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【短編小説】グリーンな日【エッセイ】

チャ、チャ、チャ。


おもちゃのではない。生身の人間。年老いているが。
背後の座席で、なぜかずっと口を鳴らしている。唾液のねちゃつきを容易に感じられる音をバスの車内に響かせている。

ちょっとした旅行の荷物のように押し込められた車内は、昨日よりいくらか陽気そうな雰囲気をみせる。チャ、チャ、チャ、この爺のリズムがそうさせる。

薄汚れた遅暮の一生が、唾液を口の中でウジ虫のように跳ね回らせる奇癖を生ませた? 現代文学はみじめな彼に寄り添い、主題を見出すことをしなかった。ここに、退廃的な、逆転する美を見つけなかった。
ペール・ラシェーズ墓地を掘り返し、国際線に載せてここへ来れるならあるいは。

否、この臭い車内に奇跡はない。
すべてはかさついたエネマグラにすぎない。

駅前、誰か一人が必ず疾走している午前7時20分。

アスファルトが黒いのは昨晩の雨のため。孤独な夜雨は駄々をこねる子供のように雨戸の外でうるさく、その涙を浴びて大地は塩からく濡れそぼった。浅い眠り。ああいう晩でも、心の神経を切除して生き延びた人々はたやすく眠れたのだろうか?

柳の下に横たわる赤毛の犬が、降りしきる碧雨に冷たくかためられていく。はてしない緑、水垢に侵された鏡のような池が遠く光を反射しているほかは、雨を吸って活き活きとグロテスクにその色を濃くする緑緑緑。
緑の地獄。

でももし、眼精疲労の回復にむいている緑夢に無縁で暮らせるとして、それはもはや死と変わらないのでは? だからもう夢を見ない私は死んだ。

100こ以上の人間の顔を見ている。でも1この顔も思い出せない。私たちは互いに興味がない。私たちは、絵に書かれた顔によほど大きな興味がある。より清潔で、より媚態をさらしてくれる人間もどきを強く信頼する。それが寂しい日々に寄り添う。

生きて動く人間など汚くて仕方ない。

隣を歩く男の視線を追ってみる。

暇つぶしに。

お互いの重なり合う視線は、女子高生の膝の裏のくぼみに吸い込まれる。張り付く紺色のハイソックスの上、揺れる制服のスカートの下、布に挟まれるようにしてそこはくぼみ、影が溜めて暗い色をしている。視線は上にずりあがり、頭頂部に至る。緑髪は湿気で重みを増し、蛍光灯にずぶ濡れに濡れている。その幼い女が、隣を歩く男の娘でないことだけは確かにみえる。二人は駅のホームで別れる。乗る路線が違う。

あるいは、男は胸の裡で幼い女に別離の挨拶をするほどに純粋だっただろうか。
残念ながら(あらゆるすべての人生は「残念」である)相手の胸に別れの言葉が湧き出すことは永遠にない。彼女は誰とも別れてなどいなかった。

私たちは互いに興味がない。

安いA4コピー用紙ぺら1枚を真似てひらりと電車に滑り込む。降車する人々の隙間を、A4コピー紙はすり抜けることができる。

なかには、コピー紙に安んじない者もいる。猪突猛進。勇ましき無能。彼らは長い傘を真ん中あたりで水平に持つ。そのため、後ろを歩く人間は傘に刺されないよう距離をとり避ける。
角や牙を欲しがる弱者の深層心理のようだ。

鼻息はしぜん荒く、目は生卵の白身をかき混ぜたようないろをしていてよく見ると、カビが生えている。

車窓に油がこびりついていた。もっと早い時間に、誰かが整髪剤をこすりつけた。窓外に整髪剤の油で歪んだ風景が広がる。

醜い合理主義の箱、棒、塊。私が生まれる前に全ては終わっていた。創る時期は終わり、保守の時期も過ぎ去り、ただ朽ちるのを見守っている。

この国に再建の元気はない。この風景はこれからの風景ではない。これでおしまいの風景だ。もうこれ以上はない。ここからの進歩はない。枯れ切った大地。ツギハギのようにアスファルトの敷かれた大地は、雑草たちにまんべんなく栄養を与えることで精一杯らしい。

艸木虫魚の暮らすここに、人間の居場所はない。

早朝の駅前には一人の人間がしゃがみ込み、身辺を所持品で囲っている。自分の領土であることを示したうえで、ささやかな堤によって無神経な侵入から寄る辺ない体を守ろうとするように。だが、その領土は悲しいほど謙虚に狭い。寝そべれば足がはみ出す。

とはいえ、それだけでじゅうぶんらしい。(じゅうぶんらしい? じゅうぶんらしいはずがない……。)

夜、疲れ果てた人々が駅の階段を降りるのに合わせて老婆が嬌声を上げた。猿の鳴き声のような哀愁を連れ、その表情は狂気を潜ませている。

老婆は、そこで辻演説をしている候補者のファンらしい。私も名前だけは知っていた。若く、スーツの上にハッピのようなものを羽織っている。所属を示すオリジナルのハッピは、候補者の唯一のセールスポイントである熱心さを強調するために選ばれた。

支持者たちの囲みが出来上がっていた。断続的に湧き上がる拍手。熱っぽい視線。子の晴れ舞台を見守る親の心持ちで見つめている。

私は明日も仕事だった。だから、素早く帰宅する。

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