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日本語の先生の養成講座で見つかるもの。

日本語教師の資格をとってみたいだけで、本来の目的は別にある、という方が多い。
たとえば、誰かと触れ合える場所が欲しい。何かについて語り合える人が見つかるのではないか。模擬授業なるものをやってみて、自分を表現してみたい。更には、とにかく今の現状から脱したいという人もいる。
最近では、人前で話すことが苦手なので、それを克服するには言葉を教える講座が良いと思った、という人にも何人か出会った。

僕がこの資格をとるために、養成講座に通っていた頃は「ここは日本語の先生になるために学ぶ場所です。同じゴールを目指して歩いていきましょう」という雰囲気を感じることが何度かあった。思い返してみると、それは日本語教師を生業にすることを前提とした人々が多かった、ということかもしれない。勿論、それは今現在の状況においても変わりはしないと思うし、本来の姿だと思う。

僕が大学生だった時の話だ。学校の教員には最初からなる気などなかったのだが、大学在籍中の4年間で教職の免許がとれるのは得な話だと思い、教職課程の授業を履修していた。ところが、2年生の夏からアルバイトやふらふら遊び歩く方向へシフトが始まり、3年生に進級する頃には、規定の単位取得に達していないという現実に向き合うことになった。いやとにかく、あのABCDの数と数字の低さには驚いた。それでも性懲りなく、友達と遊びに行ったり、海外旅行もしたりはしていたから、ゆるさに歯止めがかかるということはない時代だった。

そうこうしているうちに、大学の4年になる頃には、履修した教職課程での単位不足がたたり、教育実習ができないということになる。
しかしながら、僕はあまりそれを深刻に受け止めてはいなかったし、いつか大学を卒業した後に数年が経ち、思い出した時に聴講生として大学に戻り、実習だけでもできたらいいな、ということを考えていた。

だから、教職課程の講義には毎回出席をしていたし、何より、教授、講師の話が面白かった。「対人」としての仕事をしている人たちは、基本的に話が上手いし、自分の考えに強烈な基盤を持っている。
それに、僕がアルバイトのない日に夜間の時間帯で教職の講義をとっていた。そこに集まってくる人たちの顔ぶれと話を聴くのも面白くて、出席が止まらなかったのではないかと思う。また、ワークショップ形式のような感じで講義をする先生もいて、ペアワークやグループワークも新鮮だった。

そのようなわけで、教育実習はあきらめたものの、教職の科目は単位を少し取得して卒業となる。もうすぐ大学生活も終わりだ、という時期に演習でお世話になった教授から、以下のような言葉をかけられた。

「先生にはなれなくとも、ここで表現の場を得られたじゃありませんか。あなたにしかない表現の手段を学んだじゃありませんか」

毎年春が来て、桜咲くころになると、この言葉を思い出す。
具体的に、世の中に貢献する術を持たなかった、知らなかった僕にとって、また自分が立脚している現在地を知らなかった僕にとって、次の段階へ移るための良い言葉であったと思う。養成講座での授業をする上で、これだけが重要なキーになっているわけではないが、いくつかの要素が集まり微妙に組み合わさっている中のどこかに位置を占めている。

日本語教師の養成講座を受講し始めていた頃、おそるおそるという感じで模擬授業をこなし、人前で話すことがまずできるようになれれば、と言っていた人たちも、教育実習が終わる頃には「私も日本語の先生になりたくなってきました」と話しに来てくれる。

僕としては、人が時間をかけて変われる場所、自分を見つけられる場所が確保され、約束されている世の中は、やはり周囲のために役立つ人を生み出す社会でもあると、そう信じている。



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