではなくて、単純に経験値がないだけのこと。以来、フィールドワークやワークショップ、グループディスカッション、あるいは資料調査など、実体験をふまえた授業プログラムをくわえていくうち、そうした傾向はおどろくほどなくなったし、学生たちもまた、あたりまえのように授業外でも、そうしたインプットを日常的におこなうようになっている。

ふだんお世話になっている音楽の先生から聞いたはなし。彼が学生時代、理解できない譜面を片手に講師をたずねてみると、こともなげに「こういうことだよ」とピアノを弾きながらしめされたそう。その瞬間、体感的に理解できたらしい。あたまで考えるにも、結局はデータベースとしての経験がないとしょうがない。柳宗悦いうところの「見テ知リソ、知リテナ見ソ」。経験よりさきに知識があっても、それをドライヴすることはできない(反対にいえば、経験を展開なり、拡張するには知識が必要なわけですが)

伊丹十三のエッセー「女たちよ!」に、こんな一節がある。いわく ‘料理をする場合、一番大切なのは舌である。味覚である(中略)必ずしも美食ということでなく、漬物でも味噌汁でもいい。味の深み、というものを舌で知っていることが先決問題である(中略)一方、味覚の鈍い人の唯一のよりどころは、例の、だしカップ一杯半、砂糖大匙三杯みたいな数字だけである。イメージがないから、妙な味になってもなおすことができない’

毎年、夏になると高校生をはじめとした入学希望者相手に講座をおこなっている。もっともおおい質問は「デザイン学校の入学以前にやっておいたほうがいいこと」というもの。もちろん、いろんなものを見て、聞いて、経験してきてください、とこたえています。


29 August 2018
中村将大

|補足|
いっぽうで、60歳の若さでなくなった小津安二郎が描いた老人のリアリティ(演者である笠智衆もまたそう)や、細野晴臣によるエキゾチズムなどなど、当事者は未経験であろうはずだが、とてつもない想像力で成功率しているケースも確かにあるから、経験ばかりを礼賛し、未経験を無意味に否定するつもりはない。なのでタイトルには括弧づけで(基本的には)とした。

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